作家、永井荷風の筆名は「お蓮(れん)さん」という女性の名に由来するという話がかわいい。十六歳の時、入院した病院で、世話をしてくれた看護婦さんの名が「お蓮さん」▼少年は恋した。この恋はかなうことはなかったが、それを筆名とした。蓮(はす)の別名である「荷」。それになびく「風」だから荷風なのだろう▼筆名や芸名にはそれぞれに思いや逸話が隠れているが、関東大震災の九月一日になると思い出す芸名がある。荷風とは趣が異なり、ロマンチックな由来はない。演出家、俳優で、日本の現代演劇に大きな功績を残した「千田是也(せんだこれや)」。その芸名である▼千の田に正しさを意味する是。縁起の良い名にも見えるが、その実、芸名に隠れているのは傷ついた記憶である。記憶とは震災後の朝鮮人虐殺事件である▼朝鮮人が井戸に毒を投下するというデマが流れ、日本人が朝鮮人を襲った。その人は朝鮮人に間違えられ、千駄ケ谷で襲われた。諸説あるが、千田とは千駄ケ谷。是也とは「コリア」であり、襲った人間が発した「コリャー」という罵声なのだという▼関東大震災の発生したこの日は防災の日である。自然災害への備えを欠かすまい。避難経路や備蓄品の確認に加えて、「千田是也」の名もどこかにとめ置きたい。災害に取り乱した人間はデマを信じやすく、悲しいことに残虐な行為にも走りかねない。弱き心にも備えを。