『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【3204】いかなる人といえども、宇宙神の光の一筋である(瞬間から、瞬間に生きる)

2012-03-21 21:53:22 | 思索

「いかなる人といえども、宇宙神の光の一筋である」という言葉が、

白光誌に載っていました。

 

言葉で、「謙った人になりたい」などと考えると、言葉に迷った世界に入り込んでしまうので、

言葉で考えない「自然体」が良いようです。

 

自分の内面(意識のなか)に入ると、そこには言葉がありません。

 

言葉を超えた生命を感じる世界があるだけです。

 

「物足りない」とか「ワクワクしない」

「つまない」「あきる」なども、『感じ』ではなくて『言葉』なのです。

 

イメージ(幻想)なのです。

 

★物事は、感じて手放せば良いのです。

 

イメージに、言葉のレッテルを貼って、考える必要はないのです。

 

「思い」はすべて、「消えてゆく姿」です。

 

生命の実感だけが、現実なのです。

 

言葉ではない『生命の実相』を生きれば良いだけのです。

 

瞬間から、瞬間に生きれば良いのです。


【3203】自然な態度として、謙っている人になりたい(^^;ゞ

2012-03-09 04:05:46 | 思索

★「弟」の言動を見ていて、自然にいつでも、謙った態度であるところが素晴らしいと思うのです。

 

先日も、母のふた七日の法事に、

毎月の月命日にお参りに来られている息子さんではなく、

お父さんのご住職が来られたのですが、

 

そのことを、とても謙った言葉で、愛情深く話してくれたのです。

 

その言葉一つ一つに、相手を愛深い人であると信じきっている思いが溢れていて、

 

そういう弟の姿に「私は、神を見たる」と思えたのです。(^^;ゞ

 

 

★特に相手が、お寺さんであるから、

 「相手が愛深い人である」という前提で見るのではなく

 

 弟は「相手を、計算高くはなく愛の人である」と信じて疑わないところがあるのです。

 

それは妙好人の態度です。 徳のある人に思えるのです。(^^;ゞ

 

 

★いつでも下座に付けているということは、

 謙った態度で暮らすことが出来ているということだと思うのです。

 

自分はまだまだ、そういう態度で暮らせていないと思いました。(^^;ゞ

 

 

★弟の前世の一つは僧侶であったと思えるのです。

 そういう徳を身に着けていることを感じるのです。(^^;ゞ


【3202】『すべては必ず良くなる 絶対大丈夫 大成就』を一日に100回唱える

2012-03-02 04:10:34 | 思索

2012年の神示は、

『すべては必ず良くなる

絶対大丈夫

大成就』という言霊を、一日に100回念仏の如く唱えて、天に刻印するのだそうです。

 

 

★やってみて、自分なりに色々と感じたり、納得してみてください。

 

自分の場合は、

自分の生き方=今ある自分に、

確信が持てて、

 

これでよいのだ、

 

正しい道を歩めているのだと、

深く納得できます。

 

 

【つる子の絵手紙】

http://turukosan.blogspot.com/


【3201】下座につける人=愛深い人

2012-03-02 03:20:40 | 思索

★身内のことを褒めるのは変だとは思うのですが、(^^;ゞ

 

★母と同居をしていた弟が喪主で、

お寺や病院や葬儀社の方々との、

ほとんどすべての対応をしてくれたました。

 

その人当たりの柔らかさというか、

常に相手を上にみて、対応している態度が素晴らしいと思いました。

 

しかもそれが、いつでも自然に出来ているのです。

 

つねに自分を下座につけていられるのです。

 

★弟は白光の維持会員ではないのですが、

 

あれこれと理屈をこねる私よりははるかに、愛深い人であり、

「人類即神也」を実践できていると思いました。

 

どのようにして、そのような人格を獲得したのか、

今度会ったときに、尋ねてみようと思います。(^^;ゞ

 

★自然に、自分中心思考でないところが素晴らしいと思うのです。

 

私などは、無意識に、潜在的に、気がついてみると、

自分中心の思考になっています。(^^;ゞ

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★長いあいだ広告関係の職場で、

営業やプレゼンにかかわる仕事をしていたからかもしれないのですが、

 

どんな他人に対しても、自然に誠実に謙って物が言えるのです。

 

身近に神人(?)が居ました。

 

弟が、「我は神を見たる」の「神=愛深い人」でした。

 

「見習いたい」と思いました。