快楽を愛する者は貧しい人となり、
ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。(箴言二一17)
このみことばを読むと、イエス・キリストの「放蕩息子のたとえ話」がすぐ思い起こされます。お父さんから遺産を先取りし、大金をふところにして町に行き、たちまち酒色の奴隷となり、肉の快楽のために金を湯水のように使いました。そして金が尽きた時、彼は何もかも失ったことに気がついたのです(ルカ一五11―16参照)。「放蕩息子のたとえ」を引くまでもなく、私たちのまわりに、たくさんの実例が見られます。「歓楽極まりて哀情多し。」二日酔いの苦しさどころではありません。快楽追求にふける快楽第一主義のむなしさとその結末のみじめさは、実に明らかです。
「快楽」と訳されたシムハーというヘブル語は、一五節では「喜び」と訳されています。喜びとは、人生の幸福と祝福を象徴することばではないでしょうか。喜びを好まない人はありません。快楽を好むのと喜びを求めるのと、どこが違うのでしょうか。どこから狂ってくるのでしょうか。
聖書は、人の幸福の三本柱のような愛も平和も喜びもみな、人生の果実だと言います。パウロはガラテヤ人への手紙の中で、愛・喜び・平安……は、聖霊の実だと言っています。
ほんとうの喜びが欲しければ、自分の欲求だけで生きる生き方から離れ、神に従い神を待ち望む生活をするべきです。神につながって初めて、喜びの実が実るのです。イエス・キリストは言われました。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。……そういう人は多くの実を結びます」(ヨハネ一五4―5)。神とつながっていなければ喜びの実は期待できないのに、いのちのないものの中に快楽を追求していく。――ここから狂いが出るのです。電信柱にリンゴがなるのを期待するようなまねは、やめなければなりません。
ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。(箴言二一17)
このみことばを読むと、イエス・キリストの「放蕩息子のたとえ話」がすぐ思い起こされます。お父さんから遺産を先取りし、大金をふところにして町に行き、たちまち酒色の奴隷となり、肉の快楽のために金を湯水のように使いました。そして金が尽きた時、彼は何もかも失ったことに気がついたのです(ルカ一五11―16参照)。「放蕩息子のたとえ」を引くまでもなく、私たちのまわりに、たくさんの実例が見られます。「歓楽極まりて哀情多し。」二日酔いの苦しさどころではありません。快楽追求にふける快楽第一主義のむなしさとその結末のみじめさは、実に明らかです。
「快楽」と訳されたシムハーというヘブル語は、一五節では「喜び」と訳されています。喜びとは、人生の幸福と祝福を象徴することばではないでしょうか。喜びを好まない人はありません。快楽を好むのと喜びを求めるのと、どこが違うのでしょうか。どこから狂ってくるのでしょうか。
聖書は、人の幸福の三本柱のような愛も平和も喜びもみな、人生の果実だと言います。パウロはガラテヤ人への手紙の中で、愛・喜び・平安……は、聖霊の実だと言っています。
ほんとうの喜びが欲しければ、自分の欲求だけで生きる生き方から離れ、神に従い神を待ち望む生活をするべきです。神につながって初めて、喜びの実が実るのです。イエス・キリストは言われました。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。……そういう人は多くの実を結びます」(ヨハネ一五4―5)。神とつながっていなければ喜びの実は期待できないのに、いのちのないものの中に快楽を追求していく。――ここから狂いが出るのです。電信柱にリンゴがなるのを期待するようなまねは、やめなければなりません。