大熊町に入り 右手に福島第一原発の林立するクレーンを眺めながら さらに北上し
双葉町に入る
一軒だけ営業してるガソリンスタンドを右折
約16mの津波で広大な更地になった風景を見ながら約1.5km
双葉町産業交流センターが見えてくる
双葉町復興の中核施設 町民 来訪者 企業 などなど幅広い人々が交流する場
東日本大震災・原子力災害伝承館はそのすぐ横に建っている
駐車場で車を降りると 訪れた人だろうか 幼稚園児ぐらいの子供を連れた若い夫婦がのんびりと歩いてる
後にこの風景に この時とは全く違った印象をもつ事になるのだが
伝承館は近代的で綺麗な建物
中に入ると
順路に沿って行くと 詳細な当時の記録を知る事ができる
福島第一原子力発電所は1973年に運転が開始されました
大した産業の無いこの地域では 農業従事者の多くが冬は都会に出稼ぎに出て生計を立てていたそうです
それが原発ができたおかげで一年中家族が一緒に居られるようになりました
今となれば複雑ですが まことに切ない話です
高度経済成長期が1955年頃から1973年頃ですから 乗り遅れていた特急列車にやっと乗れたといった
ところでしょうか たしか全国的に兼業農家率が高くなったのもこの時期だったと思います
時代の波だったんですね
この施設では 震災語り部講話 と言って体験者のお話を聞く事ができます
初老の女性で 当時は会社の営業職で外回りをやっていたそうです
あの日 請戸地区で担当の家々を周ってる最中に震度6強の揺れに見舞われ
お客様の高齢のご夫婦を安全な場所へ移るよう促したり
何とか会社と連絡を取ろうとしたり あたふたしながらも 仕事を続けようとしていたそうです
これは 僕にも身に覚えがあって 揺れの後暫くは途中になっていた人参の種を播いてました
それが あるお客様に こんな時に何してるんだ 早く家に帰りなさい と叱責され
我に返ったそうです
慌てて車を自宅に向けて走らせましたが すでに橋は段差ができて渡れない
そうこうするうちに津波が迫り 周りは一面の水
もうダメかと思いましたが 幸いそこまでは水が上がらず助かったそうです
震災後 何度か請戸を訪れたのですが 冷静ではいられなかった・・と
講話の後 少しお話をさせて頂いきました
話をされている姿が とても辛そうに思えたので
僕なら 嫌な事 辛い事は できるだけ思い出さない 忘れようとするのですが
繰り返し話をする事は辛くはないのでしょうか・・といった事を質問しました
今思えば 踏み込み過ぎた質問で 失礼な事をしたと後悔してるのですが
彼女は 逆なんです 話してる方が楽になるんです と
この言葉が とても重く思えました
僕も つくば市で震災を経験しましたが それでは想像もできない体験があった
TVの向こう側のニュースではなく 生の声が それを よりリアルに感じさせたのかもしれません
そして 彼女から時間があれば 請戸小学校に行く事を勧められました
当時の事がよく分かりますから との事
あとは浪江焼きそばを食べて 帰路に就こうかと思っていたのですが
彼女の話が身体に残ってもいましたので 焼きそばは後回しにして いってみる事に
続く
双葉町に入る
一軒だけ営業してるガソリンスタンドを右折
約16mの津波で広大な更地になった風景を見ながら約1.5km
双葉町産業交流センターが見えてくる
双葉町復興の中核施設 町民 来訪者 企業 などなど幅広い人々が交流する場
東日本大震災・原子力災害伝承館はそのすぐ横に建っている
駐車場で車を降りると 訪れた人だろうか 幼稚園児ぐらいの子供を連れた若い夫婦がのんびりと歩いてる
後にこの風景に この時とは全く違った印象をもつ事になるのだが
伝承館は近代的で綺麗な建物
中に入ると
順路に沿って行くと 詳細な当時の記録を知る事ができる
福島第一原子力発電所は1973年に運転が開始されました
大した産業の無いこの地域では 農業従事者の多くが冬は都会に出稼ぎに出て生計を立てていたそうです
それが原発ができたおかげで一年中家族が一緒に居られるようになりました
今となれば複雑ですが まことに切ない話です
高度経済成長期が1955年頃から1973年頃ですから 乗り遅れていた特急列車にやっと乗れたといった
ところでしょうか たしか全国的に兼業農家率が高くなったのもこの時期だったと思います
時代の波だったんですね
この施設では 震災語り部講話 と言って体験者のお話を聞く事ができます
初老の女性で 当時は会社の営業職で外回りをやっていたそうです
あの日 請戸地区で担当の家々を周ってる最中に震度6強の揺れに見舞われ
お客様の高齢のご夫婦を安全な場所へ移るよう促したり
何とか会社と連絡を取ろうとしたり あたふたしながらも 仕事を続けようとしていたそうです
これは 僕にも身に覚えがあって 揺れの後暫くは途中になっていた人参の種を播いてました
それが あるお客様に こんな時に何してるんだ 早く家に帰りなさい と叱責され
我に返ったそうです
慌てて車を自宅に向けて走らせましたが すでに橋は段差ができて渡れない
そうこうするうちに津波が迫り 周りは一面の水
もうダメかと思いましたが 幸いそこまでは水が上がらず助かったそうです
震災後 何度か請戸を訪れたのですが 冷静ではいられなかった・・と
講話の後 少しお話をさせて頂いきました
話をされている姿が とても辛そうに思えたので
僕なら 嫌な事 辛い事は できるだけ思い出さない 忘れようとするのですが
繰り返し話をする事は辛くはないのでしょうか・・といった事を質問しました
今思えば 踏み込み過ぎた質問で 失礼な事をしたと後悔してるのですが
彼女は 逆なんです 話してる方が楽になるんです と
この言葉が とても重く思えました
僕も つくば市で震災を経験しましたが それでは想像もできない体験があった
TVの向こう側のニュースではなく 生の声が それを よりリアルに感じさせたのかもしれません
そして 彼女から時間があれば 請戸小学校に行く事を勧められました
当時の事がよく分かりますから との事
あとは浪江焼きそばを食べて 帰路に就こうかと思っていたのですが
彼女の話が身体に残ってもいましたので 焼きそばは後回しにして いってみる事に
続く