なまけ者は冬には耕さない。
それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない。(箴言二〇4)
「冬には耕さない。」――辛らつなことばだと思います。私は、福島県の山中の農村で二年間暮らしました。多くの農家の方やいろいろな方とも友人になりました。その中で、種もまかずに取り入れをしようとしている人は一人もいませんでした。それなのに、この人生には、冬に耕さず、春に種をまかず、夏に草取りをせずにいて、人生の収穫を期待し、収穫がないとつぶやいている人が何と多いことでしょう。
パウロは、「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」(Ⅱコリント九6)と言いました。冬に耕しても、春に種をまいても、刈り入れがない凶作の時も、人生にはあります。悲しい人生の現実です。しかし、耕さずまかず草取りもしない時、収穫があるはずはありません。
種をまき、水を注ぎ、草を抜くのは、人のわざです。時には、苦しい労働です。しかし、苗を生長させるのは神です。徹底的に、神に任せ、神によりたのみ、神に従い、永遠をめざして神と共に働く。――これが、人生の根本の姿ではないでしょうか。
育つのには、時がかかり、忍耐がいります。しかし、やがて必ず神がなしてくださるという信仰に生きたパウロは、こう言いました。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリント四17―18)。
目に見える今のことだけに対応していくと、人生のなまけ者になってしまいます。
それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない。(箴言二〇4)
「冬には耕さない。」――辛らつなことばだと思います。私は、福島県の山中の農村で二年間暮らしました。多くの農家の方やいろいろな方とも友人になりました。その中で、種もまかずに取り入れをしようとしている人は一人もいませんでした。それなのに、この人生には、冬に耕さず、春に種をまかず、夏に草取りをせずにいて、人生の収穫を期待し、収穫がないとつぶやいている人が何と多いことでしょう。
パウロは、「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」(Ⅱコリント九6)と言いました。冬に耕しても、春に種をまいても、刈り入れがない凶作の時も、人生にはあります。悲しい人生の現実です。しかし、耕さずまかず草取りもしない時、収穫があるはずはありません。
種をまき、水を注ぎ、草を抜くのは、人のわざです。時には、苦しい労働です。しかし、苗を生長させるのは神です。徹底的に、神に任せ、神によりたのみ、神に従い、永遠をめざして神と共に働く。――これが、人生の根本の姿ではないでしょうか。
育つのには、時がかかり、忍耐がいります。しかし、やがて必ず神がなしてくださるという信仰に生きたパウロは、こう言いました。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリント四17―18)。
目に見える今のことだけに対応していくと、人生のなまけ者になってしまいます。