トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

池の除藻は終わらない・・・

2022-09-15 | 感じるままの回り道
 先日の事、タナゴの繁殖確認のため糠瓶を仕掛けに寄った上の池にまたまたオオカナダモの姿が数カ所確認できた。今期はは既に3~4回の除藻を行っているのだが根絶はまだ目途が立たない。水の濁りが無ければ茎立った場所は容易に判明するし、その周囲を重点的に貝掘り熊手で泥ごと浚って根まで引き上げればその場所は根絶できようが藻の茎を辿って発根部までたどり着かないうちに「プツッ」切れてしまうのが差し障って次の生育につながる。
 水流の無い池なので茎を丈夫にする必要もなく水が濁っている事もあり日光を求め徒長気味なので更に切れやすい。こんなことを繰り返していると小生の脳血管やら心臓血管やらが「プチッ」と行く恐れも無きにもあらずなのだが已むを得ん。

 浮かしたバケツに抜き取ったオオカナダモを入れつつ今回の作業は終了したのだが冬季までにもう1~2回の除藻は必要だろう。世間の除毛はVIOとか言うらしいが「バカクソ、いつ終わる!」が小生のVIOである。それはともかく「池の除藻は終わらない」のフレーズは「村の女は眠れない」と言う詩題から流用したのだが若い頃にたまたま目にした詩なのに題だけは脳裏に残っている。
 と言うのも貧しい寒村、まあ、寒村は貧しいに決まっているのだが男衆は全て貧しい故に出稼ぎで不在な村なのだ。その夫がいない冬ごもりの孤独が詩になっていたのだが若い頃だっただけに少しばかり艶めかしい感じを受けた詩でもあった。

 似た様な情景は森山良子が歌った「風に吹かれて おとうが消えた 峠に向こうに霞んで消えた 村の畑は雪の下 足んね足んねで 出稼ぎ暮らし・・・」に想い至るが現代の生活の拠点は郷里には無く都会で出稼ぎならぬ派遣やパート、臨時雇い等々の生活基盤の無い不安定な世相が広がった。代わりに出稼ぎは外国人が占めるようになって新しい奴隷国家みたいな様相でもある。
 こういう社会に君臨する輩はオオカナダモみたいなもんで、健全化させようと思ってもプチプチ身を切って難を逃れしぶとく再生して来るのだった。姥捨て山のお爺は眠れない。オオカナダモ投入されて眠れない。悪い奴ほどよく眠る・・・。写真を見ていてビビビ!と来たのはオオカナダモをVの字形に整え熊手とバケツを並べれば造形のVIOになるが遅きに失したY。これこそ名実と共にVIOとなった秋の芸術作品だったのにい。

 でもなあ、どうしてなして「姥捨て山」だけで「爺捨て山」伝説は無いのだろうか。小生が耄碌した頭で回路が繋がった瞬間に思った事は「男の方が早死」するのは統計的に正しく、結果として「爺捨て」せずとも完結するからに他ならないのだろうと言う事だった。男って可哀想、ストレスで若禿げしつつ働いても年金は減らされるばかりなんだもん。悶絶悲憤死する訳である。色即税喰 喰即税色・・・。