演出家の蜷川幸雄さんといえば、稽古中の灰皿である。気に入らないと、役者に灰皿を投げる。靴を投げる。怒っているようで、実は役者に当たらぬように投げていたそうだ。野球部出身でぶつけない自信があった▼もう一つ、守っていたことがある。戯曲には筆を入れない。「ぼくらが非情の大河をくだる時」などの劇作家、清水邦夫さんが亡くなった。八十四歳。蜷川さんが戯曲を直さないと決めたのは、タッグを組んだ清水さんとの出来事のせいらしい▼「真情あふるる軽薄さ」の時だから一九六九年ごろか。台本を直そうと二人でホテルに泊まり込んだ。夜中に蜷川さんが目を覚ますと大きな音がする▼「ダメだ、ダメだ、ダメだ」。清水さんが部屋の中を走り回っていた。劇作家は言葉を生み出すためにこれほどまでに苦悩しているのか。以来、台本に手を入れまいと決めた▼「鴉(からす)よ、おれたちは弾丸(たま)をこめる」「泣かないのか?泣かないのか一九七三年のために?」。読み返し、清水さんの「ダメだ、ダメだ」で練り込まれたせりふに圧倒される。七〇年安保と挫折。当時の新宿の、日本の若者の熱と痛みがこれでもかと閉じ込められ、臭いまで放っている▼コロナ禍で劇場公演のフライヤー(ちらし)も大幅に減ってしまった。小劇場の若者たちは今どうしているのだろう。演劇の危機の時代にその人は去った。寂しい。
星新一さんの作品には未来を予言したかのような内容が少なくない。この予想もまた現実になるか。「余暇の芸術」(『未来いそっぷ』収録)というショートショート。「技術革新がめざましく進んだおかげで、労働時間が短縮された。いまや週に休日が三日」…。週休二日ですらなかった、一九七一年に「週休三日」の世界を描いている▼お話では休日が増えた結果、誰もが美術や詩や文学など趣味にいそしむようになる。ここまではいいのだが、皆、その成果を見せたくて、趣味の発表会や展覧会をひんぱんに開く。まわりの人間は付き合いで見に行かざるを得ず、「休日の全部が、それらを回ることでつぶされてしまう」。休みが休みにならぬとは皮肉が効いている▼まさか、そんなことにはなるまいが、希望に応じて週休三日を選べる「選択的週休三日制」の普及に向けた議論を政府が始めたそうだ▼単純に休みが増えれば育児や介護などとの両立もしやすい。土日に加え、水曜日を休みにすれば、憂鬱(ゆううつ)な月曜日の朝も「明日もう一日行けば、休みだ」と思えるかと気の早いことを考えてみる▼問題は給料で、週休三日を選んだ場合の給料が減る仕組みでは普及は望めず、このあたりの研究が必要だろう▼給料が減った分、増えた休日はアルバイトでへとへとに…。そんなオチなら星さんの作品よりも皮肉が効きすぎている。
お金を稼いだ人の心理をさぐる実験があるそうだ。使うのは駒を進めながら財産を増やすゲーム。コインを投げて選ばれた金持ち役は、貧乏人役よりはるかに好条件でプレーできる。一貫した傾向が表れるそうだ。金持ちは声が大きくなり、自分の成功を誇りたがる。単なるツキのおかげなのに、勝因は自分の力だと答えるそうである▼人の心は金を稼いだ体験を自らの優秀さと解釈するようだ。実験を紹介しているのは、世界の格差社会の構造などを説いて警鐘をならした仏経済学者ピケティ氏のベストセラーの映画化作品『21世紀の資本』である▼富める人はさらに富み、貧しさを抜け出すのは困難に。そんな世界の格差拡大に映画は、さまざまな説明を加えるが、稼いだ人の心理も関係あるようだ▼米誌フォーブスが恒例の長者番付を公表した。新型コロナウイルス流行が世界にどんな影響を与えるか、興味を持ってみたが、富裕層の資産は膨らんでいた。資産十億ドル以上の人は前年より六百人以上増えた。急増という▼十数時間に一人、このレベルの富豪が生まれた計算だ。各国のコロナ対策の金融緩和策が影響したらしい。欧米の大富豪には慈善家も多いが、すでに富んでいる人の資産は一段と拡大した▼コロナ解雇のニュースをわが国に限らず聞く。コロナ禍は格差をさらに拡大させているようだ。富豪の心理も気になる。