「白光のマンダラ」は20分位で完成するものがあり、しかもカラフルに仕上がるので、楽しいのです。(*^_^*)
1枚目の『家内即神也マンダラ』が、綺麗に書けたので、もう一枚書きました。(^^;ゞ
そして、ふっと思ったのは、「家内はほんとうに、神なのだろうか?」ということです。
客観的な事実として、「神」なのでしょうか?
それとも、私が、「神」だと思うことのよって、「私にとって神」なのでしょうか?
普通に考えますと、「神」は、本心の表れであり、「業」は、本心の現れが阻害されていることです。
それで、「業は、悪しきこと」と捉らえられがちですが、
「業」が出るのは、本人の責任なのではなくて、
元々ある「思い(カルマ)」が、消えるために表れているのです。(*^_^*)
それなのに、私は『家内即神也』と言いながら、
「なぜ、家内の業はいつまでも消えないのか!」と思い、
放っておけば消えてゆくはずの「家内の業」を、捕まえていたのです。(^^;ゞ
これでは、いくら『家内即神也』と書いても、家内の業が消えるはずはないのです。
「家内の業」をつかんでいたのは、「私」だったのです。(^^;ゞ
★ どういうわけか、昨日のブログ日記と前後してしまいました。
入れ換えようと思ったのですが、コメントがついていたので、今日の書き込みにしました。
こちらを先に読んでもらえると、話がつながります。(^^;ゞ
1枚目の『家内即神也マンダラ』が、綺麗に書けたので、もう一枚書きました。(^^;ゞ
そして、ふっと思ったのは、「家内はほんとうに、神なのだろうか?」ということです。
客観的な事実として、「神」なのでしょうか?
それとも、私が、「神」だと思うことのよって、「私にとって神」なのでしょうか?
普通に考えますと、「神」は、本心の表れであり、「業」は、本心の現れが阻害されていることです。
それで、「業は、悪しきこと」と捉らえられがちですが、
「業」が出るのは、本人の責任なのではなくて、
元々ある「思い(カルマ)」が、消えるために表れているのです。(*^_^*)
それなのに、私は『家内即神也』と言いながら、
「なぜ、家内の業はいつまでも消えないのか!」と思い、
放っておけば消えてゆくはずの「家内の業」を、捕まえていたのです。(^^;ゞ
これでは、いくら『家内即神也』と書いても、家内の業が消えるはずはないのです。
「家内の業」をつかんでいたのは、「私」だったのです。(^^;ゞ
★ どういうわけか、昨日のブログ日記と前後してしまいました。
入れ換えようと思ったのですが、コメントがついていたので、今日の書き込みにしました。
こちらを先に読んでもらえると、話がつながります。(^^;ゞ