『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【956】妻以外の女性との霊的な関係

2007-03-31 20:53:00 | 「白光」の教え
それともうひとつ、『ある日の五井先生』のなかに、
「白光」の講師の方が、縁があって、奥さん以外の女性の面倒を見ている場合があり、
講師として悩んでいたときに、五井氏が、全員を前にして、「赦す」とおっしゃられたそうです。

そして、五井氏が言われるには、「霊的には、その女性は、○○さんの奥さんよりも縁が深く、過去世でとてもお世話になったので、今世で、その恩返しのために生活の面倒をみているのだよ」ということでした。(p172)

★ 前世からの業の「消えてゆく姿」なのだとしたら、
頭で、ああだこうだと考えても仕方ない事で、経験として、ただやり過ごす以外には、ないのかも知れません。(^^;ゞ

【955】女性問題の悩み

2007-03-30 21:02:41 | 「白光」の教え
『ある日の五井先生』に書かれていたことなのですが、
ある会員さんが、五井先生への質問で、ご主人の女性問題の悩みを、「あの女いなかったら、あの女いなかったら、・・・・」と、相手の女性のことを責める言葉を言い続けていましたら、五井先生が、

「あんたは、さっきから『あの女、あの女』と言っているけれども、わたしはその言葉が気にいらない。
あんたにとっては、『あの女』かもしれないけれど、その女性だって同じ神の子です。

人間の世界では、とがめることは何もないのですよ。
自分をとがめることがないかわりに、他人をとがめることもないんです。
 
ところが、宗教をやっている人に限って、他人のことばかりとがめて、
自分のことはとがめない。『自分は神の子だ。自分は仏の子だ。自分はひとつも悪くない。

みんな他人が悪くて、自分はちっとも悪くない。そういうことはないですね。
他人の悪いものが映ってくるのは、
自分の業も消えてゆく姿なんですと言われたそうです。(p179)


★ 霊的にみると、女性問題や男性問題は、前世からの業の「消えてゆく姿」として起こっているようです。
肉体人間界の単純な道徳観で、良し悪しを判断できるものではないようです。

【954】哲学と宗教と、「生きる勇気」と(*^_^*)

2007-03-29 21:27:46 | 思索
昨日、池田晶子さんの『14歳の君へ(どう考え、どう生きるか)』(毎日新聞社刊)が届いたので、
昌美氏の『幸せの扉を開こう』と比べながら、どちらにより普遍的な真理(笑)が、
書かれているのかという興味で読んでみました。

池田氏の論述は、確かに、普遍的な本当のことだと思うのです。
だれが考えても、論理的には、そのようにしか考えられないことです。

他方、昌美氏の著作には、霊的な真実も含まれているので、 客観的に確認できないこともあり、
「信じる」というキーワードを使わないと、理解できない部分もあります。

それでも、私の場合は、昌美氏の著作の方が、より『勇気付けられる』のです。
ということは、私の人生にとっては、昌美氏の著作の方が「より有用」(?)なのかも知れません。

『幸せの扉を開こう』(白光出版・平成6年刊)は、白光真宏会のことを何も知らない方にも、お勧めできる本です。
印などが降りて、「白光の教え」が高度化する前の本なので、どなたにも分かり易い内容です。

【953】ヘレン・ケラー女史の魂の大きさ

2007-03-28 21:29:53 | 宗教的思索
『ある日の五井先生』の中に、ヘレン・ケラー女史の魂の大きさについて語られている箇所があり、
勇気付けられました。(*^_^*)

『ある日、筆者が、五井先生にヘレン・ケラーのことをお訊ねしました。
五井先生は、「ヘレン・ケラーの魂は凄いね。肉体なんか相手にしていないよ」とおっしゃいました。

私たちが霊界から、この地上界に生まれて来るときには、本人が背負えるだけの荷物(業)しか持ってきません。

ところが、ヘレン・ケラーのような偉大な魂の持ち主は、背負いきれないほど沢山の業、つまり自分のものはもとより、
多くの縁者たちの沢山の業まで引き受けたので、その重さゆえに肉体がつぶされてしまったのだそうです。

三重苦という境遇のなかにあって、世の多くの人々に光明を放ち続けた生き方は、
まさに聖人そのもの姿でした』(p170)

★ 人間は、ただただ「業」を背負って生まれてくる存在のであり、
その業が、どれほど大きくて困難なものであろうとも、
思い悩まないで、その時その時を真剣に生き切りさえすれば、
自分の天命を完とうすることが出来るという真理は、「生きる勇気」を与えてくれますね。(*^_^*)

【952】日米戦争には、神のみ心が働いていた(^。^?

2007-03-27 22:15:35 | 「白光」の教え
『ある日の五井先生』のなかに、3つほど興味深いことが書いてありました。

私は、太平洋戦争当時の悲惨な写真や記録を目にするたびに、
どうにかして、戦争を回避する方法はなかったのか?と、思っていました。

けれども、「真珠湾攻撃によって、なぜ日米戦争が始まったのか」という以下の文を読みまして、
霊的には納得ができました。(^^;ゞ

『五井氏が、真珠湾に行き、祈り始めたとき、ハワイの守護神が現れて、ハワイの存在意義と、
日米戦争の真実の意味を詳しく話してくれた。

真珠湾攻撃は、日本が仕掛けたものでも、米国が誘いの隙をみせて、日本に仕掛けさせたものでもない。
日米両国の業を浄めるために、そして、日米双方が真実の兄弟として、力を合わせて人類世界の進化を計るために、
神によって計画された戦いであった。

地球上に業が充ちて、どうにも破壊の方に向かうより仕方がないときには、
地球守護の神々が、地球人類の滅亡を救うために先手を打って、より犠牲の少ない、
そして、地球人類の将来の大進化のためになる方法を講じるのだ。
その一例が、真珠湾攻撃に始まる日米戦争である。』(p152)

★ 私は、三次元的な現象の世界だけを見て、悲惨とか、不幸という見方をしていましたが、
霊的な人類の歴史全体という視点で解釈すれば、「必要・必然・ベスト」なのかも知れませんね。(^。^?

【951】『「世界平和の祈り」こそ世界を救う、唯一の方法である

2007-03-26 21:48:12 | 「白光」の教え
【944】のなかの
『「世界平和の祈り」こそ世界を救う、唯一の方法である。
いや、世界を滅亡させないためには、「世界平和の祈り」しかないのである。』はとても重要だと思うのです。

先日読んだ、『ある日の五井先生』清水勇著のなかに、
『人々の「世界平和の祈り」によって、ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一された』と書いてあったのですが、
私たちの見えないところで、意識はつながっていて、個人個人の「世界平和の祈り」の意識が、
「世界」を変え、「人類」を平和に目覚めさせていくのかも知れません。

考えてみますと、『平和』は、人間の心の中にしかないのですから、
一人一人の心が平和になることによってしか、「世界」が平和になる道はないのです。

「世界平和」は、一人ひとりが、「世界平和の祈り」に目覚めることによってしか達成できないのですから、
「世界平和の祈り」こそは、世界を救う、唯一の方法なのです。

そして、このことを知っているのは、「世界平和の祈り」を知っている人たちだけですから、
私たちは、だだひたすら、祈り続けて、その波動を伝えなければならないのかも知れません。

【950】思い煩うことは、神さまを悲しませること(*^_^*)

2007-03-25 09:10:21 | 精神世界
『ライフライン』という番組で、土筆文香さんの『生かされて』というHPを知りました。
『知足日記』と同様に、「生かされている」がテーマのようです。

★ 死と隣り合わせの病になって、土筆さんは、「生かされている自分」に気付いたそうです。
「生」から「死」を見るのではなくて、「死」から「生」をみたとき、
神様によって「生かされている自分」に気付いたのです。

私たちの「時間」とは、神様から与えられた時間なのです。

人は必ず死ぬという事実のなかにあって、いま生きていることは、
「奇跡」であり、「歓び」なのです。

「強く生きるのではなくて、弱いままで生きる」という選択をして、すべてを神様に任せたときに、
『思い煩うことは、神さまを悲しませること』という真理に気付いたそうです。

『生かされて』

【949】臨終の良し悪しが、「救い」の良し悪しではない

2007-03-24 21:18:32 | 宗教的思索
NHK教育TVの『歎異抄講座』で、親鸞の言葉を紹介していました。

★亡くなりかたの良し悪しが、「救い」の良し悪しではないので、
臨終の良し悪しで、信仰心を計ってはいけないのだそうです。(^^;ゞ

信仰(宗教)は、生きている中で、『いかに、救われたのか!』が大切なのです。

白光の講話会でも、「亡くなりかたと信仰心」の質問がよくでるのですが、
親鸞の言葉を聞きいて、なるほどと思いました。

信仰とは、『今、この世でこその救い』。
『いまの救い』でなければならないのです。

【948】この肉体とは、何か(^。^?

2007-03-23 21:28:20 | 唯識
せっかく体が痛い(笑)ので、『この肉体は、何か?』という問いを、自分にしてみました。(^^;ゞ
『病んでいるこの肉体とは、何か?』という問いでも、よいのかも知れません。

知識としては、「肉体は、霊の器(船)」と言われていますが、
肉体の中から、「この肉体とは、何か?」と問うたときには、またべつの答えがあると思うのです。

つまりそれは、『私が意識したときに、「この体がある」と感じることは、何か?』という問いです。

私が「痛み」を感じる時、私は肉体を意識していて、「肉体」はありますが、
私に「痛み」がない時には、私は「肉体」のことなど、忘れているのです。
つまり、「肉体」とは、「思い(イメージ)」なのです。

もし「世界」が、「思うことによって、あるもの」(唯識)だとすると、
「肉体」を思っているときにだけ、「肉体」はあるのです。

「意識すると、いまここに、肉体がある」のです。

私の「肉体」と「意識」の関係や、いかに(^。^?

【947】母弟の『少食』の成就

2007-03-22 21:49:48 | 経験
私は知らなかったのですが、【944】の『たくさんの成就(法要)の日』には、
さらなる「成就」のキッカケがあったのだそうです。

というのは、その日は午後5時半に帰阪して、食事をしたのですが、
食事時間が早かったために、翌朝目覚めた時に、母も弟も胃もたれがなく、とても快適だったのです。
それでそれ以後、一日二食という生活を続けているのです。

時を得て、真理である『少食』が成就しわけです。(*^_^*)

そして考えてみますと、私が人類印を組んでいる人たちが、次々と「少食」になったり、
「タバコ」をやめたり(義弟)して、痛みから解放されているようなのです。

私の周りで、そういう「目覚め」が起こっているのは、
私の組んだ人類印の光が、その人の守護霊さんに届いて、働き易くなったのかも知れません。(^^;ゞ

【946】『宗教的なモノサシ(知識)』を捨てる

2007-03-21 09:53:48 | 思索
『いのち開く』のなかに、私が、気を付けたいと思える箇所がありました。(^^;ゞ

それはたとえば、私には、派手なことや高価な買い物に、宗教的な人は嫌悪感があって、
『宗教的なモノサシ』で、他人を卑下したり、自己弁護をしたりする傾向があるということなのです。

そのために、「本当に楽しいこと、嬉しいこと」などを『心の底から、喜べず、楽しめない』ことがあるそうなのです。

★確かに、そういう傾向があります。(^^;ゞ

「神から与えられた生命を、完とうする」とは、「もっと積極的で、素晴しく光り輝いた生き方」なのです。

昌美氏のこの文には、『大きな良心、明るい良心』というタイトルが付けられていますが、
私も、いま学んでいる白光の『宗教的なモノサシ』で他人を評価したり、判断しがちなので、
注意したいと思うのです。(^^;ゞ

★ 昨日の夕方から、左肩の肩甲骨がとても痛いのです。(^^;ゞ
家内に訴えると、「私はいつも、そんな状態なのよ」と言われました。(^^;ゞ

それを聞いて、私のこの痛みは、そういう家内の気持ちを分からせるために、
守護霊さんが、「消えてゆく姿」として表しているのかと思いました。(^^;ゞ

ですが、それにしても「痛い」のです。 マッザージをしても治らないのです。
そうすると、この痛みは、どのような「業」の表れなのかとか、
なんらかの霊障なのだろうかと考えてしまい、ますます落ち込んでしまいました。(^^;ゞ

『宗教』に把われていると、ろくなことは考えませんね。(笑)
『宗教的なモノサシ』に把われているので、それが「苦しみ」を増していますね。(^^;ゞ

それでも、この肩甲骨の「痛さ」よりも強い「痛み」の人は沢山いるのですから、
「痛み」をもって、日常生活を送っている人の気持ちが、とてもよく分かりました。(^^;ゞ

簡単に、『痛みは、「業の消えてゆく姿」』などとは、言えないと思いました。(^^;ゞ

それで、どのように解決できたのかというと、「痛い」なら「痛い」ままで、
「痛み」、に把われるないようにしようと思ったのです。

マッサージをしていましても、こんなに強くマッサージをすると、筋肉を傷めるのではないかとか、
この痛みは、いつまで続くのかとか、どうすれば治るのかとか、色々と考えすぎて、
それが、「苦しみ」の原因になっていると思ったのです。

それで、「まあ仕方がない。治るまでマッサージをしてやる。痛みに、把われすぎないようにしよう」と思ったのです。

そうしますと、気持ちが少し楽になりました。(^^;ゞ

★上の文章を書きまして、『宗教的なモノサシ』とは、『宗教的な知識』のことだと思いました。

【945】「世界平和の祈り」が、『いのち』を開く

2007-03-20 21:34:45 | 読書
私は、最近の昌美氏の著書しか読んだことがなかったので、
『いのち開く』(昭和61年刊)を読みました。

アメリカに留学されていた時のことや、五井氏の神帰の前後のこと、
娘さん達の出産や育児などの日常生活が書かれていて、興味深かったです。
付箋を貼った箇所を、書いてみます。

★ 過去に把われることと、過去を正しくみつめ、その過去の体験を未来の生かすこととは、根本的に生き方が違う。

★ なんのきびしさも、試練も、神々から与えられなかったら、一体どんな人間になってゆくであろうか。
いつも自分を磨いて、きたえあげてくださる守護霊さま方に対し、あまりにも、ご修行が多すぎると、
不平不満ばかりもらして、感謝することを忘れていた己れに対し、恥ずかしさと反省の念が起る。

 どんなにつらいこと、苦しいことも、己れの人格を立派にするための試練だったとは、なかなか気付かぬものなのだ。
つねに目先の不幸や災難のことばかり考えて、永遠の生命のことを忘れてしまっていたのだ。
ほんとうに申しわけない気持ちで一杯だ。

★ 他人のために生きられる人こそ、生きる喜びを知っている人である。

★ 「いま」こそ、唯一のとき、唯一の実在なのである。
与えられている幸、不幸、すべてそのまま、ありがたく、天に感謝するのみである。

★「世界平和の祈り」こそ世界を救う、唯一の方法である。
いや、世界を滅亡させないためには、「世界平和の祈り」しかないのである。

【944】たくさんの成就を、見い出した日

2007-03-19 21:42:02 | 経験
先週の日曜日に、父の17回忌の法要で、家族3人を乗せて、大阪から知多半島のお寺まで、軽自動車で行きました。
以前は、4時間以上掛かっていたのですが、伊勢湾岸道路が出来たので、予定よりも、1時間以上早く着きました。

そしてその日は、世の中には「神業」が、あふれていることに気付き、十五項目もの「成就」を宣言しました。

まずは、湾岸道路が設計され、そして、多くの人々によって作られたおかげで、
とても短時間で労少なく着けたことに、「神」を見い出しました。

そして、「供養」の読経をしてくれた住職の姿に、「愛念」を見出し、
住職の奥さんの思いやりのある立ち居振る舞いも、「愛念」を見出しと、
その日はなにか、見るもの聞くものすべてに、「神」を見出す気持ちになれた一日でした。(^^;ゞ

そうだ、『世の中のことはすべて、「神」なのだ』と思いました。(*^_^*)

ですが、考えてみると当然なのです。(^^;ゞ
『すべては、支えあって存在している』のですから(*^_^*)


【943】批判する人は、進化しない(*^_^*)

2007-03-18 19:02:39 | 「白光」の教え
白光誌の最初のページにある『日々の指針』を読むのが、とても楽しみなのです。
一回目を読む時と、二回目以後では、感じ方が代わるので、「初回のインスピレーション」を大切にしています。(^^;ゞ

これは、二回目以降は、「脳が既に知っている」ので、新鮮なイメージが、湧かないからなのです。

私は、とても忘れ易い性格(笑)なので、周りの人に迷惑を掛けることも多いのですが、
この「忘れ易さ」のおかげで、同じようなことでも、「新鮮」に受け止められるようになっています。

女優の森光子さんも、「忘れ易い性格」のおかげで、毎回、新鮮な気持ちで、舞台に立つことができ、
それが演劇のロングランにつながったのだそうです。

このブログで、毎日同じようなことが書き続けられるのも、私の「忘れ易さ」のおかげかも知れません。(^^;ゞ

話がそれましたが、今月号の『日々の指針』では、3つの語句にインスピレーションを受けました。
★ 人間は、自ら進化創造を果たしていかねばならぬものである。
★ 他のだれでもない、私こそが私の苦しみの原因である。
★ 自分で責任を取るならば、すべての言い訳から自由になれる。

そして、これらの語句を読んだときに、ふっと、
『批判する人は、進化しない(*^_^*)』というフレーズが、浮かびました。

今月号の『日々の指針』は、白光誌の昌美氏の法話と、とてもよく呼応しているように思うのです。
これを、いままでの白光誌で、私は感じませんでした。

この呼応は、人類の意識が、「真理の成就」に向けて、5月20日の『世界平和交響曲』に向って、
集中してきているからだと思うのです。

【942】苦悩の原因は、自分自身である(*^_^*)

2007-03-17 21:26:20 | 「白光」の教え
池田晶子さんも、「あたり前のこと」と言われると思うのですが、(^^;ゞ
苦悩の原因は、自分自身です。(*^_^*)

このことを、「くれぐれも確認したい」と思うのですが、
気が付くと、3次元的なこと、外的なことが、自分の苦悩の原因だと考えてしまっている自分がいます。(^^;ゞ

『苦悩の原因は、武器でも軍隊でも核でも貧困でも飢えでも病でも物質でもない。
ましてや大統領(指導者)や富者や権力者でもない。
あなたこそが、あなたの苦しみの最大の原因である。
他の誰でもない。あなたの心や意識があなたの五官を誤って使用しているがためである。
せめて自らの五官を管理し、自由自在に本来の役割を果たしていただきたいものである。』(「白光」3月号)

こういうフレーズは、OSHOの本によく出てきますね。(^^;ゞ
もうそろそろ、私もふくめて、すべての人類は、この「真理」を受け入れる覚悟を固めたほうがよさそうです。(^^;ゞ