『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【2053】愚痴(否定的想念)を聞かない(*^_^*)

2009-04-30 05:24:50 | 思索
「すべての言葉は、戯言」(?)なので、
家内の愚痴を聞かないことに決めました。(^^;ゞ

というのも、愚痴とは、まさしく「想念」だからです。

しかも、否定的想念!

いままでは、愚痴を聞いてあげることが愛だ(笑)と思っていたのですが、
そうではなかったようです。(^^;ゞ


★私が彼女の愚痴(否定的想念)を聞くことによって、

彼女は、自分の内面を見ることから目をそらして、

自分の語る否定的想念が「真実の世界」だと、

ますます思ってしまっていたのです。(^^;ゞ


★38年間、彼女と付き合ってきて、
いろいろ試してみたのですが、(^^;ゞ

何をしても、彼女の「否定的発想の想念」を止めることができないので、
とりあえず、愚痴を聞くのをやめようと思うのです。

【2052】『世界とは何か? 人類とは何か?』は「空想想念の戯言」

2009-04-29 05:34:31 | 思索
【2051】で、
「人類は、なるようになっていく」と書きました。
「世界は、なるようになっていく」と書くことも出来ると思います。

「人類」と「世界」の違いは何なのでしょうか?

「人類」とは、
「魂を持った生命体一つ一つ」の総称であり、
「物体としての人間たち」のことです。

「世界」とは、その「生命体としての人類」が形成している社会構造のことです。
・・・・・・・・、などなど、
色々と論じることが出来ます。(^^;ゞ

けれども、それらも結局は、
私の描いた「想像(想念)の世界の話」であり、

「世界の実態」ではないのです。

私の心に思い描いている空想想念の戯言(笑)なのです。

★つまり、
「人類(世界)は、なるようになっていく」という話だけでなくて、(^^;ゞ

「人類(世界)が滅びる」という言葉(話)も、
私の想念の中の話なのです。(*^_^*)

【2051】「人類のカルマ」と「人類は、なるようになっていく」について

2009-04-29 05:12:58 | 思索
【2050】で、
『「自分の死」や「身近な人々の死」をカルマとして受容する覚悟を持っていれば、
「それで良い、すべてOK。大丈夫』と書きました。

これは、分かりにくい文章だと思うのです。(^^;ゞ

何が大丈夫なのでしょうか(^。^?


★「カルマ通りのことが起きる」とは、

「起きることは起きる」・「なるようになる」ということですから、(^^;ゞ

「人類は、なるようになっていく」ということであり、
結局上の文章は、何も語っていない(笑)のです。

★私に出来ることは、「世界平和の祈り」をしたり、
 印を組んで、人類の「悪しきカルマ」を少しでも軽減することのようです。

【2050】「豚インフルエンザの世界的拡大」について

2009-04-29 04:53:33 | 思索
豚インフルエンザが、世界的に拡大しています。

地球のアセンション(次元上昇)の物質的な表れ(浄化)だという気がします。

いよいよ、その時が来たのかも知れません。(^^;ゞ


★私は神人のはず(笑)であり、
アセンション(次元上昇)への準備が出来ているつもり(笑)なので、(^^;ゞ
一応、大丈夫です。(^^;ゞ

「白光の教え」では、『「世界平和の祈り」をして、印を組んでいれば絶対に大丈夫』ということなのですが、

この文中の「大丈夫」とは、3次元的(物質的)に「災難がない」とか、
「死なない」ということではなくて、(^^;ゞ

「なるようになる」とか、
『カルマ通りの「消えてゆく姿」が起きるだけである』ということなので、

豚インフルエンザが、3次元的にどのような広がりを見せ、
どの程度の人数の死者が出るのかは、

人類のカルマ、個人個人のカルマが、
どの程度、解消されているのかによるのです。(^^;ゞ

★基本的には、

その時々の私が、

「自分の死」や「身近な人々の死」をカルマとして受容する覚悟を持っていれば、

「それで良い、すべてOKだ。大丈夫だ」という「覚悟の話」なのです。

【2049】「瞑想(祈り)」に優劣はない(^^;ゞ

2009-04-28 04:40:20 | 思索
あるのは「今の思い(いまの決断と覚悟)」だけなのです。

「世界平和の祈り」は、瞑想(今に在ること)の方法の一つなのです。

瞑想(祈り)に優劣はないのです。(^^;ゞ

自分に適しているか否かなのです。

今世の縁で、それぞれの人が、それぞれの「祈り」をしているのです。

「瞑想(祈り)」に優劣はないのです。

『私たちのやっている「世界平和の祈り」が一番良い方法』と思うと、
間違ってしまうと思うのです。(^^;ゞ

来月のSOPPを前にして、そんなことを思いました。(^^;ゞ


【2048】「消えてゆく姿」として味わう・あるのは「今の決断と覚悟」

2009-04-28 04:26:00 | 思索
「ああだ、こうだと考えること(執着)」を放棄することは、
「すべての事象」を受け入れることであり、

「世の中、何が起きてもOK!」ということなのです。(*^_^*)

誤解を恐れないで言えば、(^^;ゞ
「事象(「消えてゆく姿」)は、どうでもいい」(笑)ということなのです。


けれども、「どうでもいい」ではあまりに投げやりな心境(笑)なので、(^^;ゞ

もう少し事象をいとおしんで、

たとえ、不都合な「消えてゆく姿」でも、愛して味わってあげることが大切だと思うのです。

「消えてゆく姿(経験)」として、葬ってあげれば良いのです。(^^;ゞ


★「経験」に執われないという視点に立てば、自分が「統一」の状態であれば、
事象(「消えてゆく姿」)を客観的に見ることが出来ます。


★要は、意識が「今」にあれば、それで良いのですが、

脳(想念)は、過去の思いを組み立てて、未来を思い煩う性格があり、
あれやこれやと考えてしまうのです。(^^;ゞ

私にできるのは、そしてあるのは、
「今の決断と覚悟(選択)」だけなのです。(*^_^*)

【2047】誰でもが、「自分の人生」を歩んでいる(経験を、積極的に味わう)

2009-04-27 03:02:14 | 思索
結局は『誰でもが、「自分の人生」を歩んでいる』と思うのです。

それで、
病気や事故や身体的な障害やトラブルが起きても、(^^;ゞ

それもやはり「自分の人生」なのです。


★「すべてを受け入れる、神に任せる」とは、
「与えられた経験を、積極的に味わって生きる」という覚悟のことです。

「すべては、赦されている」とは、この
『与えられた経験を、積極的に味わおうとする覚悟』のことです。


★「すべては、赦されている」とは、
 「過去の事象(経験)に執われるな。今に生きろ!」ということです。

 「過去」に何があろうとも、「今」を一生懸命に生きる以外にないのです。

その「今を、一生懸命に生きる方法」が、「世界平和の祈り」(「統一」)なのです。

「世界平和の祈り」をすることは、「今に在ること」なのです。

【2046】私は、自分の人生を歩んでいる

2009-04-26 05:37:30 | 思索
私は「自分の人生」を歩んでいると思うのです。

それなのに、売れる売れないに一喜一憂する自分が情けないです。(^^;ゞ

私の人生に起こるすべてのことは、
神様がしていることなのですから、

一喜一憂する必要はないのです。(^^;ゞ

ぜ~んぶ、神様に任せれば良いのです。(*^_^*)

★「私は、自分の人生を歩んでいる」と書きましたが、(^^;ゞ

 『誰でもが、「自分の人生」を歩んでいる』のです。(*^_^*)

【2045】「統一」の気持ち良さ(心の平安)は、最高(*^_^*)

2009-04-26 05:30:22 | 思索
この頃、「統一」をする時間が増えました。(^^;ゞ

というのは、先日参加したF市の集会で、
座ったとたんに、とても深い「統一」に入り、
それがとても気持ちが良かったのです。(^^;ゞ

「統一の波動になること」を、私の魂が、とても強く求めるのです。(*^_^*)

印を組むのも、「無私」になるための有効な方法ですが、

ゆっくりと、「無私」の自分と向き合うためには、「統一」は最適の方法です。

それで、最近は、時間があれば、「統一」をして、
その波動のなかで、「安らぐ」ようにしています。(*^_^*)


【2044】「すべては、赦されている」の再考

2009-04-25 21:01:23 | 思索
ホ・ノポノポノを聴いていて感じた、
「すべては、赦されている」とメッセージを、
私は誤解して受け取っていると思うのです。(^^;ゞ


★「あなたがどうあろうとも、すべては赦されているのだよ!
何をしてもいいのだよ。すべて、OKだよ」というメッセージを、
安易に解釈してしまっていると思うのです。

「すべては、赦されている」とは、
「業」を肯定して「何をしてもいいよ」という意味ではないと思うのです。


★同様に、『汝、自らを裁くな!』というのも、

「業」を肯定する意味ではなくて、「言葉に執われるな!」という意味なのです。

「自分のいのちを輝かせなさい!」という意味なのです。(*^_^*)

「統一」をしていて、そう思いました。(^^;ゞ

【2043】「すべては一人相撲」と「我即神也を顕顕する」

2009-04-24 21:25:45 | 思索
【2042】を書いていましたら、
「すべては一人相撲」という言葉が浮かびました。(^^;ゞ

それは、「自分は、自分のドラマの唯一の主人公である」や、

「考えてみると、実は自分の体験しかないのである」や、

「体験しているあなた一人しか、実はいないのである」と同じ意味です。(^^;ゞ

けれどもそれは、「すべては一人相撲」なのだから、
「どうであっても良い!」ということではないのです。(^^;ゞ


私たちは、「すべては一人相撲」であるという視点に立ちながらも、
「我、言葉、想念、行為に、我即神也を顕顕する」を薦められている存在なのです。

なぜなら、人間は「言葉」を生きているからです。(*^_^*)

「言葉」なくして、「人生の意味」はないのです。

それでいて、「言葉」に執われると、「いのち」を輝かせることができません。(*^_^*)

私たちは、そういう言葉のハザマ(笑)に生息する存在なのです。

「言葉を含めた時空(多次元)」に存在する『言葉の旅人』なのです。(*^_^*)


★以前に、このプログで、「思い(言葉)」が第5の次元の要素だと書いた記憶があります。

【2042】すべては、解決している(*^_^*)

2009-04-23 03:19:14 | 思索
『あなたはなぜ生まれてきたのか』には、
『マハーシヴァの葉』という予言書(誕生チャート・運命図)のことが書かれています。

その内容は、私が以前に占ってもらった西洋占星術のチャートと似ています。(^^;ゞ

★それぞれの人たちは、「チャートに示された人生を送ること」によって、
自分の天命が完とうするのです。

ですから、他人の人生と比較する必要はまったくないのです。

いや、比較してはいけない(笑)のです。(^^;ゞ

比較するから、迷うのです。(^^;ゞ

自分は、「自分の人生」を歩めばよいのです。

そういう覚悟で人生に臨めば、「すべてが解決していること」に気づけるのです。(^^;ゞ

【2041】あなたには、別のところに本来の存在がある

2009-04-22 05:35:51 | 思索
『あなたには、別のところに本来の存在がある』というのも、
興味深い表現だと思うのです。(^^;ゞ

それでも、
『そのつど作られたドラマの主役を演じている』には、
ちょっとした飛躍がある気がします。(^^;ゞ

けれども、これが、
『しかし、あなたにはドラマの役とは違う本来の存在としての生活がある。』
と続きますと、不思議に納得させられます。(^^;ゞ

宇宙(時空)のなかに、「なぜ、私が存在するのか?」と問うならば、
「思い」に偏りがあるからだという気がするのですが、

それを、以下に書かれたような「ドラマ(病気や、過酷な状況)」と呼ぶのならば、
確かに私たちは、「カルマによって生み出されたドラマ」を生きていると言えます。

『病気になって苦痛にゆがんだ顔を作ってみても、 実際には苦しくない。

過酷な状況にあって苦悩したりするが、

実際には、悩む必要のない生活が別にあって悩むことはない。』

★「実際には、苦しくない」・「実際には、悩む必要がない」という表現が、
興味深いですね。(^^;ゞ

【2040】人生とは、あなたが体験をするためにだけに作られているドラマ

2009-04-21 05:16:47 | 思索
★『あなたの人生とは、あなたが体験をするためにだけに作られているドラマなのである』という文章にも、新鮮な味わい(笑)があります。

それなのに、(^^;ゞ
自分が、唯一の主人公であることを、ついつい忘れてしまって、

自分を虐げる他人の想念に、波長を合わせてしまう。(^^;ゞ

これは、自分が「ドラマの唯一の主人公」であることを、
忘れていることなのです。(^^;ゞ


そのとき、
『考えてみると、実は自分の体験しかないのである』と、

『体験しているあなた一人しか、実はいないのである』という真理を
忘れているのです。

他者の想念波動に同調してしまわないように、

充分な注意を払う必要があるのです。(*^_^*)

【2039】『あなたはなぜ、生まれてきたのか』

2009-04-20 02:01:27 | 思索
『あなたはなぜ、生まれてきたのか』(ビジネス社 2003年刊)という本を読みました。
その中に、このプログでいままで書いてきたことを判りやすく書いてある部分が
ありましたので、ご紹介します。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

『富を独占している人がいる一方で、貧しくて苦しんでいる人がいるのは、
やはりおかしいのではないか、それに甘んじるべきではないという人がいると思う。

しかし、私達が言っているのはまったく異なった次元の話である。

同時代に生きていても、国によって戦争の最中のところがあり、
その国の国民であれば、貧富の差なく艱難辛苦を味あわなければならない。

戦争とあまり関わりのない国に生まれたとしても、
また富んだ国、富んだ家庭に生まれてきたとしても、

途中で親が不慮の死を遂げて困苦にさいなまれたり、
大人になるまでは恵まれていても、独立してから事業に失敗したり、
家庭が壊れたり健康を害したりする。

外面的に恵まれたように見えても、本人は重大な悩みを抱えている場合がほとんどである。

なぜそのような境遇にあるのか。
よく考えていただきたい。

いろいろとニュースを聞くと、社会でいろいろなことが起きているように感じられるが、
あなたは他人の体験を自分のものにすることは出来ないし、
他人もまた、あなたの体験を味わうことは出来ない。

考えてみると、実は自分の体験しかないのである。

体験しているあなた一人しか、実はいないのである。

つまり、これはあなたが体験をするためにだけに作られているドラマなのである。

あなたには、別のところに本来の存在があり、
そのつど作られたドラマの主役を演じているだけなのである。

例えていえば、
映画のスクリーン上に投影されている映像を見て、
ないものをあるものと勘違いしているだけで、
いろいろとあるように見えるものは、実際に存在するものではないのである。

あなたの出演するドラマは、毎回ストーリーが違い、
あなたは毎回ドラマに出演しては、シナリオ通りにその役柄を演じる。

しかし、あなたにはドラマの役とは違う本来の存在としての生活がある。

ドラマの中で撃たれようと、実際の自分は傷つくことがないし、
命を落とすこともない。

病気になって苦痛にゆがんだ顔を作ってみても、
実際には苦しくない。

過酷な状況にあって苦悩したりするが、
実際には、悩む必要のない生活が別にあって悩むことはない。

しかし、ドラマの役とは別の存在として生活をしているといっても、
あなたは演じながら経験をしていく。

あなたがその都度行った行為は、
あなたの経験として積み重ねられていく。

役者は出演した舞台の数だけ経験を重ね、
次の演技に、その経験が影響を及ぼすのと同様に、
あなたは、過去生を含む過去に行ってきたことの影響を、
今の人生において受ける。

因果律である。

ダルマを行った者は、その報酬を受け取る。

逆に、カルマを作った者は、そのカルマの影響を受け、
いずれ自分で撒いた種の稲を刈り取らなければならないことになる。

したがって、他者を犠牲にして良い立場にいる者は、
大きなカルマを作ることになり、今生の間か、あるいは来世において、
そのカルマの影響を受け、いろいろな障害を与えられる。』(p199)
。。。。。。。。。。。。。。

★『考えてみると、実は自分の体験しかないのである。』以後の文章のなかには、
とても示唆に富んだ表現があって、興味深いです。(^^;ゞ

例えば、すぐあとの
『体験しているあなた一人しか、実はいないのである』は、

このプログでも、よく取り上げるテーマですが、つい忘れて(笑)、
「他人が、自分と同じように実在している」と思ってしまう。(^^;ゞ