江戸中期の人・麻田剛立(ごうりゅう)は、月の小さなクレーターが彼にちなんで「Asada」と命名されたほどの天文学者だ▼幼いころから天文を好み、長じて藩医となったが、天文学に集中するため脱藩して、市井で清貧な学究生活を送った。井上ひさしさんは、伊能忠敬の歩みを書いた小説『四千万歩の男』で、麻田の高弟に、こんな言葉を吐かせている▼「麻田先生ぐらい真ッ正直な方も珍しいのではないでしょうか。たとえば門人のひとりが『鮮魚料』として金を贈るとすると、先生は必ずその金で魚を求められる、決して他へ転用はなさらぬ」▼麻田は医師としても、瀕死(ひんし)の藩主を自ら調合した妙薬で救うほどの腕だったが、現代のセンセイ方の「転用病」を目にしたら、ぶぜんとして匙(さじ)を投げるだろう。地方議員らによる政務活動費の不正利用だ▼政務活動費は議員活動には欠かせぬ調査研究などのため、税から支給される。その公金を白紙領収書を使って何百万円も架空請求し、「遊ぶ金」に転用する。カラ出張をしたり、視察と称して派手な宴会をしたり…。そんなセンセイ方が税の使い道を議論していたというのだから、あまりに悪い冗談だ▼富山市議会では、不正の発覚で議員辞職が相次ぎ、補欠選挙をしなくてはならぬ事態となった。選挙にかかる費用は一億二千万円。これでは、税金がいくらあっても足りぬはずだ。
麻田 剛立(あさだ ごうりゅう、享保19年2月6日(1734年3月10日) - 寛政11年5月22日(1799年6月25日))は、江戸時代の日本の男性天文学者である。
経歴[編集]豊後国杵築藩(現在の大分県杵築市)出身。元々は綾部(あやべ)姓であったという。幼名は庄吉良で、名は妥彰(やすあき)。初め璋菴(しょうあん、表記は「正庵」とも)、後に剛立と号した。
幼い頃に影の動きから太陽が動いているのに気づき、天体に興味を持つ。その後『傷寒論』などを読み、独学で天文学・医学を学んだ。
またケプラーの第3法則を独自に発見し、自著『五星距地之奇法』に記している[1]。既にケプラーの法則については漢籍によって日本にも伝来している時代であり、後述の通り後年にそのケプラーの法則を使っての研究もしていることから、この麻田の独創については疑問視する意見もある。ただ、麻田は惑星の軌道を円と考えて「惑星の公転周期の2乗が軌道の半径の3乗に比例する」としており、つまりこの時点でケプラーの第1法則を知らなかったため、事実誤認が含まれているとはいえ、麻田の独創性については間違いは無い。
宝暦13年(1763年)に、ケプラーの法則を用いて、同年9月1日(旧暦)の日食を予言した。この日食は当時使用されていた宝暦暦に記されていなかったこともあり、麻田の名声を高めた。
明和8年(1771年)頃に豊後を離れて(この時に脱藩したため、追っ手の目を眩まそうと改名した)大坂に行き、そこで医師を生業としながら天文学の研究を続けた。『崇禎暦書』を基盤に研究し、望遠鏡・反射鏡などの観測装置を改良し、理論を実測で確認するなど、その手法は近代的であった。
オランダから輸入した初の高倍率グレゴリー式望遠鏡によって、日本最古の月面観測図を記す。安永7年(1778年)8年後に起こる日食の情報を三浦に手紙で送った際、その月面観測図を併記した。この手紙は所在不明とされていたが、鹿毛敏夫が『月のえくぼ(クレーター)を見た男 麻田剛立』を書くにあたり資料を収集した際、現所蔵者と現物を発見した。
弟子に高橋至時・山片蟠桃・間重富らがいる。また中井竹山・中井履軒兄弟・三浦梅園とも交流した。
ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler 、1571年12月27日 - 1630年11月15日)はドイツの天文学者。