『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【941】すべては守護霊がしているのだから、心配は要らない(*^_^*)

2007-03-16 22:21:02 | 思索
今朝、眠いなあと思いながら、家の階段を昇っていました。
一番上についた時、「守護霊さんが、この階段を昇らせている」と思いました。
守護霊さんが、無事に登らせてくれたのです。(^^;ゞ

それで思ったのは、「守護霊さんが、私を動かしている」のなら、「眠い私とは、何だろうか?」ということです。

「惰眠を貪りたい」(笑)と思ったのですが、「世界平和の祈り」をしたほうが、気持ちが良さそうなので、
西式健康法をしてから、「統一」をしました。

そして、「もし、私のすべてを動かしているのが、守護霊さんだとしたら、
私がなにかを、心配する必要はないのではないか?』と思いました。(^^;ゞ

だって、守護霊さんが、私の全部を取り仕切っているのなら、
私には、与えられたままを生きる以外に、道はないのです。
「楽」といえば、これほど気楽なことはないのです。(^^;ゞ

ほんとうに、なにから何まで、「私の命」の引取りまでも、守護霊さんがやってくれるのですから、
私としては、「ただ、任せれば良いだけ」(笑)なのです。

階段の登り降りから、トイレに行くことまで、
基本的には、全部、守護さんがやってくれているのかも知れません。(^^;ゞ

【940】守護霊さんの話し合い

2007-03-15 22:30:02 | 「白光」の教え
【939】で、一見、納得し難い箇所(笑)がありますね。(^^;ゞ
①『盗みを働こうとする人の奥にあるのは、神なのだ。
今、過去のカルマが消えてゆくプロセスの瞬間なのだ。
そのプロセスの瞬間を、みんなが摑んで悪と見たならば、彼らは真理に目覚めない。
私たちが、その悪を、闇を、光で消すのであります。』

②『どんなテロリストの中にも、どんな殺人者の中にも、どんな悪しき人の中にも、
神性が宿っているのです。光輝いているのです。
殺人者の中に光を見出してあげる、神性を見てあげるのです。』

★人生の出来事は、「出会い」も含めて、霊的には『すべてが必然である』と、真に理解できていれば、
盗みを働くことも、テロリストになることも、「偶然」ではなくて、「必然」ということになります。

そしてそれは、「どのような必然なのか」というと、
「お互いの業」を消すために、現象として、「消えてゆく姿」として、現れているのであり、
お互いの守護霊さんの話し合いの結果であり、双方への問題提起(霊性開発のための)であるのです。

例えば、Aさんと喧嘩したとすれば、双方の守護霊さんは、
その喧嘩を通じて、「お互いの業」を消しているのです。

大切なことは、「消えてゆく」ために起こっているのだと気付いて、
「あっけらかん」としていることのようです。「取り合わない」ことのようです。

私たちに出来ることは、「業」を出している守護霊さんの邪魔をしないことなのであります。(^^;ゞ

【939】自分の目の意識を転換する

2007-03-14 21:50:21 | 思索
【938】と同じようなことが、『新年祝賀祭の法話』でも語られています。
それは、『自分の目の意識を転換する』という方法です。

★『私たちの目は、自分の夫、自分の妻、自分の子ども、自分の家族の過去の行為を批判し、意見する目ではなくて、
どんなにマイナスの状況を示していても、その中に光を見い出してあげるのです。
他の人の中に神性を見るために、この目を使う、耳を使う、口を使う、手足を使うのです。

盗みを働こうとする人を見てしまった。でも、その奥にあるのは神なのだ。
今、過去のカルマが消えてゆくプロセスの瞬間なのだ。
そのプロセスの瞬間を、みんなが摑んで悪と見たならば、彼らは真理に目覚めない。
私たちが、その悪を、闇を、光で消すのであります。

どんなテロリストの中にも、どんな殺人者の中にも、どんな悪しき人の中にも、
神性が宿っているのです。光輝いているのです。

輪廻転生を繰り返す中で、人から愛されず、存在を無視され、虫けらのような扱いを受けた人たちが、
今生で、その苦しみを限りなく消そうとしているその瞬間を、せめて神人と呼ばれている我々は、
その現象の面に心や意識を向けるのではなく。その中に光を見出してあげる、神性を見てあげるのです。

そして、その人の天命が完とうされるように、「お名前即神也の印」を組んであげるのです。

それをやり続けると、意識が常に、瞬間的に、他の過去を見ない。
現れている現象に把われないようになるのです。

妻や夫から、つまらない愚痴や罵声が飛ばされた時に、立ち向かわなくなるのです。』

■ 『自分の目』が何を見て、何を意識しているのかに醒めていて、
「思いの自分」を、常に客観的に見ていられることが大切です。

【938】「自分の意識」を、意識する(^。^?

2007-03-13 22:20:32 | 思索
「他人」を観察してみますと、その人の内面で、さまざまな「思い」が湧いては、消えているようです。

そして、「思い」のいくつかを、行動に移すことによって、世界(外界)が、造られていきます。

私の行為が、「世界」に影響を与えるのですから、良い結果を得らるように、「慎重」であるべきなのですが、
どのような「思い」を行動に移すのかの選択は、無意識なことが多いのです。

大事なことは、自分の意識が覚めていて、何に向いているのかに、気付いていることです。

経験的には、「世界平和の祈り」をしているときは、「意識」は覚めていています。
なぜなら、「祈る」ことは、意識的な行為だからです。

それでいて、祈っている間は、思考が停止した「空白の時間」なのです。
これは、心地が良い時間でもあります。(^^;ゞ

寝るときに、自分の意識が何に向いているのかに覚めているのは、気持ちの良いものです。

【937】「神」を見い出すか否かは、自分の問題、自分の責任

2007-03-12 21:32:37 | 「白光」の教え
「すべてに、神を見い出せるか否か」は、自分の責任、自分の問題だと思うのです。

【935】で紹介した、昌美氏の法話の前半は、ほぼ下記のようなものです。

★「過去」を摑んで苦しむのか、「よい経験」として活かすのかは、自分自身の問題です。
「祈り続けること」によって、「過去」を摑まなくなるのです。

「過去を摑まない」ことによって、輝かしい自分の未来を造れるのです。
今までのように、過去の延長線上の未来を描く必要はないのです。

どんな不幸も苦しみも悲しみも、他から及ぼされるものではなく、
「過去を摑む自分の思い」が作り出しているのです。

この真理を、聞きたくないと思い、拒否し続けてきた人は、
過去の輪廻転生を引きずり、執着し、把われ、相変わらずの闘争、貧乏、飢餓、病気、破壊、崩壊の道を辿るのです。
究極的には、人類一人一人が、自分の選択の責任を、取らなければならないのです。(「白光」2007年3月号より)

【936】どんな人の中にも神を見出す

2007-03-11 04:41:07 | 「白光」の教え
【929】は、私と家内との「霊的な立場の違い」を理解することに役立ちました。(^^;ゞ
これは、人間同志の「普遍的な関係」(?)なのかも知れません。

これは、『どんな人の中にも神を見出す』ことなのだそうです。

白光真宏会のHPに、『すべての中に神を見出す』という文章がありますので、お読みください。
『人間(人類)』というのは、こういうものであったのかと、目からウロコが落ちる思いでした。(^^;ゞ

五官の働き~すべての中に神を見出す

【935】なぜ、罵声や愚痴や不平不満を口にするのか(^。^?

2007-03-10 21:21:03 | 「白光」の教え
毎号の「白光誌」を読むと、いつも大きなく気付きを得るのですが、
今月号は、今の私の心にぴったりの内容で、とても役立ちました。(^^;ゞ

それは、『人はなぜ、罵声や愚痴や不平不満を言うのか?』(p51)という内容なのですが、
下記にまとめました。私と家内の基本的、根本的な関係が語られていると思うのです。(^^;ゞ

『妻が自分に敵対する、対立する、差別する。それは、妻自身の苦しみの現れなのです。
ですから、自分に向けられている言葉ではなのです。
救いを求めている言葉なのです。浄めらてほしい、過去をなくしてほしいという叫びなのです。

全人類が、みな自分の存在を認めてもらいたい。
そのための不平不満であり、愚痴であり、批判であり、批評であるのです。

かれらは、過去を摑んでいるから、苦しいのです。
罵声や愚痴や不平不満を言うのは、苦しいからなのです。

自分に言われているようでも、実は自分に言われているのではないのです。
どんなに苦しんでいる人も、原因はその人にあるのです。

自分に責任があるにもかかわらず、それが分からないから、
相手のほうへ、はけ口を求めるのです。
ゆめゆめ、その真理を間違ってはだめです。』(「白光」2007年3月号より)

この文章を読んで、今までの、私と家内の関係が、すっきりと見えました。(^^;ゞ

【934】ただ、ただ、善(陰徳)を為す(^^;ゞ

2007-03-09 22:07:32 | 経験
それで、人生は「ただ、起こるに任せていれば、良いのか」ということが、問題になると思うのです。(^^;ゞ
「存在の側」からみれば、業(事象)は消えるために、現れるのですから、
業(事象)を把かまなければ、「消えてゆくだけ」です。(^^;ゞ

けれども、凡夫の私たちが、「人生の苦痛」を、出来るだけ減らしたいと望むことも事実なのでして、
そういう場合は、善を為して陰徳を積むと、大難が小難になり、小難が無難になるそうです。

といいますのは、出した「業」は、その大きさに比例(笑)して返ってくるからです。

「大きな業(欲)」を表して、一時期な利益を得ても、長い目でみると、マイナスになるようになっているのです。
『悪銭、身につかず』ということわざの通りです。(^^;ゞ

自分で蒔いた業の結果は、自分に帰ってくるというのは、『鏡の法則』ですね。

昌美氏の本を読みますと、Aさんにした親切が、Bさんから還ってくるという話が出ていましたが、
「思いの世界」はつながっているので、霊的には、そういうことになるようです。

この頃は、そのように思うようにしています。(^^;ゞ

「行い」としては、誰に対しても親切にすれば良いのですから、
あれこれと考える必要もなくて、楽です。(^^;ゞ

【934】人生とは、「業」の消えてゆく姿【無分別智の人生】?

2007-03-08 21:29:27 | 思索
「人生とは、『業』の消えてゆく姿」を、池田氏なら哲学的にどのように解説されるのでしょうか(^。^?
「存在の側」から見れば、この解釈も、ひとつの解答に成り得ると思うのです。
これは、宗教と哲学の間の、もっとも興味深いテーマのひとつです。(^^;ゞ

【933】は、「消える『ために』、現れている」と思えるかどうかが、ポイントだと思うのです。(^^;ゞ

現れている事柄に、『把われる』ということは、すなわち、『ために』と思えないのですから、
事象を、「都合」で判断したとたんに、『把われ』が起こるのです。

それと同時に、『ために』と思えないことは、『プロセス』と考えられないということでもあります。(^^;ゞ

「人生とは、只々、『業』の消えてゆく姿」であって、事象は、『消えるため』に現れていると、看破できれば、
人生とは、ただ「それは、それ」であるだけであり、『無分別智の人生』が送れるように思うのです。

【933】すべては、「消えるために」現われている(御心のままに)

2007-03-07 22:00:57 | 「白光」の教え
平成2年12月の大阪支部での西田貞昭さんの講和会で、印象に残った部分がいくつかありましたので書きます。

★ 幽体(アストラル体)が、霊を感じる。
★ 水行などをしても、霊障を解決することはできない。「世界平和の祈り」が良い。

★ 病気になっても、「健康さん、ありがとうございます」と言っていると、健康になっていく。
「体さん、元気になってくださいね。世界人類が平和でありますように!」と唱えると、
病は治りやすくなる。もちろん、医者に行って治療を受けることも、必要である。
けれども、自分の病気を本当に治す力は、自分にあるのです。

★ 不都合なことが起こっても、その「不都合だという思い」を守護霊さんに返して、
「世界平和の祈り」をすることが大切である。

なぜなら、「不都合なこと」は、それが起こるという「業が消えるために」起きているからである。
例えば、「腹痛」には、「腐った物を食べた」という原因がある。その原因が、消えるために「腹痛」は起こったのである。

「今後」、腹痛が起きないようにするためには、「腐った物を食べる」という「業」を成さなければ、良いのです。(^^;ゞ

「すべては、消えるために現われている」のですが、
「今世の腹痛(不都合)」が、過去世の因縁の場合もありますから、
今世の意識では、その因果関係を把握し切れないこともあります。

それで、「今世の不都合」は、「過去生の因縁の表れ」であると理解し、
病気も、お金不足も、人間関係も、「すべての思い」は全部、
業として、「消えてゆくために」起きているのだと思って、
「すべての思い」を、神様(守護霊さま)に返せばよいのです。

それが、『御心のままに』ということなのです。

★ 池田晶子さんと宗教哲学者の大峯顯さんとの対談 『君自身に還れ―知と信を巡る対話』(本願寺出版社。1470円)が
3月10日に発売となるそうです。宗教を巡る本格的な哲学対話だそうです。

まだ読んでいないので、なんとも言えませんが、
私の期待やテーマ(?)とは、すこし違っていたようです。(^^;ゞ

池田氏の『黎明』へのコメントを、訊きたかったのですが。(^^;ゞ

【932】『私は宇宙だ』の有効性(*^_^*)

2007-03-06 22:13:04 | 精神世界
【931】の『私は宇宙だ』という呪文が、なぜ有効かという説明が、
「宝彩有菜さんのメールマガジン」に載っているのですが、
これがまた、とてもわかり易く書かれていて、納得できました。(^^;ゞ

■ついでに、なぜ、この呪文を唱えると、そうなるのかを説明しておきますと、
どんな自己認識でもそうですが、ある自己認識を自分でしていると、
日々の細かな行動まで、その既定の自己認識にそって行動しようとマインドは働きます。

それがマインドの任務ですから、そう熱心に働いてくれるのはありがたいことなのですが、
しかし、もともとの自己認識の部分が、古いバージョンで、しかもそのことに
ほとんど無意識になっていますから、マインドの働き方が、現状にそぐわなくないこと
になっているのに、なかなか気がつかなくなっています。

ですから、その根本である自己認識を、例えば、「私は私で大丈夫」のように
安心系の方向にすると良い場合が多いということなのですが、
ここは、修行の場ですから、もう一歩進めて、呪縛文言化している自己認識を
根もとから、取り払ってしまおうというわけです。

「私は、宇宙だ」と唱えると、マインドは、
「えっ、私、宇宙、それって何だろう、
私っていったいどんな人なのだろう、あれっ、どんな風に考えればいいのだろ。
私は、もとは、ええと、愚図だったけ、あるいは、もとは、天才だったけ」 と困惑します。

つまり、これは、マインドにこの呪文を言わせて、マインドから主導権を取り戻すワザです。

マインドの勝手ににはさせないワザです。
「わたしは宇宙」ですから、そこには、どんな自己認識も入れないわけです。
愚図でもなければ、天才でもありません。広大な存在です。

マインドは、一瞬にして、何も自己認識のない状態から
物事を見たり考えたりしなければならなくなります。

そして、それがたぶん一番正確なものの見方や考え方になるはずです。
正確で、自分の思い込みや、刷り込まれた自己認識の無い状態ですから、
すぐに、本来の自分にもどって、どっしりと、落ち着けます。穏やかになれます。

イエスはイエス、ノーはノーとだけいえるようになります。
それ以上の拍車はかかってこないからです。

今回は、この「私は宇宙だ」(宇宙の一角だ)の呪文を唱える修行をします。
カウントは、そうですね。この呪文を唱える場面を発見した回数にしましょう。

自分自身を責めるような考えが起こったときや、自分自身を守りたいというような
気分が起こったときなど、自分がらみの変な思考をしたときをチェックしてみてください。

そして、固定的な思い込みや、自己認識が元になっている判断や考えを発見したら、 この呪文を唱えるわけです。
唱える回数は、2~3回でも、厳しい場合は、4~5回でもいいです。自由です。

この修行は微妙な修行ですから、充分覚めて実践してください。
それが、また、良い修行になります。

それでは、今週も「秘伝・呪縛脱出呪文の修行」を楽しいく進めまていきましょう。

そして、家から、会社から、地域から、日本から、地球からも抜け出して、
宇宙的に広大な心になりましょう。
これができると、真に、自信に溢れた揺るぎない自分(宇宙)になれます。

★ほんとうに説得力のある文章なので、「やる気」が起きますね。(*^_^*)

【931】私は宇宙の一角だ(*^_^*)

2007-03-05 21:20:24 | 思索
カノンさんに教えてもらった「宝彩有菜のメールマガジン」のなかに、『自己認識を変える呪文』があるので、
引用しながら書きます。

★それは、「わたしは宇宙だ」です。もう少し長いセンテンスでは、「私は宇宙の一角だ」 です。

フルセンテンスで言うと、「私は、たしかにこの広大な宇宙の一角を占めているので、私も確かに宇宙だ」です。
短絡すると、「私は宇宙だ」になります。

唱えるときは、本当に、宇宙の一角であると感じて唱えてください。
たとえば、足を肩幅に開いてまっすぐ立ち、両手を斜め上にまっすぐ伸ばして、
宇宙の端まで、意識を届けるつもりで、目線を少し上にして、「私は、宇宙だ」といいます。

たしかに、この巨大な宇宙はどの一つの星が失われてもバランスが崩れます。
どの一つの星がなくなっても、整然とした法則がなりたたなくなります。
それは、この小さな私についても同じです。私が存在しなければ宇宙も存在できません。
私は確かに宇宙の一角なのです。ぜったに外せない構成要素なのです。 ですから、「私は宇宙だ。」

日頃、自分は、こんな人だという認識から、一気に、巨大な宇宙的な認識にします。
たぶん、マインドはついて来れません。

「私はこうだから、このように行動しよう」という基準になりません。
私が宇宙だったら、いったい、どのような行動基準があるのでしょうか、ちょっと 思いつきません。白紙です。

つまり、私は、宇宙ですから、宇宙の構成要素ですから、「私の既成概念」から脱出できます。私は、駄目な子でもありません。愚図でもありません。馬鹿でもありません。見込みがないとかの評価もちょっと関係ないです。

また、同様に、私は天才ではありません。素晴らしいとか、エライとかともちがいます。
才能があるとか、一番でなければならいこともありません。 そのような比較とは、次元が全然違います。「私は宇宙」です。

日常で、何か、「私」についての、古いつぶやきや、思い込みの問題が出てきたら、「うん、待てよ」と考えてみてください。
それは、もしかすると、自己認識を変えれば、それに対する態度が変わるものかもしれません。
それを、チェックしてください。そして、もし、そうなら、直ちに、この呪文「私は宇宙だ」を唱えます。2~3回唱えてみてください。

そして、また、元の案件に戻って考えてみてください。
「ああ、なんだ、地球の話しか、放っておいても良いことだ」とか、
「ああ、まぁ、楽しみとして、試しにやってみる価値はあるな」とか、
「人間関係の話か、まぁ、常識的に、ぼちぼちいこう」とか、
冷静で何も変なバイアスのかかってない、おだやかな対応や判断ができると思います。

★引用しながら、書こうと思いましたが、ほぼ原文通りになってしまいました。(^^;ゞ
とても説得力のある文章ですね。

「白光の教え」でいえば、「私は宇宙神と一体である」とか、「我即神也」という概念と共通していると思います。

宝彩有菜のe-講座、プログレスコース

【930】哲学と宗教と真理と

2007-03-04 20:54:23 | 思索
池田晶子さんのエッセーを読みますと、若い頃から、かなりの酒豪だったそうです。
飲べま飲むほど、哲学的な思考が研ぎ澄まされてきて、その刃で、事象や心理をバッサバッサと切るのが、
何事にも変えられぬ快感だったそうです。
その時期の哲学的な考察は、その後の著述の基であり、財産なのだそうですから、
お酒なくして、「池田哲学」はなかったのかも知れません。

それに、「生」を諦観(めんどくさい(^。^?)しておられましたから、
たぶん、人間ドックも受けていないと思うのです。

ですから、「肝臓がん」で亡くなられたというのは、突飛なことではなくて、
因縁霊的には、池田さんの守護霊さまのご計画なのだと思うのです。

池田さんの死亡記事を読みますと、
『昨夏に腎臓がんがみつかり、手術後は自宅で療養していたが、今年1月末に入院。闘病生活を続けながら宗教を論じた対談本『君自身に還れ』の出版準備を進めたほか、8日発売の「週刊新潮」に連載エッセーを寄せるなど死の直前まで執筆を続けた。』とありました。

池田さんには、手紙で『神と人間』や『黎明』のコピー、「白光の教え」などを紹介していましたので、
ひょっとすると、『君自身に還れ』を書かれるなかで、「昌美氏との対談」がありえたのではないかと思い、
より一層残念に思いました。(^^;ゞ

このブログ内を、彼女の名前で検索ますと、池田さんの文の引用や、私のコメントが色々と出てきます。

私の中には、『哲学と「白光の教え」とどちらがより真理に近くて、包括的か?』という問いがあるのです。(^^;ゞ

「白光の教え」は、いわゆる宗教ではなく「自分教」なので、『宗教VS哲学』というテーマの範疇にはないのかも知れませんが、哲学と「白光の教え」は同じことを言っているという気がするのです。

そのことが、「対談の結果」として出ることを、私は望んでいたのかも知れません。(^^;ゞ

【929】池田晶子さん死去

2007-03-03 22:08:02 | 経験
まさか今年、池田晶子さんが亡くなられるは思ってもいなかったので、驚きました。
昨年の夏に肝臓がんが、発見されたそうです。

機会があったら、一度お話をしてみたかったですし、
密かに、昌美氏との対談が実現することを願っていたので、残念です。

『14歳からの哲学』を読んだのが、2003年の8月。
その年は、私が白光に出会う年でもありました。

これは、守護霊さんの、大いなる計画だったと思うのです。

私のなかでは、池田哲学と白光は繋がっています。

読売新聞

【928】「作品コピー&額現地」作戦(*^_^*)

2007-03-02 21:59:56 | 私の彩墨画
その方法とは、「作品コピー&額現地」作戦です。(^^;ゞ

というのは、最近「ダイソー(百円均一の店)」で420円の額を見つけまして、
その額が私の絵と、とても相性がよいのです。(*^_^*)

具体的には、私がコピーして送った絵を、近所の「ダイソー」で買った額に入れて、
自由に飾ってもらおうという嗜好なのです。(^^;ゞ
(もちろん、手元にある色紙額でもOKです。)

ですから、費用としては、コピーの実費(一枚50円x枚数+送料200円ぐらい)と額代だけなのです。

そして、飾っていただく特典としましては、
①「私の絵」の再コピーは自由なので、気に入った作品がありましたら、どなたでも、
どんどんコピーして持って帰ってもらって、飾ってもらえます。
② 新作が描けたら、ご希望により、随時お送りします。
③ 実物の絵を、一枚プレゼントします。・・・・・・・・・・です。

★額に入った「コピー作品」は、実物との見分けはつきません。
波動的にも、転写できているそうですし、「絵の雰囲気」は変わりません。

どうですか、飾ってみませんか?
ボランティア精神で、宜しくお願いします。(^^;ゞ

■ 「百均ショップ」で額を買った場合を、計算してみます。

★10作品を飾る場合ですと、絵は500円、送料200円、額は4200円で、4900円。
15作品で、7250円。20作品(9600円)なら、私の絵のほとんどの作柄(?)をカバーできます。
自分でいうのもなんですが、かなり、壮観で元気がでます。(^^;ゞ

「百均ショップ」には、315円の黒い額もあって、それを使うと、もう少し安くなります。
上にも書きましたように、お手持ちの額に入れて戴いてもOKです。
遊び感覚で、やってみませんか。(*^_^*)

ただ、ひとつだけ条件がありまして、(^^;ゞ
それは、できるだけ多くの人の目に触れる場所に、飾っていただくことなのです。(^^;ゞ

■他にも、『知足ぎゃらりー』について、なにか案がありましたらお教えください。(*^_^*)