これだけ現存するランド・マークがあって、だけど不明なのが茶沢通りが何処にあったか?というかあったのか?ですかね。
古地図は現在の淡島通り、江戸時代でいう渋谷街道、の淡島交差点付近にフォーカスして拡大したものです。太子堂という地名の横、円泉寺は現存(別リポートに)ですから、この西側に上の方森厳寺のこれまた西側から伸びて来る道が”現在の茶沢通り”としてある筈なんですが、これが見当たらない。
森厳寺西側の川は”森厳寺川”と呼ばれていたのは判明しています。この上流では大原付近にあった”ダイダラボッチ”水源からのダイダラボッチ川が合流していました。これも別リポートする予定です。どうやらこの川が暗渠化した気配がありますね。
図の左下に見える八幡社、稲荷社は恐らく現在の太子堂八幡神社、若林稲荷神社(それぞれ別リポート参照下さい)、で間違いないところでしょう。従い、今の環七、若林稲荷神社の西側、はこの頃明確ではありません。まあ、それは不思議ではないんですが…
なお、左下、若林付近に見える常林寺は??本記事アップのタイミングで不明です。
当時その名前で呼ばれていた寺院が現存するとすれば、その場所に該当しそうなのは現在のmapionによれば勝光院(左の写真2枚)のみ。へえ、こちらは本院が宮の坂にあり、そこは1573年世田谷城主吉良家による中興開山とのこと、由緒があります。「せたがや百景」にも本院とその竹林がNo.27に加えられています。
と、備忘録メモは残したものの結論なしでごめんなさい、かなあ。いずれ、この勝光院の横(更には太子堂八幡神社の横)を鎌倉街道が行っていますから、これが当時重要かつ唯一の南北を行くメイン・ストリートだったのかも知れません。