『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【1386】神や仏は、「心境」ではない。「事象」を楽しむ。

2008-04-30 02:33:45 | 思索
もうすこし砂子さんの講話の内容をメモしたものがありますので、重複するかもしれませんが載せます。(^^;ゞ
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★【神や仏は、「心境」ではない。】

「いまの状況そのものが、神であり、仏である」と捕らえると、その時のことが、その時で終わっている。

何が問題なのかというと、「思い」が問題。たとえば、「バカ」と言われた『自分』をつかむと、「思い」が生じる。
(「自分」という思いは、想念である。「自分」と思わなければ、「自分」はない。)
人は、勝手に「自分」を思起し、ストーリーを編集して苦しんでいる。

幼い弟が、積木を一生懸命に積む。それを姉が壊すと、弟がケタケタと笑う。
3歳未満の幼い子供には、「私」がないので、「『自分』が作ったものが壊された」と思わない。

積んだ積木が壊れるという「変化」そのものが楽しめる。(*^_^*)

「自分」がないので「怒り」が生じない。「事象」を楽しめる。

私たちは、自分の「思い」で、『私』を憑依させている。

『私』を手放せば、『自分』という機能をもっと活発にイキイキと使うことができる。(*^_^*)

「不安」さえも楽しむことができる。経験として、思う存分楽しむことができる。
「不安」は、人生にとって必要なものだ。

これが超プラス思考の考え方です。超開放系の考え方です。(*^_^*)

【1385】起こることが起こっただけで、誰も損をしていない

2008-04-29 06:20:29 | 思索
『「全肯定」が分かれば、気楽に生きられます。』の具体的なよい例があります。(^^;ゞ
「私たち」は、何が起こっても大丈夫なのです。(^^;ゞ

先日、大阪府警の出納係の二人が、「アリス」に来たのです。(^^;ゞ

以前に書いたように、昨年7月の大行事に参加するために路上に駐車しておいた車が、
駐車禁止の取り締まりに引っかり、その反則金(15000円)が未納だったので集金に来たのです。(^^;ゞ

まさか、集金に来るとは思っていなかったので、正直びっくりしましたが、
まあ、いろいろをお話が出来て、良い経験になりました。(^^;ゞ

やはり、駐車禁止の違反金の収入は、10億円以上あるそうです。
大阪府にとっては、貴重な財源なのです。(*^_^*)

現象的な事実をみれば、私が違反をした結果、反則金が払われ、それが大阪府の財源になるのですから、
何の問題もないわけ(笑)です。なんの矛盾もないし、だれも損をしていないのです。(^^;ゞ

「私」という概念を入れと、「私」が損をした思うことになりますが、(^^;ゞ

全体をみれば、「起こることが起こった」、「宇宙がそうなった」(笑)、「神さまがそうした」(笑)というだけのことです。(^^;ゞ
起こることが起こっただけであり、「全肯定」で良いのです。(*^_^*)

違反していないのに反則金を集金にきたわけではないのですから、問題はないのです。(^^;ゞ

集金にきてくれて、私的には、「私(本心)」がすっきりしました。(^^;ゞ

出納係の2人はガッシリした体格の人で、車で出来たのですが、、たくさんの名前の書いた名簿を持っていたそうです。
私が「なかなか、行く時間がなくてすいません。払いますよ。」というと喜んでおられました。(*^_^*)
一日まわると、かなりの金額になると思います。(^^;ゞ

ひょっとすると、橋下知事の支持かもしれませんね。(*^_^*)

正直な話、あのころは金銭的に苦しかったで、払う余裕がなかったのです。(^^;ゞ

【1384】『人生は、初めから何事も成就するように出来ている』について

2008-04-29 05:36:34 | 思索
今月の白光誌の「日々の指針」には、
『人生は、初めから何事も成就するように出来ている。自らの心が迷い、疑わない限りは」とあります。

霊的には、「人類のすべてが、自分の思った通りの人生を生きている」のです。(^^;ゞ

先々週の『オーラの泉』でも、榎本孝明さんが、
「人間は、食べなくても生きられる。自分がどのように思っているのかが、自分の人生である。
たとえば、『食べる量と体型』には、なんの関係もない。自分の体型は、「自分の想い」が作っている。
少しか食べないのに肥えている人もいるし、沢山食べているのに痩せている人もいる。
自分の体型は、『自分の想い』が現れている姿なのです。」と言っていました。

「表面的な言葉の意味」だけを考えますと、
『自分の「思った通りの人生」を歩んでいるのに、なぜ不幸が起こるのか』(笑)という疑問が起こるのは、当然です。(^^;ゞ

ですがそれは本当に、「言葉の表面的な意味」を捉えた理解(笑)でしかありません。(^^;ゞ

「真理を知るためのプロセス」として、必要があって、『一見、不幸に思えること』が起こっているのです。

「どのような人生を歩むのか」は、「本人が決めている」のです。

他人の人生(プロセス)を批評するのは、越権(笑)なのです。(^^;ゞ

「人類のすべてが、『プロセス』として、思った通りの人生を歩んでいる」のです。(*^_^*)

★上の「真理」というのは、「人間と真実の生き方」と「我即神也」と「人類即神也」です。

その内容は、「人類のすべてが、必要な『プロセス』として、思った通りの人生を歩んでいる」です。

真理を理解することが『人生の目的』であり、そのために必要なのが、『プロセス(内容)としての人生』です。
ですから、人生に起こっていることは、「全肯定」で良いのです。 

「全肯定」で行きましょう。「全肯定」でゆくしか、道はないのです。(^^;ゞ

「全肯定」が分かれば、気楽に生きられます。(*^_^*)

【1383】私の「いのち」は、「宇宙」からもらったという単純な事実!

2008-04-29 03:48:10 | 思索
「我即神也の印」を組んでいたときに、自分の「いのち」は、「宇宙」につながっている「いのち」である。
「宇宙」からもらった「いのち」であると、ストンと素直に(笑)思えました。(^^;ゞ

「宇宙」にもらった「いのち」ならば、他人のために使っても惜しくはない(笑)のです。
「家内」のために使っても、惜しくはない(笑)のです。(^^;ゞ

これが、「愛の原点」(?)かも知れません。

なぜ、こんなにも簡単なことに気づかなかったのでしょうか(^。^?

私は、自分の心を鎧で囲っていたようです。

もっと、自分の心を開放して、それを表現してみようと思いました。(^^;ゞ

「私のいのち」は、どうせ(笑)「宇宙」からもらった「いのち」であり、
時期がくれば無くなるのですから、
他人のため、世界平和のために使っても惜しくはないのです。

「他人」のために、私の「いのち」を使えば使うほど、『死後に「良い世界」に行ける』!
いや、「死後」は、『今』でした。(*^_^*)

【1382】「内なる神」が、「聖なる栄養」を与える

2008-04-28 03:46:00 | 思索
『神々の食べ物(聖なる栄養とは何か)』(ジャスムヒーン著)のなかに「内なる神」という言葉が出てきます。
「内なる神」とは、「無限なる力」であり、すべてのレベルにおいて、「私」に力を与えるのだそうです。

「私」は愛と知恵を放射し、それは「私」を通して流れ、「私」に栄養を与えるのです。

これは、人間はプラーナ(宇宙子?)を吸収する体(ライトボディ)になれば、
食物を摂らなくても生きられるようにということです。(^^;ゞ

そしてこれが、『無限なる自分』・『完全完璧な自分』が顕現した姿だということです。

「呼吸法の人類即神也の印」を組むことによって、ライトボディになるのです。

それが、ひとりひとりの進化創造の道筋です。(^^;ゞ

私たちは、その「進化創造の世界」に、「いのち」を置かれているのです。
なんと有難い(笑)ことでしょう。

そう考えますと、「祈らないでは、要られない気持ち」(笑)になります。(^^;ゞ

【1381】この世は、『愛し合う』ことで成り立っている。(愛と瞑想)

2008-04-27 04:44:32 | 思索
「この世は、『愛』で出来ている』と思うのです。(*^_^*)
この世は、『愛し合う』ことで成り立っている!(^^;ゞ

だから、自分は「愛」を表現してゆく。それが、調和のとれた生き方である。(^^;ゞ

考えてみれば、それだけのことなのです。(*^_^*)

それなのに、この世は「奪い合いの社会」、「競争の社会」だと考えるので、
「損をしたくない」・「『自分』を守らなければならない」という気持ちが生じる。

「貨幣」があるから、「勘定」が始まり「損得」を考える性癖になる。(^^;ゞ

私たちが、心打たれるのは、「損得を考えない愛情深い行為」。
大自然や幼児の行いには、「損得勘定」がないので、心が動かされる。(^。^?

『所有と分配の人類学(エチオピア農村社会の土地と富をめぐる力学)』松村圭一郎著(世界思想社)
という本の書評が、新聞に載っていました。

私たちは、資本主義という貨幣経済のシステムのもとで、「所有と分配」を決めていますが、
そのような「所有と分配の方式」は、普遍的なものではなくて、
人間の「思い」が変われば、どのようにも変化するのです。

人類の意識から、「他人との比較から生じる欲望」がなくなれば、社会システムも変化します。

『人間(人類)』にとって必要なものは、そんなに多くはないのです。

極論ではありますが、(^^;ゞ
「座れる場所」があれば、瞑想は出来るのです。(^^;ゞ
そして、「瞑想」ができれば、いつでも「至福」のなかに居ることが出来るのです。(^^;ゞ

自営の「弁当屋」も、「自分の損得」ではなくて、「お客さんの役に立つには、どうすれば良いのか!」という視点に
切り替えたので、上手く回るようになりました。(^^;ゞ

【1380】他人を愛することが、自分を愛すること(*^_^*)

2008-04-26 03:22:02 | 思索
【1379】を基に考えれば、『自分と他者の境目がなくなることが「愛」』だと言えます。

他人を愛することが、自分を愛することなのです。(^^;ゞ

考えてみれば、もともと「全部はひとつ」なのですから、自他は一体なのであって、
自分と他人を分けて考えること自体が、「自分」に把られた、自分中心の思考なのですから、
それが「間違いのはじまり」(笑)です。 (^^;ゞ

次元のことを考えていたら、そういう結論になりました。(^^;ゞ
以下、そういう結論に達した経緯を簡単に書いてみます。
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つまり、「自他が一体である」という事実に気付くと、
「他人を愛するこ」こが、「自分を愛すること」だという心境になります。(^^;ゞ

人間の意識が次元上昇すると、自他の区別がなくなるので、「愛」が表現されるのです。

人間は3歳ぐらいで、自意識が生まれ、「私」という憑依が起こって、「自分」というものが現れます。
これは生命にとって必要なことです。

その後、いろいろな経験を経て、「我即神也」という真理に気付き、自分の「意識」が広がって、
「愛深い人」になる。これが、「人間の意識の進化」の道筋です。

自分の意識を次元上昇するための方法の一つとして、「我即神也」という言葉(概念)を使うのですが、
この場合、「言葉」に把られないようにする注意が必要です。(^^;ゞ

「4次元以降の世界」は、反転した世界です。
「我即神也」という言葉(概念)も、この反転を表した言葉であり、
「我即神也」という言葉を使うことによって、自分の「意識」が逆転するのです。

実際に、「世界(宇宙)」は、「見ている私」と「見られている物」が一体になって、起こっているのであり、
もともと4次元なのです。

私たちは、ただそのことに気付けば良いのです。
「4次元を認識する意識」に目覚めると、「私」が拡張しはじめます。

そして、「自他が一体」であることを知り、「愛」に目覚めるのです。

私たちは、「4次元の世界に住んでいる」のだけれども、
それを「3次元(物質的な世界)の世界観」に押し込んで解釈している。

そのことから生まれる「2元対立の考え方」が、すべての不調和(環境汚染や飢餓や病気など)の原因なのです。

自他一体の「愛」に目覚められない人類の意識が、環境汚染や飢餓や病気を作り出しているのです。

★私たちは、すでに4次元の世界に住んでいます。
私たちは、それを思い出せば良いのです。その方法が、瞑想です。

【1379】私たちは、『他者』を含んで生きている

2008-04-25 05:00:11 | 思索
【私たちは、「自己」のなかに『他者』を含んで生きている】ということは、
感覚的にもわかります。

他人の眼を気にする自分があればこその「自分」です。
他人から、どのように思われるかを気にすることがあって、
それぞれの人生を生きているのです。(^^;ゞ

砂子さんの『次元の扉』の【4.2次元と他者】を読んで、
次元的な解釈でも、そのようなことが言えるのだと知りました。(^^;ゞ

★他者は、『私』の見ている『他者』でありながらも、
それは、好き勝手に思ってもよい『他者』ではなくて、
『私』は、『他者の視線』(どのように見られているのか?)を内包している存在なのです。

つまり、『他者』とは、「真の自己」を内包する存在なのです。(^^;ゞ

私が、『自分』と思うなかに、『他者』がいるのです。
そして、このことは、以下のようにもいえます。

『この洞察は、「他者」に注意をむけなさいということではありません。
「今見えていることそのことの中に自他を超えた世界は刻々を動いている」ということです。』(p31)

★私たちは、「自己」のなかに『他者』を含んで生きているのです。
「自己」とは、他者を意識した「私」なのです。

これは、「肉体」についても言えることです。
自分の「肉体」とは、自分の想念の内容なのです。

つまり、肉体のなかに、自分(精神)があるのではなくて、
自分(魂)なかに肉体があるのです。

「自分の肉体」とは、自分の思っている「肉体の状態(内容)」なのです。

【1378】『世界』は、止まっているのです。(*^_^*)

2008-04-24 03:34:52 | 思索
砂子さんの講話のお話をもうすこし書きます。

★「思い」のなかに「私」がいて、「私」が許容量をつくるので、執着(違和感・怒り)が生まれるのです。

五井先生が、「一度祈ったら、ずっと祈っている。本心はつねに祈っている」というのは、
「すべては、いのちの働きだ」という意味です。
気づいてみると、「ずっと祈っていたなあ」と思えるのです。(^^;ゞ

たとえ話があります。 ある人が、妙好人に、「足が痛くて、念仏をあげられません」というと、
妙好人が、「痛いのも念仏ですよ」と答えた。(*^_^*)

「痛い」と『思う』のは、「いのちの働き」なのですから、悪いことではないのです。
「いのち」が充分に働くために必要なことなのです。(*^_^*)

その「痛い」は、「思い」というよりは、感覚です。
まず、感覚が生じて違和感が起こり、嫌悪感が生じて、それが感情になり、
過去の記憶に結びついた「編集(連想)」が起こるのです。

その一連の流れは、「いのちの働き」であって、必要なことなのです。
「過去の経験」は必要がないという話ではないのです。(^^;ゞ

けれども、その「編集」よって「執着」が生じるのです。

私たちの『思い』は、いつも「過去」のものです。
『思い』が現れたときは、いつも「思った」という過去形です。

「思った」ときには、消えているのです。(*^_^*)

■『思い』は、私たちの「輝かしい生命活動」の原点ですから、
『思い』を持つことは、悪くことではないのです。
『思い』に把られることが問題なのです。

自分の想念を観察してみますと、『思い』は次から次へと現れては消えゆくだけです。

自分の『思い』で、消えてゆく姿の『思い』をつかんではいけないのです。

『世界』はもともと、「消えてゆく姿」なのです。
自分勝手に、自分の『思い』をつかんで苦しんでいるのが、「私たち」なのです。

「私たち」は、もっと、「おとな」にならなければならないのです。(^^;ゞ

妙好人の言葉に、
『不安、あんたにあげたら、生きていけない。
不安は、「いのちの輝き」だから。』というのがあるそうですが、
「不安」という思いも、必要だから起きているのでして、
それもまた、「いのちの輝き」の一部なのです。

『世界』は、もともと「消えてゆく姿」になっているのです。
 その『世界』の解釈の中に、「自分中心の思い」を持ち込むので、問題が生じるのです。(^^;ゞ

「世界」とは、「一瞬一瞬の今(永遠のいま)」なのです。
『世界』は、「消えてゆく姿」なのです。

「問う自分」「解釈する自分」が居なければ、『世界』は、瞬間のまま、
「あるようにあるだけ」なのです。

『世界』は、止まっているのです。(これは、「私」の言葉です)(^^;ゞ

【1377】『自分の思い』をつかまないことが、「世界平和への道」(*^_^*)

2008-04-23 05:22:20 | 思索
砂子さんは講話のなかで、『思い』は、「いのちの働き」として、大切なものだと言われました。
以下のような詩を紹介してくれました。

★『両手ですくってみたら』(小林ゆうこさんの詩)

「さみしさを、両手ですくって、
心のなかを覗いてみたら、
残っているのは、カスばかり、

捨てようとした寂しさを、
そっと戻してあげました。
私の大事な分身です。」

つまり、『思い』は、自分の「いのちの働き」の一部であり、自分の大切な分身なのですが、
その『思い』に把られると苦しくなるという話なのです。

なぜかといいますと、
「宇宙(世界)のすべて」は、瞬間、瞬間に起こって消えているからです。(*^_^*)
これを、「消えてゆく姿」というのです。(^^;ゞ

つまり、『「宇宙(世界)全体」は、「消えてゆく姿」という構造になっているのです。

ですから、「宇宙」の一部である『自分の思い』も、瞬間、瞬間に起きては消えているものなのです。(*^_^*)

「消えている」のにつかむので、把われる(執着する)のです。

自分で、『自分の思い』をつかんで苦しんでいるのが「世俗の人(凡夫)」なのです。(^^;ゞ

自分を内省して洞察できれば、自分が『自分の思い』をつかんでいることに気づけるのです。

人は、瞬時に「自分の思い」をつかむので、自分が『自分の思い』をつかんでいることに気づかないです。

「この真理」に気付けないで苦しんでいるのが、「世俗の人(凡夫)」・「真理を知らない人」(笑)です。(^^;ゞ

「この真理」を知った私たちは、今日からそれを実践しましょう。(*^_^*)
すくなくとも、実践することを心掛けましょう。

そうすれば、かならず『世界』は平和になります。
いや、『世界』を平和にする方法は、これしかありません。(*^_^*)
自分が、『自分の思い』に把られていて、『世界』が平和になるわけがありません。(*^_^*)

この『自分の思い』に気付く方法が、瞑想なのです。

つまり、『世界』は、「永遠の今」であり、
『世界』・『自分の心』を平和にする方法は、『自分の瞑想』なのです。

【1376】「家内」に感謝が出来ていませんでした。(^^;ゞ

2008-04-22 03:03:43 | 思索
一昨日は、金井忠義さんの講話を聴いてきました。 
 ご自分の体験を語られたのですが、私にとっては、とても示唆のある内容でした。(^^;ゞ

金井さんは白光の元職員でもあり、白光とつながって45年なのだそうですが、
それでも、数年前に、大きな「消えてゆく姿」を経験されて、
そのときになってやっと、「感謝」が出来ていなかったご自分に気いたそうです。

その話をお聴きして、自分に当てはめてみたのですが、
これだけ「世界平和の祈り」をし印を組み、「白光の教え」を実行しているのに、(^^;ゞ
私も家内に「感謝」が出来ていなかったことに気づいたのです。(^^;ゞ

自分は白光の会員であり、日夜一生懸命にお祈りをしています。(^^;ゞ
それで当然、自分は「感謝出来ている人」・「愛を実践できている人」であると思っていたのですが、(^^;ゞ
そうではなかったのです。(^^;ゞ

自分を「感謝の出来ている人」と思っていること自体が間違いであり、傲慢であったのです。

海や大地や空気や水には感謝できているのに、
肝心な「家内」には感謝ができていなかったのですから、お恥かしい限りです。(^^;ゞ
「灯台もと暗し」(笑)だったのです。

私は毎朝、「世界平和の祈り」と感謝行をしているのに、いったい何をしていたのでしょうか?
「人類」を愛することは出来ていても、「家内」を愛することは出来ていなかったのです。(^^;ゞ
「あらゆる物」には感謝できても、「家内」には、感謝が出来ていなかったのです。
私の祈りは、「自己満足」(!)だったのです。(^^;ゞ

『守護霊さん、御免なさい!』です。(^^;ゞ

金井さんのお話によりますと、
「守護霊さん」というのは、「自分の親」だと思えば良いそうです。

『私の自立』を願い、私が無事に人生の修行が終えられるように、手助けをしてくれる存在です。
ときには、「厳しい試練」も与えますが、それらもみんな『私』が良くなるためです。(*^_^*)

「私への気づき」を、こんな優しい方法(講和会)で教えてくれて有難いです。

今回の「気づき」は、しっかりと心に留めておくつもりです。(*^_^*)

【1375】「私という名の憑依」に気づけば、「業の自分」が見える(*^_^*)

2008-04-21 03:36:56 | 思索
砂子さんの講話で印象的だった内容の一つに『「私」という名の憑依』という話があります。

簡単にいいますと、「自分の損得勘定(感情)の思い」が、起き上がっている時というのは、
『私』という思いが、憑依している状態なのです。

反対にいいますと、自分が他人のために働こうと思っている「愛の波動」の時には、
「『私』が憑依していない状態」なのです。「世界平和の祈り」をしている時は、憑依していません。

「自分の精神状態」をこのように、『私という名の憑依』のあるなしで判断しますと、
「業の自分」にすばやく気づくことが出来ます。(*^_^*)


【1374】「リアルな時間」と「バーチャルな時間」(時と時間のちがい)

2008-04-20 03:34:33 | 思索
先月の講話会のあとの座談会で、砂子さんが、「時間には、2つある」と言われました。
「なんのことだろうか?」と、ちょっと不思議な感じがしていたのですが、
昨日、砂子さんに『次元の扉』という冊子を贈っていただいたら、
【第5章 時間から時へ】に、そのことが書いてありましたので、引用しながら簡単に書きます。

★ひとつは、「客観的な時間」です。それは、「歴史的な時間」の流れなどです。
例えば電車に乗っていて、時間が経てば移動したりすることです。
「時刻」という見方も、これです。

もうひとつは、生きている私の時間。感覚的リアルな時間です。
「今」「今」「今」という意識に、覚めている時間です。
わくわくしている「今」です。

後者が「リアルな時間」なの対して、前者は、バーチャルな時間です。
前者の「客観的な時間」がバーチャルな時間だというのは、おかしいと思うかもしれませんが、
「客観的な時間」は、「思われている内容」に属するから、バーチャルなのです。

思っていること自体(事態)は、リアルですが、その思いの内容がバーチャルなのです。

くりかえしますが、客観的な時間は、直接経験されません。経験しようとすると「今」になります。
理屈を言えば、現在は客観的時間の中では、点時刻であり、時「間」を経験できない。
今という時はリアル、客観的な時間はバーチャルということになります。

時(今)・・・リアル
(客観的な)時間・・・バーチャル
(『次元の扉』p38より、一部を転写)

『時(今)がリアル、(客観的)時間がバーチャルという区分をしました。
観察されている「今の様子」に豊かな「生の世界」があります。

観察者がいるとしているのは、見ているこちらとあちら、あるいは内と外を分ける分離認識からきます。
観察内容に内外の分離をつけるのは、見た後の考え方です。

観察内容に内外の区別をしなければ、内外の分離感覚はなくなります。
これこそ4次元感覚のひとつと言えます。
「時間」の枠からはみ出た感覚です。

別の見方をすれば、「時間」を設定することによって、経験を細分化しているとも言えます。
「時間」を使って、体験をフォーカスすることが可能になっています。
そうしてみると、「思い」の凄さに驚きます。(同 P42より抜粋)

【1373】『他人』とは、自分の見ている『他人』である(自分という牢獄)

2008-04-19 03:57:34 | 思索
 純粋に 客観的な『他人』は、認識できない。
 あくまでも、「自分の見た『他人』(主観的他者)」があるだけである。

人類の全員が、そのような「色眼鏡状態」でありながら、
自分の思っている『他者』に、自分の勝手な『思い』で働きかけ、
自分の『思い』を満足させようとしているのだから、ややこしい。(^^;ゞ

『世界』は混乱するはずである。(^^;ゞ

それら「思いの連鎖の悪戦苦闘」は、私たちにとって、人類にとって、どのような意味があるのか?

私たちの人生の目的はなにか?

私たちは、『それぞれの人生』で何をなそうとしているのか?

私たちは、『自分という牢獄』のなかで、いったい、何がしたいのだろうか?
何ができるのだろうか?

私は、『すべては、「消えてゆく姿」であることを、知るためのプロセスである』と考える。

そう考えると、『人生の謎』が解けて、納得して生きられる。(*^_^*)

【1372】『時間』はない。『今』しかない。その『ゼロ次元』が存在!

2008-04-18 04:34:40 | 思索
【1370】で触れた【「時間」はない】と【他人とは、自分の見ている他人】について書きたいと思います。

これは、「事実を見れば、そうなっている。『人間の認識の構造』は、そうなっている」という話です。
人間は、『自分の思い』から一歩も外へ出られないという話です。
『すべては、自分の「思い」である』という話です。 (*^_^*)
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★★【『時間』はない!。『今の思い』しかない。『今』しかない。その『ゼロ次元』が存在】★★

『時間』というのは、自分の『思い』である。
心が作り出しているのである。

すべては、『今の思い』なのである。
『今』、『今』、『今』、・・・・しかないのである。

過去や未来のことを思い煩っても、恋焦がれても (^^;ゞ
『今』しかないのである。『自分=世界=宇宙』はそういう「構造」なのである。

そして、そういう「思い」つまり、
『「宇宙」には、「今」しかない』という「思い」も、「消えてゆく姿」なのである。(^^;ゞ

だから、ただただ、『今の思い』だけが実在するのである。
これが、『今を生きよ』『今に集中して生きよ』『今を意識して生きよ』『今にあれ』という意味である。

『今』以外に、生きるべき「次元」はないのである。
この『今』が「存在」である。
『今』というゼロ次元が、『存在』なのである。

『私』は、全宇宙の中にあって、『ひとり』であり、
『今』に生きる者である。

そして、『他人』もまた、
私の認識している『他人』でありながら、
それぞれの世界(業)を背負った『宇宙の旅人』なのである。

なんと尊いことか!

★その「時間」には、2週類あるという話を砂子さんから聞きましたので、
後日書きます。