『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【615】悟りへの道を歩む方法(パンフより)

2006-05-31 21:37:25 | 「白光」の教え
田中園子さんが、イタリアで定期的に開催しているのは、「悟りへの道を歩む方法」というブログラムの集いです。
ハグからはじまり、一緒に真理を学べるように、カルキュラムを作ったそうです。

そのパンフレット(招待状)には、こう書かれています。
『私は毎日とっても、いつでも、幸せなのです。それは、神さまの無限なる愛の光という、
私たち本来の姿に、いつでもなれるからです。

私には、不安も恐怖も心配もない。(*^_^*)
この世で起こることは、守護神さんと守護霊さんが与えてくれるありがたい機会なので、
守護神さんと守護霊さんのご加護とお導きを信じて、どんなことにも、立ち向かえる自信がある。
それに、すべての生き物とひとつと感じているので、「孤独」はないのです。

私は自分が、大好きです。毎日、自分を楽しんで生きています。
未来は、自分の思い通りに創れると思っているので、
毎日が楽しくて仕方がないのです。(*^_^*)

それは、「すべては、自分の選択だ」と知っていて、それを実践しているからなのです。(*^_^*)

「自分の無限なる可能性」を、信じているのです。(*^_^*)

幸せになりたいと思っている人。一緒に歩んでゆきたいので、
来てください。これは、私からあなたへの招待状なのです。』

【614】自分の中味を綺麗にすることが、大切。

2006-05-30 21:21:55 | 「白光」の教え
人生で一番大切なことは、「自分の中味(心)を、綺麗にすること」なのです。
そして、そうなっていれば、いつ死んでも悔いはない(笑)のです。

そして、自分の中味を綺麗にするためには、「真理を学んで、行(ぎょう)をしましょう」ということなのです。

「真理」を学んで行をしていると、自分の生活が周りと調和し整ってきて、
「奇跡」と思えることが、ドンドンと(笑)起こってきます。

でも始めの一歩は、自分が「奇跡」を信じられるかどうかなのです。

自分が「奇跡」を信じられると、人生は好転するのです。(*^_^*)

どんなことが起こっても、このことが「素晴らしい体験」か否かは、自分が判断すればよいのです。
その判断しだいで、人生のその後の展開が変わってくるのです。

【613】「祈りの効果」を信じることが、大切。

2006-05-29 21:30:47 | 「白光」の教え
講話会の後半は、田中園子さんのパワフルなお話(笑)でした。
五井氏をお知りになったのは、合気道の友人を通じてだったそうです。

祈ったり、印を組んでいるうちに、「祈りの効果を信じること」ができるようになり、
通訳の仕事や日常生活に「ひらめき」がたくさん起きて、何事も「お任せ」できるようになったそうです。

特に印を組むことで、自分が変わったと思えるようになったそうです。
混んでいる駐車場で、目の前の駐車スペースが空いただけでも、「奇跡」(笑)と思えるようになり、
「奇跡」を見つけ出す才能が、磨かれていったのです。

この「奇跡」を見つけ出す能力が増したことは大切なことでして、
「奇跡」だと思えると、ますます「奇跡」が起こってくるのです。(*^_^*)
そうすると、どのようなことが起こっても、それに「立ち向かえる勇気と自信」が湧いてきます。

そして、「今日も、奇跡に満ちた(笑)素適な一日になる」と思うことによって、
「素適な一日」を、自分で造ってゆけるようになったのです。

このように、「祈りの効果」を信じて、自分の人生を造って行くことが、私に出来たのだから、
「だれにでも出来るはず」という思いがつのって、田中園子さんの活動がはじまりました。

■ 私も、最近になってやっと、「祈りの効果」が分かってきましたので、
今後、「祈り」を伝える活動が、待っているのかも知れません。

【612】「呼吸法による人類即神也の印」の伝授(*^_^*)

2006-05-28 18:04:09 | 「白光」の教え
今日は、大坂支部での「呼吸法による人類即神也の印」の講習に行きました。
3時間位で、無事に全員が伝授されました。
始めに鼻の奥を鳴らす呼吸法(宇宙のサウンド)の練習をしたあと、人類印と組み合わせます。

自分では、間違いなく人類印を組んでいるつもりで、それなりに効果も感じていたのですが、(^^;ゞ
人類印を教えてもらってから2年ぐらい経ちますので、我流(笑)の箇所も沢山あり、それらもチェックしてもらえて良かったです。あとから分かったのですが、「呼吸法の唱名」の時に、この呼吸法をしていました。

テキストから、「印の意義」を書き出してみます。

★宇宙のサウンド(鼻の奥の呼吸)を出してゆくことによって、チャクラが開かれてゆき、
無限なる直観力、無限なる能力、無限なる癒しの力が溢れ出て、すべてと大調和できるようになります。

★ 「呼吸法による人類即神也の印」を組むことによって宇宙神とつながり、
 宇宙神のエネルギーを体内にひきこみ、肉体のエネルギーと意識により、
 新しいエネルギーをつくることができます。
 そして、人類に真理、光、叡智を運び、人類の意識を高め上げ、
 人類は真理に目覚めてゆくのです。

■このような印を教えていただいて、感無量です。(*^_^*)
 実際に、組んでみますと、とてもパワフルなことが体験できました。
私の少食も、もっと進むかもしれません。とにかく、丹田が充実していて、空腹感がないのです。

 印を組むと、エネルギー(生きる力)が、入ってくる感じです。

【611】「私の中には、無限の可能性がある」という授業(*^_^*)

2006-05-27 21:45:16 | 哲学的思考
アセントン聖地での「平和教育カリキュラム」のもうひとつは、
「私の中には、無限の可能性がある」という授業だそうです。
これは、大人がやっても、大きな効果があります。
ホームレスの人たちを招いて、やったこともあるそうです。

その方法は、
各人の写真と名前を書いた紙を、車座になった人たちに回して、その人への誉め言葉を、その紙の余白に書いていきます。
そして、その紙が一周すると、「いろいろな誉め言葉」で埋まった自分へのメッセージカードとなって、
戻ってくるのです。

その紙を身近に飾っておくと、それを見るたびに、とても勇気付けられるそうです。
私たちって、誉められたことがあまりないですものね。

他人を、言葉であれこれと評価し批判した矛先は、必ず「自分を判断するモノサシ(自分は、どうだろうか?)」として返ってきますから、知らないうちに自分を評価し、傷つける結果になると思うのです。


『21世紀に私たちはどう生きたらよいか』が更新されていました。(^^;ゞ

【610】ダライラマ氏が、SOPPに出席されないことは必然(^。^?

2006-05-26 21:26:52 | 思索
2007年の5月に富士聖地で開催される『宗教、宗派を超えて、世界の平和を祈る集い』(SOPP)に、ダララマさんが、来られなくなったそうです。はじめは、2007年の7月にSOPPをする予定で、ダライラマさんのスケジュールを空けてもらっていたのですが、5月の開催だと、予定があって出席できないそうなのです。

残念なことですが、これも「すべては、必然」なのでして、
ダライラマ氏が来られると、警備が大変なのだそうです。(^^;ゞ

それに、ダライラマさんさんが出席されると、「参加者の意識が、彼に集中してしまう」という意識レベルの「集い」になってしまうことも考えられ、私たちの意識の「霊的レベル」は、「まだその時機ではない」という「必然」だったようです。

ダライラマさんの代理として、長年平和運動の活動されているラマラシさんが来られるそうです。

アセントン聖地の催しには、ダライラマ氏が来られたそうです。

【609】子供たちへの「平和教育カリキュラム」

2006-05-25 21:41:25 | 「白光」の教え
キャロライン内間さんが作った、アセントン聖地(スコットランド)での「平和教育カリキュラム」の一つを紹介します。
それは、子供たちに「世界平和の祈り」に興味をもってらうための方法です。

そのページには、同心円がいくつも書かれています。
中心の円には、「私の心に、平和がありますように」と書かれています。
次の円には、「友だちや家族に、平和がありますように」と書かれています。
次の円には、「学校やコミュニティーに、平和がありますように」と書かれています。
次の円には、「街や市に、平和がありますように」と書かれています。
そして次の円には、「この国の人々が、平和でありますように」と書かれていて、
次の円には、「すべての生きとし生けるものに、平和がありますように」と書かれ、
一番外側の円には、「世界の人々が、平和でありますように」と書かれています。

このように、円の中心から順番に納得してもらうと、「世界人類が平和でありますように!」という気持ちが自然に起きます。

こうした、それぞれのレベルに合わせた理解の仕方はとても重要で、
最近それが認められ、公立の学校での「平和教育カリキュラム」の話も進みつつあるそうです。

私たちひとり一人の心が、「平和」になることによってしか、世界は平和にならないということを、
とても上手く表していると思いました。

【608】「愛」は、表現するもの(ハグ!?)(*^_^*)

2006-05-24 21:14:48 | 経験
「流れてくる愛念を感じた」ことによって、「愛は、表現するもの」ということがわかったのです。
今までの自分を振り返ってみると、「愛」について考えてばかりで、「表現」が出来ていなかったと思いました。(^^;ゞ

スピリチュアルというのは、「霊的真理に目覚めて、愛を表現すること」だったのです。(^^;ゞ
霊性開発とは、すべてのものに愛念を注げる自分を、作り上げることだったのです。(*^_^*)

その方法のひとつは、「ハグ」だそうです。
ハグすることによって、お互いの存在を分かち合い、愛を交換するのだそうです。
田中園子さんのイタリアでの集会は、お互いがハブをすることからはじまります。

以前に参加したOSHOの瞑想会でも、「ハグをするカルキュラム」があったことを思いだしました。

お二人の講演や座談会の時に、「最後は全員でハグをして、帰りましょう」という雰囲気になったのですが、
私は、恥かしくて出来ませんでした。(^^;ゞ 
でもこれからは、「誰とでもハグのできるような、心の開いた自分になりたい」と思いました。

誰に対しても、ハグしている気持ちで接するというのは、素晴らしいことだと思うのです。
もちろん、来店するお客さんにも、道を歩く人たちにもです。(*^_^*)

「世界平和の祈り」(統一)をしていますと、自然と「人々が、平和でありますように」という気持ちにはなってきますので、それを、具体的に表していきたいと思いました。

【607】愛が流れてきた(*^_^*)

2006-05-23 21:33:28 | 「白光」の教え
キャロライン内間さん(スコットランド在住)と田中園子さん(イタリア在住)の講話を聴いて、正直に思ったことは、
自分は偉そうに(笑)、分かったようなことを言ったり、書いたりしているけれども、ほんとうは『自分の感情と自分の損得ばかりを気にして、生きている人間』なのだったということです。(^^;ゞ

というのは、おふたりともスピリチュアルなお仕事を、愛を持ってボランティアでされていることを知ったからです。(*^_^*)

キャロライン内間さんはイギリス人で、WPPC(ワールドピースソサイヤティ)のスコットランドオフィスとアラントン聖地(ヨーロッパ各地の人たちが集う光の場)の代表者です。「白光」に出会ったのは23年前で、20年間を八尾市で過ごしたあと、スコットランドに戻って、アラントン聖地を開所して8年になります。当時のその場所には、古くて暗い家が一軒あるだけで、家族で訪れたときには、ビックリし(笑)、恐かったので、一部屋に集まって寝たそうです。

それに、何ヶ月経っても、WPPCから、何かをしなさいという指示が、全くなかったので、
途方にくれてしまった(笑)そうです。
それで、いろいろなアイデアを考えて、アラントンで、「真理」(我即神也・人類即神也)を広める活動をはじめました。

そして気付いたことは、指示や指導がないほうが、個人個人の創造力(想像力)を発揮でき、
それによって各人のモチベーションが高まる。そうすると、活き活きと活動のできる環境が整い、
仲間同士の「とても良い響き合い」が生まれたそうです。

「真理」を広める仕事をしながら、「信じられていることの大切さ」と「全託することの大切」を学び、
何事も、自分で動き出すことが大切だと、気付いたそうです。

私は、彼女たちの活動が、ほんとうに他人を思いやって、各人の霊性を開こうとして行なわれていることを知り、
感動しました。(*^_^*)
彼女たちの中に、「深くて大きな愛」が流れているのを感じました。(*^_^*)


WPPC(ワールドピースソサイヤティ)

【606】唯識とサイボーグ人間(サイボーグ人間はどこまでが、自分か?)

2006-05-22 21:37:09 | 思索
先月に、立花隆さんが案内役をしている『サイボーグの衝撃』(NHKスペシャル)を見ました。
養老さんなどの、唯識の本を読んで、「自己はない。したがって、把われなく生きよう」という概念を、
言葉で理解している段階では、納得できたような気になっています。

ところが、それが具体的な事例や感覚となってくると、ちょっとパニック(笑)になって、
「再考」をよぎなくされます。(^^;ゞ
それが、『サイボーグ人間はどこまでが、自分か?』という問いです。

脳が自分のもので、体全体が機械のとき、「自分」はどこにいるのでしゅうか?
(義手義足が、人間の神経とつながっていて、自由に動かせるサイボーグ技術は、
すでに実用化されています。これを、脳コンピューターインターフェースといいます。)

立花さんは、番組の中で、サイボーグ体験(神経接続)をしました。
立花さんの神経に電極を繋いで、外部の機械の手と接続したのです。
そして、機械の指先を針で刺激すると、立花さんは、言葉では表現できない感覚を、脳で感じたそうです。
それは一種の「快感」で、もう一度体験してみたいと思ったそうです。

放送では、両腕を損傷して、「自分の神経に繋いだ義手」をもつ人が紹介されていました。
胸の中にある神経の情報を読み取って、マイコンの入った機械の腕が動くのです。
外部からの信号の強弱などを神経が判別し、それに対応して義手を制御できるのです。

養老さんは、「脳とは、身体を含めたものである」と語っておられましたが、
その身体のなかに、義手や、義足、義体も含まれ、それらを動かすことによる脳の働きが共有化されて、
脳のネットワークに影響を及ぼす人類の時代が来たのです。

そしてそれも含めて、人類の脳は、進歩してゆくのでしょうか。

【605】「オーラの泉」の研ナオコさん

2006-05-21 20:15:18 | 思索
今回の研ナオコさんの放送の中の霊的なことで、気になったことを書いておきます。

★研ナオコさんは、毎日、『お題目(南無妙法蓮華経)』を唱えているそうです。
彼女は、憑依体質だそうです。それで、憑依されそうになったときには、『お題目』を何回も唱えるそうです。
江原さんによると、『お題目』は、霊的な浄めには、とても効果のあるそうです。

■「世界平和の祈り」は、現代のお題目だそうで、唱えることによって、周りが浄よまるそうです。
私たちの霊的な仕事は、この「世界平和の祈り」をすることで、
お祈りをすることで、自分と世界(人類)を浄化できるそうです。

★研ナオコさんの前世のひとつは、エジプトの巫女だそうで、彼女の「太陽に感謝を捧げたい」という気持ちは、
その当時の「太陽信仰の思い」が残っているからだそうです。

★動物には霊的能力があって、霊をみたり感じたりしているそうで、
動物は、肉体の人間ではなくて、その人のオーラを見て、行動しているそうです。

★ 研ナオコさんが、「子供は、親を選んで生まれてきた」と言っていました。
もし、これが本当なら、私の3人の子供たちも、私たち夫婦を選んで生まれてきたことになります。(^^;ゞ

「ありがたい」と思いますが、
何のために、私たちの子供として生まれたのか、興味津々です。(^^;ゞ
選ばれた理由を知りたいですが、ちょっと恐いです。(^^;ゞ

このブログ日記と多少は関係があるかもの知れませんね。(^^;ゞ

■ 今日、大阪支部で、キャロライン内間さんと、田中園子さんの講話会がありました。
いままで、沢山の講師の方々の体験談やお話を聴きましたが、
感動して、涙がこぼれましたのは、今回が始めてです。(^^;ゞ

その涙と一緒に、目からウロコが落ちました。(^^;ゞ
いままで、このブログ日記に書いてきたのは、「言葉で語られた真理」(理屈)ばかりでした。
「そろそろ、実践の時だよ」ということを示すために、
守護霊さんが私を、ご両人の講話会に招いてくれたように思いました。

どのようなことに感動したのかは、後日書いてみたいと思いますが、
すこし込み入っていますので、上手く書けるかなあ。(^^;ゞ

【604】霊的には、「すでに、意味は与えられている」(*^_^*)

2006-05-20 21:31:44 | 思索
先日の「オーラの泉」の研ナオコさんのときも、
「子供は、親を選んで生まれてきた」とか、「どんなことも、偶然ではなくて必然」という話がありましたが、
これも、「すでに、意味は与えられている」という意味だと思うのです。

そして何故、「すでに、意味は与えられている」のかというと、
『霊的な必然性や必要性』があるからなのです。

人も物も事象も、すべては必要があって起こっている。因果があって起こっている。
それは、どうしようもないことである。(^^;ゞ
けれども、人間には絶対自由性があるから、その因果やカルマや事象などに対して、
意識的に働きかけることが出来るということなのです。

そのための、トランスパーソナル心理学であり、精神世界であり、「白光の教え」だと思うのです。

「意味は与えられている」と思えれば、意味を探そうとします。
そして、そのことが、自らの霊性を高めるのだと思います。

【603】虚無主義ではなくて、「絶対自由主義」(*^_^*)

2006-05-19 21:35:42 | 哲学的思考
『「私」には、根拠がない』と聞かされますと、虚無的な感じがします。(^^;ゞ
でも、そう考えて、「虚無を信じること」もまた、言葉に把われ、自己イメージに把われていることなのです。(*^_^*)

つまり、『「私」には、根拠がない』というのは、『「私」には、意味がない』ということではなくて、
『「私」に把われるな』ということなのです。

虚無主義というのは、自分が「虚無」だと思っていることを信じているから、捉われた世界観なのです。
絶対自由主義(仮称)というのは、何事にも把われていない世界観なのです。

絶対自由主義とは、「なにをしてもよい」ということではなくて、「人間は、なんでも出来る存在」ということです。
そういう「人生の絶対自由性」のなかで何を選ぶのかは、「私」に問われているのです。

トランスパーソナル心理学や池田哲学では、これを「すでに、意味は与えられている」といいます。


そして、「すでに、意味は与えられている」ことを思い出すために、瞑想があるのだと思うのです。(^^;ゞ
自分中心に考えていると、自分の存在理由が分からなくなってくるので、
一時的に「自分の考え」を止めたり脇に置くと、ふっと「閃き」が起こって、
「自分の意味」を思い出せるのです。

【602】私という現実

2006-05-18 21:59:44 | 哲学的思考
養老猛司さんの『無思想の発見』は、書き方の調子が、池田晶子さんに似ていて、小気味がよい論理の展開の本です。
私たちが、「私」といっているものが、いかに曖昧で、根拠がなく、頼り甲斐のないものかということが、
論理的に書かれています。そして、『私が「私」と思う「私」には、根拠がない』というのが、
養老さんが見つけつつある「真理」のようです。(^^;ゞ

唯識的な解釈では、「私」とは、声の響きがあるだけなのです。
私たちは、何を「私」だと思っているのでしょうか?
「普遍的な私」はあるのでしょうか?

それは、「人格」とか、「精神」と呼ばれるものなのかも知れません。

それらが、何処からやってきたのかは、定かではありませんが、
「私」とは、「過去の記憶によって形成されている秩序」だといえるかも知れません。
ですが、それは現象的な解釈であり、過去の経験を持った私が、「なぜ、この私なのか」ということは謎のままであり、
見極めることは出来ません。(^^;ゞ

簡単に言えば、
「私」とは、『自分に対するイメージ』であり、
その自己イメージは、 客観的にも主観的にもつねに変化しています。

そういう常に変化する「自分のイメージ」に把われることなく生きられれば、随分と楽だろうと思うのです。(*^_^*)

養老さんによると、
『自分とは、自分で造ってゆくもの』であり、それが「自分」が自分であることだそうです。

自分とは、造るものであって、「探す」ものではない。
それがたいした作品になるかならないのかは、わからないけれども、
そうするしかない。それ以外に、生きてゆく方法はないのです。(p54)

これが、養老さんの見い出した「真理」であり、人生観のようです。

【601】自分が変わるから、面白い(*^_^*)

2006-05-17 21:46:21 | 思索
養老猛司さんの『無思想の発見』(ちくま新書)を読みました。
分かる人には、分かるのでしょうけれども、難しかったです。(^^;ゞ
それで、全部を読めませんでした。(^^;ゞ

でも、「真理」を求めて、書き進めれられていることは、分かりました。

著者曰く、『真理は自分の「手に入ったり」、言葉で「これだ」と示すことができるようなものではない。
それはひたすら「追い求めるもの」である。暗黙のうちに真理を追う。ひょっとすると、
それがもっとも、真理に近づく道であるかもしれない。その態度こそが、真の「無思想の思想」なのかもしれない』(p181)

結論は、「不変の自分」なんてものは、「ない」ということである。
固定した自分なんか「ない」のである。(*^_^*)

例えば、「自分=脳」だとする。
その「自分の脳」は常に、変化する。
昨日の「脳」と、今日の「脳」は、違う。

『「未知との遭遇」とは、本質的には新しい自分との遭遇であって、未知の環境との遭遇ではない。
そこを誤解するから、若者はえてして自分を変えず、周囲を変えようとする。
「東大解体」なんて叫ぶのである。』(p232)