「すべてに、神を見い出せるか否か」は、自分の責任、自分の問題だと思うのです。
【935】で紹介した、昌美氏の法話の前半は、ほぼ下記のようなものです。
★「過去」を摑んで苦しむのか、「よい経験」として活かすのかは、自分自身の問題です。
「祈り続けること」によって、「過去」を摑まなくなるのです。
「過去を摑まない」ことによって、輝かしい自分の未来を造れるのです。
今までのように、過去の延長線上の未来を描く必要はないのです。
どんな不幸も苦しみも悲しみも、他から及ぼされるものではなく、
「過去を摑む自分の思い」が作り出しているのです。
この真理を、聞きたくないと思い、拒否し続けてきた人は、
過去の輪廻転生を引きずり、執着し、把われ、相変わらずの闘争、貧乏、飢餓、病気、破壊、崩壊の道を辿るのです。
究極的には、人類一人一人が、自分の選択の責任を、取らなければならないのです。(「白光」2007年3月号より)
【935】で紹介した、昌美氏の法話の前半は、ほぼ下記のようなものです。
★「過去」を摑んで苦しむのか、「よい経験」として活かすのかは、自分自身の問題です。
「祈り続けること」によって、「過去」を摑まなくなるのです。
「過去を摑まない」ことによって、輝かしい自分の未来を造れるのです。
今までのように、過去の延長線上の未来を描く必要はないのです。
どんな不幸も苦しみも悲しみも、他から及ぼされるものではなく、
「過去を摑む自分の思い」が作り出しているのです。
この真理を、聞きたくないと思い、拒否し続けてきた人は、
過去の輪廻転生を引きずり、執着し、把われ、相変わらずの闘争、貧乏、飢餓、病気、破壊、崩壊の道を辿るのです。
究極的には、人類一人一人が、自分の選択の責任を、取らなければならないのです。(「白光」2007年3月号より)