座間コミニティー

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◆正しい者の盾

2012年01月13日 13時39分28秒 | 聖書

彼は正しい者のために、すぐれた知性をたくわえ、
正しく歩む者の盾となり、……        (箴言二7)

「神が私の盾になってくださる」とは、何というすばらしさでしょうか。私の友人で、胸ポケットに入れていた定期入れの中の家族の写真に敵の弾丸が当たり、危機一髪そこで玉が止まって助かった男がいます。ところが、神が盾になってくださるなら、四方八方完全防備です。
私たちの人生は、実に四方八方から飛んでくる矢・鉄砲玉・ミサイルの集中砲火の中を行くようなものではないでしょうか。
私の家庭は今、ほんとうに平和で楽しい家庭です。みんな健康で、子どもたちも素直に神に従っています。私たち夫婦もまあまあ仲がいいほうです。八十二歳のおばあちゃんまで元気で、野菜づくりばかりか、ご近所のお年寄りたちを慰めたり助けたりしています。しかし私は、こう思うのです。きょうにも子どもの一人が病気になるか、あすおばあちゃんが寝たきりになるか、またいつ私が収入源を失うようなことがあるかは分かりません。罪深い弱い私たちですから、夫婦の仲にひびが入ることも考えられます。そんなことの一つでもあったら、たちまち私の家庭は大きく変わるでしょう。平和も愛もぐらつくでしょう。人間とは弱いものです。ですから、毎朝夫婦で祈る時、毎晩家族と祈る時、ひしひしと感じるのです。今あるのは、けっして私がりっぱだからとか、みんなががんばっているからでもなく、神のあわれみ・恵み・お守りだということを!
神は「正しく歩む者のために盾となってくださる」と書いてあります。この正しいとは、けっして、自分で正しい行いをしているとか、りっぱに自分ががんばっているとかいうことではありません。「正しく歩む」とは、神を知り、神を恐れ、神に信頼し、神にたよって歩むことです(ヤコブ四7810参照)。

 


◆船団をつくり……行こうとしたが、行けなかった。

2012年01月13日 13時38分09秒 | 聖書

船団がエツヨン・ゲベルで難破したからである。(Ⅰ列王二二・四八)

ソロモンの船は無事に帰ったが、ヨシャパテの船は黄金の国へは着かなかった。用件も同じ、場所も同じであるが、摂理によって、ソロモンは栄え、ヨシャパテの望みは水泡に帰した。しかし偉大な支配者であられる神は、双方に対して善であられ、賢明であられる。
今朝、私たちはこの聖句を考え、エツヨン・ゲべルで難破した船と、この世の祝福をもたらしたソロモンの船のために、主の恵みをたたえたい。私たちは、自分だけが激しい試練に会っているように考えて、自分の損失をつぶやいたり、他人の成功をねたんだりすることのないように注意したい。ヨシャパテのように私たちの計画が失望に終わったとしても、主の目には尊いものであることがあり得る。
ヨシャパテの失敗の原因は、神の民の多くが経験する苦悩の根源となっているものであるから、よく注意しなければならない。それは、彼が罪ある一族と同盟を結んで罪人の仲間になったということである。歴代誌第二、二〇章三七節において、主は一人の預言者を送って「あなたがアハズヤと同盟を結んだので、主はあなたの造ったものを打ちこわされました」と言わせておられる。これは彼を祝福してきた父なる神の懲らしめであった。このことは、私たちの今朝の聖句のすぐ後、ヨシャパテが、自分の家来に、悪い王の家来とともに船に乗ることを禁じていることでもわかる。
ヨシャパテの経験が、多くの民に、不信者と事を共にするなという警告となることができるように。多くの悲惨な生涯は、この世の人々と結婚したり、またその他の事を共にすることから生じている。
ああ、私たちが主を愛し、主のように聖潔で、悪も汚れもなく、罪人から聖別されていることができるように。もしそうでなければ、私たちは、「主はあなたの造ったものを打ちこわされました」という声をしばしば聞くことになるだろう。

 


出エジプト記30章22-33節

2012年01月13日 13時35分05秒 | 聖書

30:26 「この油を次のものにそそぐ。会見の天幕、あかしの箱、30:27 机とそのいろいろな器具、燭台とそのいろいろな器具、香の壇、30:28 全焼のいけにえのための祭壇とそのいろいろな器具、洗盤とその台。30:29 あなたがこれらを聖別するなら、それは、最も聖なるものとなる。これらに触れるものもすべて聖なるものとなる。」  モーセは最上の香料と、他のオリーブ油などで、主が命じられたように調合したものを作れと命じられました。それは「聖なるそそぎ油」でありました。注ぐというのですが、何に注ぐのかと言いますと、神殿で用いられるいろいろな器に注ぐのでした。  ここではその油を注ぐ対象が、祭司のみではなくて、器にも注がれていることが語られています。それは、主の前で、主に仕えるために用いられる器も、聖められる必要があることを語っているのです。主のために用いられるのですから、聖くされることが求められたのです。  私たちも主のものとして、主の前に聖くあるようにと告げられています。身も心もイエス様によって聖められて、主の奉仕をするのです。


●裁判例の意義●

2012年01月13日 13時17分04秒 | 労働法

労働トラブルに関する裁判例は、そのトラブルを法律上どのように考え、どのような結論を導き出したのかを確認することができます。トラブルに遭遇した場合、すぐに思いつくのが「労働基準法」ですが、労働時間と残業代に関するもの以外については、おそらくこの法律だけでは判断できません。多くのトラブルは民法や労働契約法などの様々な法律を、トラブルの実態に合わせて柔軟に解釈することで一つの考え方を導き出します。つまり法律だけを眺めていても、大半のトラブルには解決の道筋すら見えてきません。そこに一つの指針を示しているのか裁判例です。トラブルを考える上で、裁判例を欠かすことはできません。ちなみに判例という言い方もあります。判例は通常最高裁判所の裁判例を指しています。これはその後の裁判の判断指針となりうるような、重要な考え方の枠組みとしての意味があります。地裁などの下級審については「裁判例」という言い方をします。このように判例は、現実に即した法律、という意味があるのです。