『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【2272】「世界平和の祈り」をするのが、私のこの世での仕事!(^^;ゞ

2009-10-31 02:48:57 | 思索
『第15回インターナショナルピープルカーニバル』(堺市にて開催)には、
たくさんの『地球世界感謝マンダラ』と『光明思想徹マンダラ』が展示してありました。
益々、デザインが素敵で豊富になり、見栄えのする素晴らしいものばかりでした。(*^_^*)

立ち止まられた方には声を掛けて、「文字で書かれていること」を説明すると、必ず興味を持ってもらえます。(^^;ゞ

すかざず、「言葉が、その人の人生をつくってゆくので、良い言葉を自分の潜在意識に刷り込むためにマンダラを描くのです」
というようなお話をします。

私は、ピースポールのことも話題にします。(^^;ゞ
「私たちはボランティアで、『世界人類が平和でありますように』と書かれたピースポールを、
世界各地に立てるという活動をしています」と話します。

そして、「世界人類が平和でありますように」という言葉を、世界中に流行らせたいと思っているのですと言うのです。(^^;ゞ

世界中の人たちが「世界人類が平和でありますように」と思うことによって、「世界は平和になる」と話すのです。(*^_^*)

そいう活動を提唱した方がいるのですが、
「先輩たちは、戦後すぐから50年間、それをやっています」と私が説明しますと、みなさん納得をされて、
「ご苦労様です。ありがたいことです」と言われます。(^^;ゞ

それを聞いて私は、「世界平和の祈り」をするのが、この世での自分の仕事なので、益々、
もっと一生懸命に祈らなければと思いました。(^^;ゞ
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★『第15回インターナショナルピープルカーニバル』で撮った写真を、
http://syasinnpeinnto.blogspot.com/に投稿しましたので、よろしければご覧ください。(^^;ゞ

『地球世界感謝マンダラ』と『光明思想徹マンダラ』

【2271】写真って何だろうか(^。^?

2009-10-30 03:38:30 | 思索
写真もまた「縁で存在するもの」だと思うのです。 (^^;ゞ
写真は、「縁」のかたまりみたいなものです。(^^;ゞ

デギカメを使って、外界から自分の表現したい風景や表情を切るとることは、
とても楽しいです。(^^;ゞ

それは、次々に変化をしてゆくので、追うのが大変(笑)なのですが、
帰宅して、デジカメの映像を整理したり、トリミングしている時は「至福の時間」です。(^^;ゞ

★写真もまた、関係性(=縁)だと思うのです。
 その「縁」をいかに活かすのかが、各自の「腕の見せ所」(笑)だと思うのです。 (^^;ゞ

「人間関係」と同じです。活かせば良いのです。(^^;ゞ
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★『東大寺』という本の大仏さんの、同じ写真を見て描いてても
まったく違った絵になるところが、絵手紙の面白いところです。(^^;ゞ

違う絵として現れるところに、「作者の個性」が発揮されているのです。

【2270】すべては、時空のなかの『関連性』=『縁』

2009-10-29 06:01:05 | 思索
【2270】すべては、時空のなかの『関連性』=『縁』

【2269】の【「自分」の人生の中心は、「自分」ではない!】というような文章を、たくさん書いてきましたが、(^^;ゞ
このごろ、「まとめ切れない!」と思うことが多々あります。(^^;ゞ

というのは、厳密に書こうとすればするほど、たとえば「自他の区別」はなくて、
あるのは「自と他の関係性」だけだと思えてくるからです。(^^;ゞ

「自分」というものは、本当に「超あやふやなシロモノ」でして、
「カッコとしたモノ」があるのではなく、ただただ、
「他(人・物・状況)」との関係性において存在している。 存在し得ているとしか思えないのです。

「楽器の演奏」もそうです。楽器があって、弾く人がいて、空間に音が響いて、
その響きで、自分が感動したり、他人が感動したりするという『関係性』のなかに、
「音楽」という世界があるのです。

音楽もまた、「カッコとしたモノ」ではないのです。
時空のなかの、『関係性』なのです。(^^;ゞ

「絵画」・「服装」・「旅行」・「夫婦」・「親子」などもすべて、『時空のなかの関係性』です。

私たちは、『とてつもなく不思議な世界』に住んでいます。(*^_^*)


★今日の『天声人語』に、落語界で初めて文化勲章をうける桂米朝さんの言葉が載っていました。

『良い雰囲気の中で、客席と演者が一つになったような時、真の落語は、その中に存在します。
そして、終了と同時に消えてしまいます。その一瞬のために精進するのが、噺家です』

「時空の関連性」が調和するように、意欲を持ってあれやこれやと活動しているのが、「人間」のようです。(*^_^*)


★「自分」とは、『関係性』なのですから、「良い」も「悪い」もないのです。

何事も、「言葉で語れない!」のです。「言葉で語られ得るモノは無い!」のです。

「自分」とは、『関係性』(=縁)のことなのです。

「自分」とは、『関係性のなかの記憶の集積』なのです。(^^;ゞ

「自分という存在」は、自分の「思い込み」のなかにしかないのです。(^^;ゞ
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★今日、「存在を果たし絵」(生徒さんの作品)です。
絵もまた、「関係性」のなかで、「出てくる(存在を始める)」のです。

『絵』とは、空間とモチーフと画材と描く人とのアンサンブルなのです。(*^_^*)
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★久しぶりに、いろいろな楽器を好き勝手に弾いてみました。
『ミニ一弦楽器』が、面白く弾けました。(^^;ゞ

アドリブ演奏は、楽しいです。 身近な楽器で試してみてください。(^^;ゞ

「ミニ一弦楽器のアドリブ演奏」

「ミニ一弦楽器のアドリブ演奏」

【2269】「自分」の人生の中心は、「自分」ではない!

2009-10-28 05:24:10 | 思索
もっと深く、『「自分の思い」とは何か?』『「自分の思い」は、どこから来るのか?』を探索してみますと、
『「自分の人生」の中心は、「自分」ではないこと』に気づきます。(*^_^*)

「他者の姿」が、「自分の心の様子」なのです。
「他者の姿」=「自分の心の様子」なのです。
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「自分の思い(心)」の様子を観察してみると、次のようなことに思い至ります。(^^;ゞ

★私たちは、少なからず、
他人の目に映る自分を意識して、「自分の行動」・「自分の生き方」を決めています。

★ということは、「自分の心」に「他人」を反映させて、生きているということです。

「他人の姿(行動・思い)」を、「自分の心(思い)」で理解しているのです。

「他人の姿(様子)」は、「自分の心のなかにある」のです。

「他人の言動や体験」は、「自分の心の様子」なのです。


★ですから、「自分の人生」とは、「他人」をどのように思うかなのです。

★例えて言うなら、
「他人の様子が、整っている」と思えることが、「自分の心が整っていること」なのです。

「他人」は神であり、「消えてゆく姿」をしている存在だと思えると、
「他人の様子」が、「整った姿」として、「私の心」に映ることになります。

これが、「消えてゆく姿で、世界平和の祈り」だと思うのです。 (*^_^*)

【2268】「この者(自分)」の働きに教わる!

2009-10-27 04:55:03 | 思索
砂子さんのお話の続きです。(^^;ゞ

★「自分の霊性を開発する」という物語(ゲーム)を思い描き想定して、
自分の人生を極める、完成させるという発想でも良いのですが、(^^;ゞ

それではまだ、「言葉に依存した人生」を送っていると言わざるを得ません。(^^;ゞ

★本当は、そのような「解釈」や「判断」をしなくても良いのです。(^^;ゞ

その都度その都度に、「この者(自分)」の働き(動き・体験)に、
教わる姿勢があればそれでいいのです。(^^;ゞ

自分は、ただ活かされているだけの存在であって、
自分の瞬々の「動き」「働き」を、リアルに感じつづければ良いのです。

「一つ一つの体験」は、終わっていくだけです。
常に終わり続けていくだけなのです。

体験に、「自分の思い(言葉)」をくっ付けなければ、日々は終わってゆくだけです。(*^_^*)

ちゃんと、体験をすること(感じること)が、大切です。

「消えてゆく姿」が終わってゆくことに、感謝なのです。


★このように、「自分」と「肉体の経験」を、完全に分けて考えることができれば、「大した者」(笑)です。

「自分」というのは、「肉体の体験」をする主体であって、「体験」そのものではないのです。

「体験」が、「自分(人間)」を傷付けることはないのです。(^^;ゞ

『すべては、必要な体験』であり、それで『良い』のです。

『すべて必要。すべて良し』なのです。
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 (砂子さんのお話を私流に解釈していますので、文責は私です)(^^;ゞ

『フラッグセレモニー』に、堺市の竹山新市長が参加!(*^_^*)

2009-10-26 04:35:03 | 思索
★昨日は、『第15回インターナショナルピープルカーニバル』(堺市役所前広場にて開催)で行われた
『フラッグセレモニー』のお手伝いをしてきました。(^^;ゞ

『世界各国の平和を祈るフラッグセレモニー』をしている最中にちょうど、
先月に改革を掲げて当選された堺市の竹山新市長が来られて、挨拶をされたので、
フラッグセレモニーに参加していただき、世界の平和を祈っていただきました。(*^_^*)

『第15回インターナショナルピープルカーニバル』

『市長選に橋下知事の影響 堺新市長は住民のための市政を』(記事)

『宗教・宗派を超えて、ともに人類の平和を祈る』フラッグセレモニー


【2267】『激論 若者に未来はあるのか?!』(朝まで生テレビ!)

2009-10-26 04:23:01 | 思索
先日の『朝まで生テレビ!』のテーマは、『激論 若者に未来はあるのか?!』でした。
まだ録画を最後まで見ていないのですが、ベーシックインカムのことが、
かなり真剣に、本気で論じられていました。(^^;ゞ

★時間的な「未来」なら、若者にも老人にも、必ず(笑)あります。
問題は、「希望に満ちた、明るい未来」があるのか?ですが、
それは、個人の人生観によります。(^^;ゞ

自分が『知足の精神』に満ち溢れていれば(笑)、何があっても幸福です。
満ち足りています。

「すべては、体験」なのですから、何があってもいいのです。(*^_^*)

何を体験してもいいのですが、(^^;ゞ
生活の困窮を、社会的なシステムの整備で解消できるのなら、
その方法を考えれば良いだけのことです。(^^;ゞ

世代的な「個々の個人の損得」の論議をしても意味はない。
「退屈な若者論」は要らない(笑)という東浩紀さんの意見に賛成です。(^^;ゞ
(個人的には、「時代のなかでの若者論」には、とても興味がありますが。(^^;ゞ)

企業の雇用形態が変化しても、
みんな(社会の構成員)が暮らしやすくなるための社会システムを、みんなで作れば良いのです。
それが民主主義だと思うのです。

インターネットによる繋がりとコミュニケーションが発達したことによって、市町村の規模にもよりますが、
直接民主主義的な手法で政治を行うことも出来るようになってきたそうです。

そうなると市会議員も要らなくなるので、税金をもっと直接的に有効に使えるそうです。

『激論 若者に未来はあるのか?!』(朝まで生テレビ!)

【2266】「うつになるときには、うつになるのが良く、死ぬときには、死ぬのが良い」のです(^^;ゞ

2009-10-25 02:57:12 | 思索
自分の「リアルな体験」のなかに、「自信がない」という体験(感覚・体感)があってもいいのです。

「自信がない」と思うことのなかに、「自信のなさ」の経験があるから、それでいいのです。成就しているのです。(^^;ゞ


「自信のない」時には、「自信のない」ことを体験しているのです。

その体験(「自信のなさ」)に対して、「いけないことだ」とレッテルを貼る(判断をする)のは、
意味づけであり、・体験の脚色なのです。(^^;ゞ

★「自信のないとき」には、自信のないことを体験すればよく、
 うつになるときには、うつになるのがよく、
死ぬときには、死ぬのがよいのです。(良寛さんの言葉の類似型)(^^;ゞ

それらの全部が、「リアルな体験」・「生きた体験」なのです。

体験するときには、体験をすれば良いのです。
なにごとも、ちゃんと体験することが大切です。


★私たちは、「体験する神」と呼ばれます。

肉体を持たない神(これって、何(^。^?)は、体験ができないのです。

私たちの肉体が相対的な世界の中にあるので、「体験」ができるのです。


★ここまで書いて考えたのですが、(^^;ゞ 肉体がないので、
「あの世」では、「リアルな体験」が出来ません。

生きているうちに、体験を積みましょう。(^^;ゞ

あの世は、「思いだけの世界」だと思うのです。

【2265】「痛いこと」が、「悪いこと」ではない(「思考」が自分だと思っている)

2009-10-24 02:31:09 | 思索

「悪い体験」が、あるわけではないのです。(^^;ゞ
「痛いこと」が、悪いわけではないのです。(^^;ゞ


★考えてみると不思議なのですが、「思い」は、どこからやってくるのでしょうか?

気がついたときには、「思って」います。(^^;ゞ

あっという間に「思い」が湧き、あっという間に消えてゆきます。 (^^;ゞ

自分が「思考している・思っている」のではなくて、
「思い」は、どこからともなく「やってくる」と感じませんか(^。^?

「リアルな体験」は、「どこからともなくやってくる感覚の連続」です。(*^_^*)


★その「リアルな体験」について、あれこれと判断をするのが「自我」です。

「考え」とは、「自分の過去の記憶に基づいた判断(自我意識の表象)」です。

「リアルな体験」とは、「考えないで感じてゆくこと」です。(*^_^*)


★「体験」は同じでも、「経験」は変えられのだそうです。(^^;ゞ

「体験」は、判断をする前の事象です。
「経験」は、言葉で語られた「体験」です。

【2264】「リアルな体験」とは、「存在そのものになること」なのです。

2009-10-23 04:22:20 | 思索
先月の講話会の結論(?)も、『臨場感をもって生きることが、大切』ということでしたが、

今回の講話会でも、「リアルな体験」を意識して生きるということが、
「消えてゆく姿」を生ききってゆくという「白光の教え」に通じることのようです。(^^;ゞ

★「リアルな体験」というのは、私たちが瞬々刻々に意識を向けているそのことです。

「食べ物」に意識を向ければ、頭の中(思い・意識)は、「食べ物」でいっぱいになり、
「他人」に意識を向ければ、頭の中(思い・意識)は、その「他人」でいっぱいになり、
「仕事」に意識を向ければ、頭の中(思い・意識)は、「仕事」にことでいっぱいになる。

「意識(思い)」としては、いつも「手いっぱい(頭いっぱい)」で、ものごとが進んでゆく、
「現象(消えてゆく姿)」が、現れては消えてゆく、

「宇宙(世界)」とは、そういう構造になっているようです。(^^;ゞ


★ですから、「生きる」というのは、「思いの消えてゆく姿」でもあるのです。
それで、どのようにしたら生きやすいかというと、「自分の思い」に把らわれないことが、一番なのです。(^^;ゞ

★「空腹」も、「思い」の一つなので、「把らわれないこと」が出来るかも知れません。 (^^;ゞ


★「リアルな体験」とは、「存在そのものになること」なのですと書きましたが、

「今を頂いている」という境涯(リアルな感覚)こそが、もっとも重要な心境です。

「統一」は、そのような意識に目覚めるために、とても有効な手段です。


★私が、いろいろな楽器の演奏をして心地よいと思え、「一体感」を得たいと思うのは、
【人間は、「一体」を体験するために、肉体として生まれてきた!】からだと思うのです。


★私たちは、「リアルな感覚」を生きている存在なのです。
「白光の教え」を、哲学的な話で終わらせてはいけないのです。(^^;ゞ

【2263】人間は、「一体」を体験するために、肉体として生まれてきた!

2009-10-22 03:31:38 | 思索
【2262】で書いた【人々は、この世での「自分の経験」をするために生まれてきた】と、

『人間は、「一体」を体験するために、肉体として生まれてきた!』という言葉に、
とても納得し感激しました。

これを、別の角度から言うと、(^^;ゞ
【「一体」を体験していない自分は、まだまだだ!】(笑)となりますが、(^^;ゞ

それはともかくとして、
『人間は、「一体」を体験するために、肉体として生まれてきた!』は、
美しい言葉だと思います。

★この言葉は、座談会の最後に、全体をまとめる意味で砂子さんが言われました。

【2260】の『「宇宙」についての哲学的な話』も、その解釈が大切なのではなく、

『私たちは「リアルな体験」として、『自分の意識』で「宇宙(外界との接触)」を生きている』という認識が重要です。


★「リアルな感覚そのもの」が、「宇宙」なのです。

「リアルな体験」は、「存在論」を超えています。

「リアルな体験」とは、「存在そのものになること」です。

【2262】「自分」=「宇宙(外界)」=「各自の思い」

2009-10-21 05:13:36 | 思索
【2261】では、【自分のなかに「宇宙」がある】と書きましたが、もうすこし正確に書きますと、

①【「宇宙(外界)」とは、自分の心に映っている姿である】とか、

②「自分の思いそのものが、「宇宙」である」とか、

③【「自分」=「宇宙(外界)」=「各自の思い」】などとなります。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

★【「宇宙」とは、「自分(各人)の心」に映っている姿そのもの(=思い)】なのです。

「自分(各人・人間)」が存在しないと、たとえ「宇宙(外界)」が三次元的(物理的)にあったとしても、
「宇宙(外界)」を認識できないのですから、「私たち各人・人間」は、とても貴重で稀有な存在なのです。

★「内なる宇宙(心)」とは、「外の宇宙(外界・状況)」そのものなのです。

それぞれの人たちは、それぞれの状況(外界・宇宙)を経験するために、
この世に生まれ、この世での「消えてゆく姿」(経験)をしている存在なのです。

ですから、『他人の「消えてゆく姿」!』に対して、批判、非難、評価を下す必要は一切ない!のです。

★【人々は、この世での自分の経験をするために生まれてきたのです】

そして、その「この世での経験」を通じて何を学ぶために生まれてきたのかというと、
【すべては「一体」であることを学び、体験するため】なのです。

【2261】「自分」のなかに「宇宙」がある!

2009-10-20 05:50:38 | 思索
「宇宙」と「自分」の関係について、もう少し詳しく書きます。(^^;ゞ

★私たちは、「宇宙」のなかに、「自分」がいると考えがちですが、
そうではなくて、「自分」のなかに「宇宙」があるのです。

まず、空間的な感覚では、大きな「宇宙」のなかに、
ポツンと「自分」が存在しているというイメージがあります。

そして、時間的な感覚では、何億年という「宇宙」の時間の流れの中の一部に、
「自分」がいる、「自分」の人生が存在しているというイメージを持ちます。

でも果たして、「事実」はそうなっているのでしょうか(^。^?

私たちが、「物理的にある」と思っている物を含めた「宇宙(外界の物)」は、
どこにあるのかというと、私が見て認識していることにおいて、
「自分のなかにある」のではないでしょうか?

時間的な認識の「過去」について考えてみても、
「過去」とは、「いまの自分が、認識している過去の記憶」なのではないでしょうか?

★ということは、
空間も時間も、外界に存在するのではなくて、「自分のイメージ」といて、
「自分」のなかにあるのです!

「宇宙」は、外界にあるのではなくて、「自分」のなかにあるのです。

そういう意味で、一人一人は「宇宙」なのです。

「宇宙」とは、一人一人に映っている姿なのです。

★「我即神也」というのは、「自分は、神である。創造主である」ということです。

自分で思い描いている「宇宙(状況)」なのですから、
自分の「思い」や「考え方」で、どのようにでも作り変えることができるのです。

【2260】「自我」とは何か? 「想像された自己」である!

2009-10-19 03:35:53 | 思索
昨日は、大阪支部で砂子岳彦さん(浜松大学教授)の講話会がありました。
『人間と真実の生き方』についてのお話でした。

「哲学的な考え方」を基づいて「白光の教え」にアプローチする内容だったので、
私にはとても興味深かったです。

★「宇宙」は、自分の外側にあるのではなくて、自分の中にある。

自分がリアルに感じている、そのことが『宇宙』のすべてである。

「自分が五感で感じているそのもの」が、『宇宙』である。

「外界の物」とは、自分のリアルな感覚なのですから、

「外界」は、自分のなかにあるのです。


★その中で、「自我とは何か?」という問いがなされたのですが、
『自我とは、想像された自己』のことなのです。(^^;ゞ

もう一段階進むと、そういう思い(解釈)もまた、自分の描いている宇宙観に過ぎないのでしょうけれども、
いずれにしろ、「自我」とは、自分の想像物であることに間違いはないのです。

つまり、私たちは、自分勝手に「自我」を立てて、一人相撲をしながら生きている存在なのです。(^^;ゞ

「人間と真実の生き方」