もうすこし砂子さんの講話の内容をメモしたものがありますので、重複するかもしれませんが載せます。(^^;ゞ
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★【神や仏は、「心境」ではない。】
「いまの状況そのものが、神であり、仏である」と捕らえると、その時のことが、その時で終わっている。
何が問題なのかというと、「思い」が問題。たとえば、「バカ」と言われた『自分』をつかむと、「思い」が生じる。
(「自分」という思いは、想念である。「自分」と思わなければ、「自分」はない。)
人は、勝手に「自分」を思起し、ストーリーを編集して苦しんでいる。
幼い弟が、積木を一生懸命に積む。それを姉が壊すと、弟がケタケタと笑う。
3歳未満の幼い子供には、「私」がないので、「『自分』が作ったものが壊された」と思わない。
積んだ積木が壊れるという「変化」そのものが楽しめる。(*^_^*)
「自分」がないので「怒り」が生じない。「事象」を楽しめる。
私たちは、自分の「思い」で、『私』を憑依させている。
『私』を手放せば、『自分』という機能をもっと活発にイキイキと使うことができる。(*^_^*)
「不安」さえも楽しむことができる。経験として、思う存分楽しむことができる。
「不安」は、人生にとって必要なものだ。
これが超プラス思考の考え方です。超開放系の考え方です。(*^_^*)
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★【神や仏は、「心境」ではない。】
「いまの状況そのものが、神であり、仏である」と捕らえると、その時のことが、その時で終わっている。
何が問題なのかというと、「思い」が問題。たとえば、「バカ」と言われた『自分』をつかむと、「思い」が生じる。
(「自分」という思いは、想念である。「自分」と思わなければ、「自分」はない。)
人は、勝手に「自分」を思起し、ストーリーを編集して苦しんでいる。
幼い弟が、積木を一生懸命に積む。それを姉が壊すと、弟がケタケタと笑う。
3歳未満の幼い子供には、「私」がないので、「『自分』が作ったものが壊された」と思わない。
積んだ積木が壊れるという「変化」そのものが楽しめる。(*^_^*)
「自分」がないので「怒り」が生じない。「事象」を楽しめる。
私たちは、自分の「思い」で、『私』を憑依させている。
『私』を手放せば、『自分』という機能をもっと活発にイキイキと使うことができる。(*^_^*)
「不安」さえも楽しむことができる。経験として、思う存分楽しむことができる。
「不安」は、人生にとって必要なものだ。
これが超プラス思考の考え方です。超開放系の考え方です。(*^_^*)