新聞では女性を特別視する表現や男性側に対語のない女性表現はなるべく使わないルールがある。性別を理由にした社会的差別を助長しないための配慮である▼試しに、手元の「記者ハンドブック」に掲載されている【女性を殊更に強調、特別扱いする不適切表現】を書き写してみる。<女傑、女丈夫、男勝り、女だてらに、女の戦い…>。会社支給の記者用パソコンで、これらの文字を打ち込めば、注意マークが表示され、その表現は使えませんよと教えてくれる▼時代は大きく変わったが、当時、その人に対しては、そういう表現や見方があったことは想像に難くない。亡くなった登山家の田部井淳子さん。七十七歳▼一九七五(昭和五十)年、世界最高峰のエベレストの登頂に女性として初めて成功。世界七大陸の最高峰を制覇した初の女性登山家である。「女だけでエベレストなんて、できっこない」「女だてらに」「女のくせに」-。エベレストに挑むに当たって多くの人にそう言われたと「それでもわたしは山に登る」(文春文庫)の中に書いている▼当時の田部井さんが相手にしていたのはエベレストと、もうひとつ、「女のくせに」と言ってはばからぬ社会風潮だったのだろう▼いずれの高き山にも道しるべを残した。そして「女だてらに」などの表現を、体を張って遠い昔の「遺物」に変えた女性の一人である。
エベレストの女性初登頂[編集]
- ヒラリー・ステップを見たときに、髪の毛が逆立ったと表現した。
- エベレスト登山の費用は当時、総額4300万円(自己負担150万円)。準備期間は実質4年。荷物を軽くするために乾燥食品を持参した。高所訓練中、隊長の久野英子が一時帰国、副隊長だった田部井に重圧がかかった。テントを飲み込んだ雪崩にあったにもかかわらず生還、下山をせずアタックすることを主張し計画は続行された。
- 企業からの献金を使わないという方針転換で行われたので、予算が減少、当初2回アタックの予定が1回に変更になった。
エピソード[編集]
- 登山で「もうダメだ」と思ったときが三度あり、いずれも雪崩に巻き込まれたときである。一回目はエベレストの第二キャンプ(6500m)でテントごと雪崩に埋められ、二度目は1986年にポベーダ山(トムール)の雪崩で600m流され、三度目は、その夜に再び近くを通過した雪崩の爆風に襲われ、テントごと吹き飛ばされた[5]。ポペーダ山では1999年に登ったときにも雪崩がテントを襲ったが、早朝に出発していたため助かった[5]。
- 1969年冬に登った谷川岳一ノ倉沢凹状岩壁は、エベレストよりもつらかったと回想している[6]。
- 旅行会社が企画する登山ツアーやTV、雑誌の登山企画の出演によって謝礼は得ているものの、自分が求める登山ではスポンサーなどによる資金を得ずに自身でお金を支払っていること、ガイド資格などを所持していないことから「登山家が自分の仕事かと言うと、そうではないと思う」とインタビューで答えている[7]。エベレスト後の登山では一切スポンサーをつけていない[8]。
田部井 淳子 (たべい じゅんこ) | |
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生誕 | 1939年9月22日 日本、福島県田村郡三春町 |
死没 | 2016年10月20日(満77歳没) 日本、埼玉県川越市 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 九州大学大学院比較社会文化研究科修士課程 |
著名な実績 |
エベレスト登頂(1975年)
七大陸最高峰登頂(1992年)
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受賞 |
グルカ・ダクシン・バフ賞(1975) |