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◆聖なるささげ物に関しての咎……。

2012年01月08日 10時29分32秒 | 聖書

(出エジプト二八・三八)

このみことばによって、どれほど驚くべき事実が暴露されたことだろう。この悲しい現実を見つめるなら、私たちは謙遜にされ、また、教訓を与えられる。
礼拝における罪、偽善、形式主義、不熱心、不敬虔。礼拝の時、私たちの心は迷い、神を忘れている。なんと多くの罪が存在することか。主のためになす私たちの働きのうちに、尊大さ、利己心、不注意、怠慢、不信仰などの驚くべき多くの汚れがある。私たちの個人的な礼拝にあっても、放縦、冷淡、怠慢、不活発、虚栄など、まるで泥が山のように積み重なっているようだ。これらのものをよく観察すると、見かけよりさらに悪いことがわかる。
ペイソン博士は、弟に送った手紙でこう述べている。「私の伝道地は、ちょうど私の心のように、まるで怠け者の庭だ。さらに悪いことは、その両者をきよめようとする私の思いが、高慢か、虚栄か、または怠惰から出ていることである。私はこの庭に繁茂した雑草を見て、それを取り除こうと熱烈に願っている。だが、なぜそう願うのか。動機は何であろうか。庭を散歩しながら、『うちの庭は、なんとまあ手入れが行きとどいているのだろう』とひとり言を言うためかもしれない。これは高慢である。あるいは、隣人が垣根越しにのぞいた時、『お宅の庭は立派ですね』と言ってもらいたいためかもしれない。これは虚栄である。または雑草取りに手がかかるから、根絶やしにしたいと思っているのかもしれない。これは怠惰である。私たちが聖潔を願う時すら、その思いは悪しき動機により汚されがちである。少し眺めていると、美しい緑の芝生の陰に毛虫が隠れていることがすぐにわかる。」
大祭司が聖なるささげ物に関しての罪を担った時、その額には「主への聖なるもの」と書いてあった。このことはなんと喜ぶべきことか。そのように、主イエスは、私たちの罪を担われる時、私たちの汚れを神の御前に提出されず、ご自身の聖潔をささげてくださるのである。ああ、信仰の目をもって、私たちの偉大な大祭司を見る恵みが与えられますように。

 


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