【人生は、喜びをもたらすためにある】という文章を読みますと、
『人生は、喜びのためにある』と思ってしまい、
この「喜び」がどのような質のものなのかを、考えてしまう私がいます。(^^;ゞ
「本心の自分」(大我)が喜んでいるのか?、「業の自分」(小我)が喜んでいるのか?
「魂が、喜んでいるのか?」、それとも「煩悩を満たすための目先の喜びなのか?」
という論理に陥ってしまうのです。(^^;ゞ
ですが、この考え方は、かなり的を得ていて、(^^;ゞ
「絵を描く喜び」と、「ケーキを食べる喜び」は、違うようです。
「自分のいのち(魂)が、どのくらい喜び輝いているのか?」というモノサシを使うと、分かり易いと思うのです。(^^;ゞ
その場合、「祈り還元主義」は、どのような立場なのかといいますと、
「お互いのいのち(本心)を、輝かせようという思い」の立場だと思うのです。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★ この「祈り還元主義」について、「迷い」がありましたが、ここさんのコメントのお陰で、
「いのちの立場」という視点に気付くことが出来ました。(^^;ゞ
「いのちの立場」というのは、大我に目覚めた境地で、「自分の天命」を完とうする立場なので、
具体的な行動をするときに、「祈り還元主義」(原理主義)になることはないと考えられます。
「祈り」が無いときには、小我(煩悩)で行動をしていることになると思うのです。
つまり、「祈り」から離れた行為が、煩悩だと思うのです。
『人生は、喜びのためにある』と思ってしまい、
この「喜び」がどのような質のものなのかを、考えてしまう私がいます。(^^;ゞ
「本心の自分」(大我)が喜んでいるのか?、「業の自分」(小我)が喜んでいるのか?
「魂が、喜んでいるのか?」、それとも「煩悩を満たすための目先の喜びなのか?」
という論理に陥ってしまうのです。(^^;ゞ
ですが、この考え方は、かなり的を得ていて、(^^;ゞ
「絵を描く喜び」と、「ケーキを食べる喜び」は、違うようです。
「自分のいのち(魂)が、どのくらい喜び輝いているのか?」というモノサシを使うと、分かり易いと思うのです。(^^;ゞ
その場合、「祈り還元主義」は、どのような立場なのかといいますと、
「お互いのいのち(本心)を、輝かせようという思い」の立場だと思うのです。
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★ この「祈り還元主義」について、「迷い」がありましたが、ここさんのコメントのお陰で、
「いのちの立場」という視点に気付くことが出来ました。(^^;ゞ
「いのちの立場」というのは、大我に目覚めた境地で、「自分の天命」を完とうする立場なので、
具体的な行動をするときに、「祈り還元主義」(原理主義)になることはないと考えられます。
「祈り」が無いときには、小我(煩悩)で行動をしていることになると思うのです。
つまり、「祈り」から離れた行為が、煩悩だと思うのです。