座間コミニティー

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レター・泉教会0111

2012年01月11日 11時03分27秒 | 聖書

(新しく来られた方のために、3年サイクルで同じ内容を繰り返します)

「幸せなら手をたたこう」という歌がありました。歌手の坂本九(故人)が歌ったこの歌は、東京オリンピックを契機に、世界中で歌われるようになりました。さて、この歌の作詞者は早稲田大学の木村利人さんで、クリスチャンです。大学生であった頃、日本のYMCAを代表してフィリピンの農村でワークキャンプに参加しました。その村は、しかし、戦争中、半日ゲリラがいるということで日本軍が村民を教会に押し込め、火を放って皆殺しにしたという村だったそうです。現地の人から次々、同じような話を聞かされた。いまだに激しい反日感情があったのです。そういう中でも、しかし聖書を読み合う仲間が与えられ、やがて、赦しの言葉を聞くようになっていったのです。すさまじい半日感情を持っていた村の人たちが、次第に心を開き、親切を態度で示してくれるようになったことに本当に感動したのです。そして思ったのは、我々はキリストにあって一つ。現在の平和の幸せに感謝し、二度と戦争を起こしてはならないということでした。たまたま、村で子どもたちが歌っていたスペイン民謡が心に残り、その曲に、詞をつけた。聖書の言葉「すべての民よ、手を打ち鳴らせ」(詩編47:1)がヒントになり、態度で示してくれた村の人たちに感謝をこめ、「幸せなら手をたたこう、幸せなら態度でしめそうよ」という詞になったのです。初めは「幸せなら祈りましょう、アーメン」という言葉もあったそうです。早稲田の学生たちが歌っていたこの歌を、新宿の歌声喫茶で坂本九のディレクターが聞きつけ、レコード化、東京オリンピックではソ連の体操チームが入場歌として使った。世界的な流行歌になったのです。平和の喜びを、態度に示すことが、いよいよ大事な時代になったと思います。キリストの言葉に「平和を実現する人々は、幸いである」とあります。木村さんやフィリピンの人たちのように、私たちも共に聖書を読み、和解に導かれ、そして、共に平和のために力を合わせる世界を作りたいと思います。


出エジプト記30章11-16節

2012年01月11日 10時55分00秒 | 聖書

30:16 「イスラエル人から、贖いの銀を受け取ったなら、それは会見の天幕の用に当てる。これは、あなたがた自身の贖いのために、主の前で、イスラエル人のための記念となる。」  主がモーセに命じたことは、イスラエルの民が自分の罪のあがないのために、聖所のシケルで半シケルを神殿に納めるということでした。その時に、お金持ちも、あるいは、貧しい人も同じようにその同じ金額を納めよと告げています。一見、豊かな人は多く、また貧しい人が少なくというのが普通のようですが、ここでは、金額が非常に少ないということから、そうした金額のことに重点を持っているのではないことがわかります。この銀が何に使われるかというと、それは天幕の維持に当てられたことが語られています。そのことから、神殿での働きの維持は、主にあるものが皆でするものだということが、ここに明らかにされています。教会の働きも同じです。ある特定の人々が奉仕をするのではなくて、それぞれの人が、主にあって同じ心で、同じ主に奉仕をするのです。


◆銀を求めたように

2012年01月11日 10時45分44秒 | 聖書

もしあなたが悟りを呼び求め、
英知を求めて声をあげ、
銀のように、これを捜し、
隠された宝のように、これを探り出すなら、
そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、
神の知識を見いだそう。         (箴言二3―5)

きょうの聖書のことばは、神を見いだすこと・神の知識を見いだすことを、銀を掘り当てることにたとえています。
昔は、日本でも中国でも、金よりも銀のほうが尊ばれ、値打ちがありました。今でも金座よりも銀座の名が残っていますし、金行ではなく銀行ということになっています。
銀を掘るのは大変な仕事でした。銀のある所をまず見つけるのが大変ですし、掘るのも取り出すのも、そして精錬するのも大変でした。しかし人々は、一山当てようとそれこそ血まなこだったのです。なぜかといえば、掘り当てればそのものズバリの金もうけですから、こんなすばらしい仕事はありませんでした。ある人は、このくらいもうかる仕事は、ほかにどろぼうがあるくらいだと言いました。昔の経済界の決め手は銀でした。銀を掘り当てればオンの字。ですから、人々は山に分け入り、地中をはいずりまわって銀を捜し求めました。
人生のほんとうの決め手は、「神」であり、「神の知識」です。神が全世界を支配しておられます。このお方を知り、このお方のもとで生きることです。神は、この私を愛していらっしゃる、そのことを知って、神の愛に満たされて生きることです。これこそ、豊かな力強い生き方といえましょう。
ですから、昔の人が銀を捜し、銀を探り、掘り求めたように、私たちもまた、まことの神を求めるべきです。心に、神を知るべきではないでしょうか。

 


◆根を張らないで、ただしばらく続くだけです。

2012年01月11日 10時42分03秒 | 聖書

(マルコ四・一七)

たましいよ。今朝はこの聖句の光によって自らを顧みよ。おまえは喜んでみことばを受け、おまえの感情は熱くなり、また深い印象を受けた。しかし注意しなければならない。耳でみことばを聞くのと、イエスをたましいの中に受け入れることとは全く別のことだ。浅薄な感情が内部のかたくなな心に伴うことは、ありがちなことである。みことばを聞いて深い印象を受けたとしても、それが必ずしも永続するとは限らない。
このたとえのうち、ある種は、岩の上の土が薄く盛られた所に落ちた。種が根を下ろそうとし始めた時、その生長が堅い岩によって妨げられた。一方では、若芽を高く伸ばすことに力を尽くしたが、根から養分を取って内側を潤すことができなかったので、枯れてしまった。
これが私の場合ではないだろうか。内にいのちがなく、肉においてのみ見えを飾っているのではないだろうか。よい生長は、上と下に同時に行われるものである。私は、イエスに対する真実な忠誠と愛に根ざしているだろうか。もし私の心が恵みによって和らげられ、また肥やされていないならば、よい種もしばらくは発芽するかもしれないが、ついには枯れてしまうことになる。その種が、岩のごつごつした、砕かれていない、きよめられていない心の中に栄えることはできないからである。
ヨナのとうごまのような、急に生長し、すぐに枯れてしまう信仰を恐れよう。私は、イエスの弟子であることの価値を考え、特に御霊の力を感じ、そうして心のうちに、永遠に衰えない種を宿そう。もし、私の心が生まれつきのままにかたくなであれば、試練の太陽が照りつけ、またかたくなな心は、太陽の熱がさらに強くむき出しの種に注がれる助けとなってしまう。そして私の信仰はまもなくなくなり、恐ろしい失望に陥ることになろう。
ああ、天上の種蒔く人よ。まず私を耕し、それから真理を私のうちに蒔いてください。そして、豊かな刈り入れを、あなたにささげることを得させてください。