池田晶子さんのエッセーを読みますと、若い頃から、かなりの酒豪だったそうです。
飲べま飲むほど、哲学的な思考が研ぎ澄まされてきて、その刃で、事象や心理をバッサバッサと切るのが、
何事にも変えられぬ快感だったそうです。
その時期の哲学的な考察は、その後の著述の基であり、財産なのだそうですから、
お酒なくして、「池田哲学」はなかったのかも知れません。
それに、「生」を諦観(めんどくさい(^。^?)しておられましたから、
たぶん、人間ドックも受けていないと思うのです。
ですから、「肝臓がん」で亡くなられたというのは、突飛なことではなくて、
因縁霊的には、池田さんの守護霊さまのご計画なのだと思うのです。
池田さんの死亡記事を読みますと、
『昨夏に腎臓がんがみつかり、手術後は自宅で療養していたが、今年1月末に入院。闘病生活を続けながら宗教を論じた対談本『君自身に還れ』の出版準備を進めたほか、8日発売の「週刊新潮」に連載エッセーを寄せるなど死の直前まで執筆を続けた。』とありました。
池田さんには、手紙で『神と人間』や『黎明』のコピー、「白光の教え」などを紹介していましたので、
ひょっとすると、『君自身に還れ』を書かれるなかで、「昌美氏との対談」がありえたのではないかと思い、
より一層残念に思いました。(^^;ゞ
このブログ内を、彼女の名前で検索ますと、池田さんの文の引用や、私のコメントが色々と出てきます。
私の中には、『哲学と「白光の教え」とどちらがより真理に近くて、包括的か?』という問いがあるのです。(^^;ゞ
「白光の教え」は、いわゆる宗教ではなく「自分教」なので、『宗教VS哲学』というテーマの範疇にはないのかも知れませんが、哲学と「白光の教え」は同じことを言っているという気がするのです。
そのことが、「対談の結果」として出ることを、私は望んでいたのかも知れません。(^^;ゞ
飲べま飲むほど、哲学的な思考が研ぎ澄まされてきて、その刃で、事象や心理をバッサバッサと切るのが、
何事にも変えられぬ快感だったそうです。
その時期の哲学的な考察は、その後の著述の基であり、財産なのだそうですから、
お酒なくして、「池田哲学」はなかったのかも知れません。
それに、「生」を諦観(めんどくさい(^。^?)しておられましたから、
たぶん、人間ドックも受けていないと思うのです。
ですから、「肝臓がん」で亡くなられたというのは、突飛なことではなくて、
因縁霊的には、池田さんの守護霊さまのご計画なのだと思うのです。
池田さんの死亡記事を読みますと、
『昨夏に腎臓がんがみつかり、手術後は自宅で療養していたが、今年1月末に入院。闘病生活を続けながら宗教を論じた対談本『君自身に還れ』の出版準備を進めたほか、8日発売の「週刊新潮」に連載エッセーを寄せるなど死の直前まで執筆を続けた。』とありました。
池田さんには、手紙で『神と人間』や『黎明』のコピー、「白光の教え」などを紹介していましたので、
ひょっとすると、『君自身に還れ』を書かれるなかで、「昌美氏との対談」がありえたのではないかと思い、
より一層残念に思いました。(^^;ゞ
このブログ内を、彼女の名前で検索ますと、池田さんの文の引用や、私のコメントが色々と出てきます。
私の中には、『哲学と「白光の教え」とどちらがより真理に近くて、包括的か?』という問いがあるのです。(^^;ゞ
「白光の教え」は、いわゆる宗教ではなく「自分教」なので、『宗教VS哲学』というテーマの範疇にはないのかも知れませんが、哲学と「白光の教え」は同じことを言っているという気がするのです。
そのことが、「対談の結果」として出ることを、私は望んでいたのかも知れません。(^^;ゞ