『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【2764】自分の中から「言葉」が消える。 自分や他人を「責める言葉」が消える。

2010-09-30 04:33:42 | 思索
仕事が終わって家に帰り、家内の話を聞く時間は楽しいです。(^^;ゞ
そのときに、お菓子でも食べると、もっと楽しい気分になれます。

これが「普通の人がすること」(笑)だと思うのです。(^^;ゞ

そして、寝る前に物を食べると、次の日に目覚めたとき、
胃のあたりがとても気持ち悪くて、いままでは「食べたこと」を後悔していました。

ところがこのごろは、「普通の人」を目指している(笑)ので、
朝、胃のあたりが気持ち悪くても、昨夜に飲食をした自分を責めることがないのです。

「家内との限られた時間」を楽しく過ごすことの方が、大切だと思えるのです。


★いままでは、「何かを目指して、自分が存在している」と考えていたのですが、

いまは、「今のままの自分で良い」(笑)と思えるので、何事にも把らわれないで、
『極楽の今』を楽しもうという考えなのです。(^^;ゞ

「世界平和の祈り」をしているからだと思うのですが、
「自分を裁く気持ち(考え)」が、消えた感じがするのです。


★それは同時に、自分は人事を尽くしているのだから、事象(神)にすべてを任せて、
『何が起きても良い』と思えることでもある(笑)のです。


★このごろ、自分の中から「言葉」が消えた感じがするのです。(^^;ゞ

それで、自分や他人を裁いたり、責めたりすることが無くなったと思うのです。

【2763】『すべては過去生の因縁の消えてゆく姿、ただあるのは神仏のみ心だけ』『何が起きてもいい』

2010-09-29 05:50:16 | 思索
【2762】に、あっけなく入会された方のことを書きました。
それを別の角度(?)から言いますと「必要があって入会された方」だと思うのです。

その「必要性の何であるのか」が、各人のテーマだと思うのです。

白光誌10月号に、
『すべては、過去生の因縁(カルマ)の「消えてゆく姿」、ただあるのは、
神仏のみ心だけ』(p32)という言葉が載っていまして、
本当にその通りだと思うのですが、(^^;ゞ

そういう意味では、『何が起きてもいい』のだと思うのです。

★どんなことが起きても、「世界平和の祈り」という愛念で、
起きている事象や状況を浄め、見送れば良いのだと思うのです。

【2762】「世界平和の祈り」と「統一」という言葉の違いについて

2010-09-29 05:11:37 | 思索
先日の講話会のあとの座談会で、「世界平和の祈り」と「統一」の違いというか差異について、講師さんにお伺いしました。

詳しくは、大阪支部ホームページの「ライブラーリ」に後日アップされると思いますのでご覧ください。

簡単に言いますと、「世界平和の祈り」の祈り言葉の中に「統一」されるのです。

つまり、「統一」というのは状態であり、「世界平和の祈り」というのは目的方向性です。(文責 知足)

いままで深くは考えなかったのですが、
集会でする「世界平和の祈り」と自宅でする「統一」は違うように思うのです。

感覚的には、入る深さが違うというか、「思考停止」という意味では同じなのですが、
集会で行った場合は、その深さが維持され続けます。

とくに、先日は、『輝き』の編集委員会にも参加をしたので、
その前に行われた「世界平和の祈り」の響き(思考停止)が数日たった今でも残っていて、
チョー気持ちいい(笑)です。(^^;ゞ

この「気持ち良さ」が、「覚醒」ということなのかもしれません。(^^;ゞ

★次の日曜日に、大阪支部で行われる「宇宙究極の光を受ける行事」にも、
この、「思考停止」の気持ち良さを求めて(笑)参加しようと思っています。(^^;ゞ

★藤井寺の平和集会で、2回ほどお会いした男性を大阪支部の講話会にお誘いしましたら、
講話会をお聴きになった後、入会なさいました。

もちろん(笑)、入会をお勧めしたりはしていなかったので、
あまりの展開の速さにびっくりしました。(^^;ゞ

入会する因縁の方だったのですね。(*^_^*)

【2761】「自分の業」を生きることが、人それぞれの道であり人生です

2010-09-28 04:45:56 | 思索
『「自分の業」を生きることが、人それぞれの道であり人生である』と思って、
自分や他人を見ることが大切です。

それが「愛」だと思うのです。(^^;ゞ

「他人を大切に思うこと」が「愛」です。(笑)


それは、お互いの「あるがまま」を認めることです。

「あ互いの業」は「業」として、あるがままを認めることが、
「愛」であり「慈悲」であり「思いやる心」です。

本当に、人間は「あるがまま」を生きているだけです。

「表された業」に対して、あれこれと文句や愚痴を言ってもはじまらない(笑)のです。

「お互いの業」・「お互いの消えてゆく姿」の表れたままで良いのです。

それでいいのです。

いまのままで良いのです。

そう思えれば、「今が極楽」(笑)です。

「自分の業」以外のことは起きないのですから、安心して生きれば良いのです。

「経験しなければならないこと」だけが起こるのです。

【2760】「消えてゆく姿」(業)を現わすことが、そのまま「神」を現わすことか(^。^?

2010-09-28 04:10:11 | 思索
『「消えてゆく姿」(業)を現わすことが、そのまま「神」を現わすこと』は、
その通りなのでしょうか?

「自分の業以外のことは出ない」という意味では、そうだと思うのです。(^^;ゞ

何がよくて何が悪いという人間の判断を超えた「宇宙の法則」(調和へのプロセス)の中で、
私たちは、それぞれの「業」を生きているのですから、
起きることは起きるし、起きないことは起きないのです。(^^;ゞ

そういう意味では、自分の業のままに、「世界平和の祈り」(念仏)をしながなら、
「自分への把らわれ」を消して生きる方法が最善(笑)です。

「自分の業」を生きることが、人それぞれの道であり人生なのです。

【2759】人間は「一瞬一瞬」を生きている存在、3次元的な「損得」は、想念に過ぎない

2010-09-28 04:09:05 | 思索
私たちは「一瞬一瞬を生きている存在(なまの存在)」です。

その時々に思う「3次元的な損得」は、想念の一部です。(^^;ゞ


結局は、「自分」が経験している「今」が「自分」です。

肉体での体験が、「自分」を創るのです。 「自分」とは関係性なのです。

「出会うものすべてが、自己である」とは、このことです。

煩悩即菩提なのですから、自分の業のままに、それに把らわれないで生きれば良いのです。

ですから、「自分」は本来は「不在」というか、「自分の関係性」とは、「神のしごと(業)」の顕われなのです。

「消えてゆく姿」(業)を現わすことが、そのまま「神」を現わすことなのです。(*^_^*)


★とまあ、一応上のような文章になりました。(^^;ゞ

【2758】『過去と現在、未来と現在と繋いでいる幻想の糸を切らなければなりません』

2010-09-26 08:28:43 | 思索
先ほど、以前に紹介した以下の文章を読んでいましたら、
このごろ、このプログで書いていることと同じ内容だと思いました。
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『前後裁断』(現成公案)

★薪が燃えて灰になるが、灰は薪の結果と思ってはならない。
薪には薪のその時々の形態があり、灰には灰のその時々の形態がある。

同じように生と死も同じで、生の後に死が来るのではない。
生には生の位があり、死には死の位がある。

従って、生がなくなるということもなければ、死もなくなるということもない。
よってそれを不生といい、不滅という。

★冬が春になるのではなく、冬は冬なりの、春は春なりの形態がある。
それを人間は冬から連続して春に、そして夏になると思っているのが間違いである。

冬と春の間に、はさみを入れ、春と夏の間にはさみを入れて、
初めて春の実相が見えてくるのである。

過去、現在、未来と時間の位相を定義されていますが、
実は時間というものは過去と未来しかないのです。

空間は時間という一方通行のレールの上を走る汽車のようなものです。

たとえば、どこかの駅に停車した汽車の中から見る景色が現実の世界であり、
汽車が走り出したら、時間が動き出しますから、
汽車の中から見る景色はどんどん先のものが見えてくるのです。
これは現実の世界ではありません。

今まで走っていた時の光景、これから走り出した時の光景を、完全に忘れて、
今の止まっている時の光景をよく、注意深く見れば、実に奥深いものがどんどん見えてきます。
それが実相であり、本当のものであります。

現在という時間はありません。現在というのは、動く時間を制止した、まったく別次元の世界であり、
その世界こそが、あなただけが存在する実在の世界なのであります。

その為に、過去と現在、未来と現在と繋いでいる幻想の糸を切らなければなりません。

それが前後裁断であります。
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★『現在という時間はありません』という箇所が大切だと思うのです。

「思い」が、「時間と経過」を想像しているのです。


★私たちは、いつでも「一瞬のなか」に生きています。

私たちが、過去のことを「一瞬前の出来事」だと思うは、私たちが「一瞬」に生きているからです。

実際に思いの中では、「一瞬前の出来事(思い)」なのです。


★各人が思い描いた「時間と経過の想像(思い)」が、いい意味でも悪い意味でも「魂の癖」です。

「時間と経過の想像(思い)」は、「消えてゆく姿」として、守護霊が現わしてくれます。



【2757】「他人」とは何か? 「自分の魂の癖」「魂の楽しみ」について、

2010-09-26 08:13:05 | 思索
「他人という存在」には、興味があります。

「自分という存在(魂)」のことを考える上でも、

他人は「どのように思って、生きているのか?」

他人は、「どのように思って、食べているのか?」(笑)に興味があります。


世の中には、とても優れた才能を持った人もいれば、平凡に生きている人もいます。

私もついつい、そういう人たちと自分を比較をしてしまうのですが(^^;ゞ

それらの人たちの「楽しみ」とは、何なのだろうか?と思うのです。


家族と楽しく過ごすことだったり、

旅をすることだったり、趣味の時間を持つことだったりするのでしょうが、

それらの違いとは、いったい何なのか?(*^_^*)


★「魂の癖の種類」による違いだと思うのです。

このごろは、「自分の魂の癖の種類」が、やっと分かってきた感じです。(^^;ゞ

【2756】「生死即菩提」とは、「生」と「死」という概念(言葉)に惑わされないで生きること

2010-09-26 07:50:32 | 思索
「生死即菩提」とは、「生」と「死」という概念(言葉)に惑わされることも、
「仏(神)のさなっていること」という意味だと思われます。(^^;ゞ

★「生」も「死」も言葉であり概念です。

「生」は、いまここで、「私」に起きている事象なのですが、
それが「何であるのか」を、正確に語れる人は(五井先生以外には?)いません。(^^;ゞ

「死」は言葉です。概念です。

「死」が何であるのかは、誰も知りません。わからないのです。

「わからないから恐れている」のですが、恐れていても、いずれは自分に起こることなのですから、

受け入れるしか方法はないのです。

そういう風に、腹を決めることが、「生死即菩提」だと思うのです。

【2755】事象・状況は「神のしていること」であるから、文句は言えない。今が極楽。 「今」しか無い。

2010-09-26 06:54:03 | 思索
『煩悩即菩提・み運びのままに』という世界観(【2755】)を、別の言葉で言いますと、

『起きていることは、すべて正しい』・『事象(状況)は、神の領域』ということです。(^^;ゞ

★人間の業(カルマ)とは、「神の領域のこと」です。

★人間個々の状況と経験は、神のなさっている「消えてゆく姿」です。

ですから、「自分」はなにも心配しないで、その「神が現わしてくれている事象(状況)」を、
意識を天(神)につなげて、経験すれば良いのです。

★「意識」を天(神)に繋げる方法が「統一」です。

 「統一」をしていると自分の中心が定まって、事象や状況に一喜一憂して惑わされることが無くなります。

人生は「統一」をして、その場その場の直感で、その時々に判断をすればいいのです。

★『今が極楽』なのです。「今」以外には何もないのです。煩悩即菩提なのです。

★私たちは、「神がなさっている事象や状況」に文句を言える(笑)筋合いにはないのです。(^^;ゞ

【2754】だれでもが、特別な存在であり、愛すべき人々(*^_^*)

2010-09-23 12:17:04 | 思索
だれでもが、「特別な存在」であり、「愛すべき人々」なのです。

特に「家族」や「周りにいる人たち」は、
スピリチィアル的にも「自分を助けるために存在してくれている」のです。

「教えの機会」を与えてくれているのです。

もちろん、自分自身も「宇宙に存在する唯一の意識(人間)」なのですから、
貴重で「特別な存在」なのです。

それでいて、「自分が特別な存在であること」に把らわれないことが、

仏法を聴くうえ(笑)で、生きてゆくうえで大切なのです。

「自分が特別な存在であること」に把らわれて苦しむのは、自分自身なのです。(*^_^*)

善に「把らわれ」ても、悪に「把らわれ」てもいけないのです。

【2753】「普通の人」とは、自分が「特別であること」に把らわれない人

2010-09-23 11:57:54 | 思索
「普通の人とは、どういう人か?」について、家内と話をしました。(^^;ゞ

まずは、自分を「普通の人」と思うのかどうかについて、(^^;ゞ
そして、共通の知人は「普通の人」なのかどうかについてです。


★「普通の人」とは、「価値観が普通の人、常識的な人」だとも言えますが、

テンション(好奇心)の高い人と低い人という基準で、判別できるのかもしれないという話もしました。(^^;ゞ
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★結局のところ、「普通の人」とはどんな人なのでしょうか(^。^?

純粋に「普通の人」はいるのでしょうか(^。^?


★「普通の人」が、「自分の業」を、あるがままに現わしている人とするのなら、
だれでもが、「普通の人」ということになりますから、
「普通の人」とは、「価値観が常識的な人」なのです。


★「普通の人」の反対の言葉は、「特別の人」・「価値観が、常識的ではない人」です。

テンション(意欲・気分)の高揚した人は、
「自分の価値の感覚」を優先しますので、「常識的でない傾向」が強いです。

反対に、価値観が常識的であると、自分の意欲(気分)のテンションは、
あまり高くなりません。

「普通の人」は、生まれ持ってのテンションが低いので、「普通の人」なのかもしれません。
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★自分の中の「普通の人」のイメージは何だろうかと考えてみたら、
「把らわれのない人」と思えました。

「普通の人」とは、「特別であること」に把らわれない人なのです。

もし、「普通の人」が「常識に把らわれた人」という意味なら、
私の望む「普通の人」ではないです。

私の思う「普通の人」とは、「自分が特別な存在であること」に把らわれない人なのです。

【2752】「自分は特別な存在だ」と思う者は、仏法を聴く器ではない(*^_^*)

2010-09-23 10:40:29 | 思索
先日、紹介した『北の大地の念仏者』のなかに、

奥さんに対して「いつも、ありがとうございます」と感謝を言えないような者は、
「仏法を聴く資格がないし、その器でもない」(笑)という話がありました。

「教えは、高いところから、低いところに流れるのであるから、
自分は特別の存在だと思っている人には、仏法を聴くことができない」そうです。(^^;ゞ
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★このごろ気付いたのですが(笑)、自分は「普通の人」でした。(^^;ゞ

いままで背伸びをしていたと思うのです。(^^;ゞ

簡単に言うと、いままで、
「周りの期待」や「自分への期待」に応え過ぎてきたと思うのです。(^^;ゞ

何か、「自分は特別の存在」と思うところから、「こだわり」が生まれ、
それが、自分が生きる上での「把らわれ」になっていたと思うのです。

これからは、「あるがままに生きよう」と思ったのです。
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★あまり物事を深く考えないで、多少のお酒でも飲んで、食べるものは食べて、
自分の意識を天空につなげて、把らわれなく生きてゆけば良いと思うのです。


何が起きようとも、「自分の業」の「消えてゆく姿」として、受け入れれば良いと思うのです。(*^_^*)

「あるがまま」という言葉のとおりに生きれば良いと思うのです。

「あるがまま」とは、「自分の業(煩悩)」のあるがままということです。

意識して『不食』をする必要(笑)はないのです。(^^;ゞ

「自分は、特別な存在だ」と思うことは、傲慢です。(^^;ゞ

同時に、「自分は大した者でもない」と思うことも卑下慢です。


それで最近は、「普通の人」を目指そうと思っている(笑)のです。

家内によりますと、「普通の人」とは、普通のことを普通にする人のことだそうです。

【2751】「業(事実)」を現わして消すのは、阿弥陀(神・守護霊)の仕事(技)

2010-09-23 06:06:08 | 思索
【2750】を簡単にまとめますと、

『業(事実)を現わして消すのは、阿弥陀(神・守護霊)の仕事(技)』となります。

業(事象)は「消えてゆく姿」なのですから、現れて消えてゆくのが仕事(現実)です。

それが、「煩悩即菩提」・「生死即菩提」ということです。

私たちは、「自分中心に考えること」をやめて、
事象の変化(消えてゆく姿)を、感情を交えないで目撃していれば良いのです。

【2750】『煩悩(業)』は仏の技・『煩悩即菩提・み運びのままに』という世界観

2010-09-23 04:56:46 | 思索
最近、『こころの時代』の『み運びのままに』(藤原正遠さんの念仏の話)を、
奥が深いなあ(笑)と思って何回も聴いています。

「白光の教え」ととても似ているところがあります。 簡単に解説します。(^^;ゞ
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■『あや雲の流るるごとく 我がいのち 永遠(とわ)のいのちの中を流るる』

★「我即神也」の自分は、「永遠のいのちの現れ」であって、
「無限定な世界」に生きている存在です。

「なまのいのち」を生きている「なまの生」(存在)(禅)です。

★私たち一人一人は、永遠のいのちの現われです。(=人類即神也)
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■【一息が永遠のいのちと知らされて すべてのものが輝きて見ゆる】

★自分のいのちは、「永遠のいのち」なのですから、自分の「未来のこと」を思い悩む必要はないのです。
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■「お念仏が、お出ましになるようになった」とは、

無意識に「世界平和の祈り」を唱えている状態(常に祈っていなさい:聖書)と同じで、

『神意識(=無差別の意識)』で、生活していることです。
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■【来し方も 又行く方も 今日の日も われは知らねど み運びのまま】

■煩悩即菩提・生死即涅槃


★このあたりの話がとても興味深いです。

業(=煩悩)を現わすのは、菩薩(神・守護霊)の仕事(技)です。

「消えてゆく姿」を現わすのは、守護霊の仕事(技)です。


★自分中心の考え(業)は煩悩によって生じるのですが、

人間は、その「自分中心の考え」を現わすために生まれてきたのですから、
煩悩(業)を「消えてゆく姿」として現わすことに、なんの問題もないのです。

自分の煩悩(業)に一喜一憂する必要はないのです。

自分の煩悩(業)の結果の事実に一喜一憂する必要はないのです。

・【これを書いて思ったのですが、自分に殺人者の因縁(カルマ)があれば、
 維持会員であっても、殺人をすると思いました。(^^;ゞ

 反対に、殺される因縁があれば殺されます。(^^;ゞ

 そういう因縁を軽減することが出来るのが、「世界平和の祈り」だと言われています】

★私たちは、どんなことがあっても、「み運び(仏の手のひらの上)」にいるのですから、
 業(煩悩)を出して、生きれば良い(笑)のです。

自分の業(煩悩)に「把らわれないこと」が大切です。


注:【菩提とは、悟りの果としての智慧のこと】
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■「煩悩(業)のまま」・「み運びのまま」に歩かせてもらいますとは、

「自分の煩悩」を気にしなくても良いということです。


煩悩を現わしたままで、救われているのです。

「いたらない凡夫の自分」であると思えると、下から救われる(笑)のです。

その心境を表したのが下の歌です。


■『煩悩が、仏の業(わざ)としらされぬ、 余るいのちを、いとおしみ生きむ』

■『天国に生きることをあきらめし 私は天国に安らけくあり』
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★自分の煩悩(消えてゆく姿・業)を行じることが、「生きること」です。

自分は、自分の業を現わすために生存しているのです。

業(煩悩)を現わすことは、「神と一体である自分」、「守護霊と一つである自分」の仕事です。


★「すべての出来事」は、業の「消えてゆく姿」です。

「売れる」も「売れない」も「消えてゆく姿」であり、固定した事象ではないのです。


★人には様々な「消えてゆく姿(業)」があります。

「怪我をする人」もいれば、「怪我をさせる人」もいます。

殺人を犯してしまう人(戦争などでも)もいれば、
殺される人や、その家族という「消えてゆく姿」を体験する人もいます。

どれが良くて、どれが悪いということではないのです。

だれでもが、「仏のいのち」を、事情があって生きているのです。

自分も「仏のいのち」を生きている中のひとりなのです。

★あれこれと考えること自体が、「迷い」です。

あれこれ考えなければ、私たちは「救われた世界」に生きています。


それが、「煩悩即菩提」の考え方なのです。

自分に備わった「煩悩(業)」しか出ないのです。