『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【118】心を自由に伸びやかにしての「統一」

2005-02-28 21:49:37 | 「統一」
昨日は休日でしたので、「統一」(瞑想)を、時間を気にせずに出来ました。(^^;ゞ

『五井昌久先生による統一指導』というCDの初めから終わりまでを使って「統一」をしました。1時間20分位でした。座禅と違って形が決まっていません。心を自由に伸びやかにして、ただ座っていれば良いのですから、楽なものなのです。(^^;ゞ

一応、正座をしましたが、足のしびれたら、姿勢を変えたりしました。
「足のしびれ」は心地良いものではありませんが、「耐えなければなられない」と考えると窮屈なので、「しびれ」に任せて対応することにしました。
そう考えれば、2時間の「統一」も出来るかも知れません。(^^;ゞ

ネット上で知り合った「統一」の経験のあるサニヤシンによりますと、30日間連続で寝食を忘れて「統一」をしますと、悟れるそうです。(^^;ゞ
『天と地をつなぐ者』(自伝)の中にも、そのような様子が載っています。

Rahiriさんの掲示版の方は、20時間の「統一行」をされたことがおありだそうです。ありがとうおじさんは、常に「統一行」をされているそうです。

20時間とか30日間の「統一行」(瞑想)を想像しますと、圧迫を感じますが、人にはそれぞれの段階があり、すべての人は「悟りへの道」の途中だと思っていますので、必要な時期に、その人のレベルにあった方法が与えられます。


そのように考えて、無理なく気長に、「統一行」をしようと思っています。


「ありがとうおじさんのお話」

「ありがとうおじさん自分を語る」



★「ありがとうおじさん」に関連して、
風さんの
「世界人類が平和でありますように」というHPもあります。




続「ワードの辞書機能」

2005-02-28 05:58:37 | Weblog
辞書に入れたいフレーズ(どんなに長くても良い)をコピーしますと、
自動的に「単語/用例登録」にそのフレーズが入っていますので、
あとは頭文字の一字を登録すれば、辞書機能が使えます。
どなたが考えたのか知りませんが、世の中には、頭の良い人がいるものですね。(^^;ゞ
ただただ、有り難いばかりです。

【117】「世界平和の祈り集会」の様子(主役は、「お祈り」をしている各個人)

2005-02-27 20:47:44 | 白光真宏会
「白光真宏会」の「世界平和の祈り集会」に行く以前には、ヴィパサナ瞑想会に行っていましたので、集会ではまず、先生が講話をしてくれて、そのあと瞑想でもするのかと思っていたのですが、初めて参加したときには、ビックリしました。(^^;ゞ

「1時間半ぐらい、ただお祈りをする」だけ(笑)なのです。正座をしていたので、足がしびれて大変でしたが、終わってみますと、とても気持ちが良くてスッキリしたのです。

瞑想理論的には、「唱名」をすることによって大脳新皮質(エゴを司る)の活動が抑えられるからなのでしょうが、ヴィパサナ瞑想(歩行瞑想)と同じような効果があったのです。
「ヴィパサナ瞑想」
http://www.satisati.jp/1page.htm

それに、「お祈りの会」が終わってからの茶話会が、最高に楽しいのです、普通のおばちゃんたち(ごめんなさい(^^;ゞ)の口から、「核心をついた凄い言葉」が、日常会話のように出てくるのです。(^^;ゞ

それ以来、引きつけられぱなしの私なのです。「白光」さんの会員さんほど不思議な存在を、私は知りません。(^^;ゞ

早く私も、不思議な存在になりたいなあ。(*^_^*)

【117】「神が存在する」と思う人には、神は存在する。

2005-02-26 22:56:59 | 唯識
『【114】「絶対的な価値」はあるのか?』への反論を読ませてもらって、さらに深く考えることが出来ました。書き込みをされた方、有り難う御座いました。(*^_^*)

>そもそも「絶対的」とは「万物(人に限らず)が認めること」をいい、「価値」とは「何か>との比較によって生まれるもの」だと思います

★「何かとの比較によって生まれるもの」というのは、相対的価値のことだと思うのです。
 私がテーマにしたいのは、「価値自体」についてなのです。「価値自体は、常にある」というお話なのです。 「絶対的な価値」というのは、そういう意味です。

もし仮に、「価値」とは「何かとの比較によって生まれるもの」だとしたら、「相対的価値」という語句が成り立たなくなります。相対的という語意が二重になってしまいます。ですから、「価値」とは、価値自体のことなのです。

★ それでさらに先を考えたのですが、「絶対的な価値」というのは、人間の手垢(解釈)のついていない「価値」のことだと思ったのです。たとえば、「存在それ自体の価値」だとか。

3年ほど前にインターネットに接続した当初、私は「アウト・オン・ア・リム」の大ファンだったので、山川紘矢さんにメールを書いてお返事をもらったことがあります。私の『神は、人間の脳の中にしか存在しないのではないですか?』という唯物的な失礼な質問(笑)に対して、山川さんはご丁寧に、『私は、「神は存在している」と思っています。神が存在していると思う人には神は存在していて、神は存在しないと思う人には、神は存在していない」と答えてくださいました。(^^;ゞ
その当時は、まったくの「?」だったのですが、今なら、意味が分かります。(^^;ゞ

こういう捕らえ方をすれば、「絶対的な価値」があると思っている人は、「絶対的な価値」を生きることができ、「絶対的な価値」がないと思っている人は、「絶対的な価値」を生きられないのではないでしょうか。

「神がいると思っている人には神がいて、神がいないと思っている人には、神がいない」という論理は、「出会うものすべてが、自分である」とか、「世界とは、自分の見ている世界」という精神世界的解釈ですね。たぶん現象学というのも、このような世界観だと思うのです(^^;ゞ

ひっよっとすると、【絶対的な価値=存在=神】なのかもしれません。(^^;ゞ

「ワードの辞書機能」(分かっている人には、あたりまえ?)

2005-02-25 23:10:16 | Weblog
ほとんどの方は、ご存知だと思うのですが、「ワードの辞書機能」について書きます。
一年ほど前、ある名前を入力する時、今後頻繁に使いそうだったので、ワードに「辞書機能」があることを思い出して、使ってみました。

それで、思いついたのが、「フレーズ辞書機能」です。
「じ」と入力するだけで、自分の「住所」を表示したり、「自分」「状態」「事実」…となんでも登録しておけるのです。
「め」と打って、メールアドレスや、「ほ」と打って「HPアドレス」に変換するのは、お茶の子再々です。「よ」と打って、「宜しく、お願いします。(^^)」などにも使えます。
「せ」と打って、「世界人類が平和でありますように!」とか。(^^;ゞ

これで、随分と文章を打つのが、省力化できました。(*^_^*)
私はこのことに、2年間も気付かなかったのです。お恥ずかしいです。
息子や娘が、言ってくれないのですもの~。(^^;ゞ

【116】『世界中のすべての人々が、幸せでありますように』

2005-02-25 22:05:56 | 「統一」
最近、このブログ日記をご覧になった方に『世界平和の祈り』を紹介します。

『世界人類が平和でありますように
日本(にっぽん)が平和でありますように
私達(わたくしたち)の天命が完(まっとう)されますように
守護霊(しゅごれい)様、守護神(しゅごじん)様ありがとうございます』

★白光真宏会のHPには、簡単なQ&Aもありますので、ご覧ください。
http://www.byakko.or.jp/4_method/prayer.html

この祈り言葉を五井昌久氏の「統一テープ(CD)」(なくてもよい)を聞きながら、何回も内語で繰り返します。1回が、9~15分ぐらいです。

私は、1年ぐらい続けていますが、私の感覚で言いますと、
『世界中のすべての人々が、幸せでありますように』と唱えた時のほうが、
頭の中に「良い波動」が響くように思います。なぜか、この言葉の方が私の心にはしっくりするのですが、いつもは、上の文言(もんごん)を唱えています。

もし、宜しかったら、実際に「世界平和の祈り」を内語で数回繰り返して、感じを確かめてみてください。
私は、「世界平和の祈り」を数回唱えますと、頭頂部がすうっと軽くなって、額が涼しくなってきます。

【115】このごろ「不食」です。(「不食」の霊的意味)

2005-02-25 05:56:42 | Weblog
『人は食べなくても生きられる』という書物に影響を受けたわけではないのですが、最近、「食欲」をあまり感じないのです。「あっても良い」「なくても良い」という心境といえば、カッコ良過ぎますますが、「一食主義」なら出来るかも知れません。(^^;ゞ

「不食」の山田さんが、「霊的向上」と「不食」の関係を述べておられましたが、思い当たることがあるのです。(^^;ゞ
と言いますのは、日課の「世界平和の祈り」なのです。今では日常でも、私の脳の中に「世界平和の祈り」の祈り言葉が、「波動」として響いているのですが、この波動が、色々な「執着」を取ってくれているように思うのです。

考えてみるとこれは当然のことでして、いつでも「世界平和の祈り」が心の中に鳴り響いているのですから、「執着」や「煩悩」が起きる暇がないのです。

「想い」が起こったら、「世界人類が平和でありますように!」と唱えるのですから、「執着」や「煩悩」が実を結ばないのです。(^^;ゞ

それで分かったのは、「世界平和の祈り」をしていると、「執着」が切れる。そして、「執着」が切れることによって、「カルマ」が消える。従って、「食欲という執着」が消えて、「不食」になるということなのではないでしょうか。私はそのように理解しました。(*^_^*)

ヴィパサナの瞑想理論から言っても、これはかなり正解に近いと思うのですが、どうでしょうか(^^;ゞ

【114】「絶対的な価値」はあるのか?

2005-02-24 22:27:50 | 哲学的思考
(以下も、アンナさんのブログ日記へのコメントです。)
http://spaces.msn.com/members/belle/PersonalSpace.aspx?_c=&_c02_owner=1

私も「絶対的な価値」はあると思いますが、それは「モノサシ」ではないと思うのです。
例えば、殺人をした人間は、「宇宙の絶対的な価値」から外れているから「ダメだ」とか、
そういうことではないと思うのです。それぞれの人間の本質は「神(存在)」なのですから、否定しようがないと思うのです。

肉体人間のそれぞれの「意識」が、人生という舞台を歩いていると考えた方が、分かり易いと思うのです。私たちは「共通の価値を生きている」ようでいて、「それぞれの価値を生きている」のだと思うのです。

それで、その自分の「価値」の中に、「宇宙の絶対的な価値」を意識して実践できる人もいるし、「執着」が強くて、実践できない人もいるというわけです。
簡単に言いますと、深い意味で「人それぞれ」なのだと思うのです。

【113】「カルマ」とは、「存在の立場」からの発言

2005-02-24 22:19:30 | 思索
アンナさんのブログ日記にコメントを書きました。『知足日記』と共通のテーマですので、アップします。『カルマ』についてです。

★私も明確に理解しているわけではないのですが、「カルマ」というのは、「存在」の側から人生をみることだと思うのです。

私たちがこういう討論(?)で「ああだ、こうだ」と言っているのは、「私たち」という「エゴ」の視点での、「何が正しいか」とか、「人生はどうあるべきか」という議論だと思うのですが、そういう議論が出来るのも、私たちの「存在」があるからなのでして、「私たち」は自分の意志で「存在」しているのではないのです。「存在」させられている存在だと思うのです。(*^_^*)

それを別の言葉で言うと「生かされている存在」。それで本来、「生かされている存在」は、「生かしてる力(仏教では「空」)」を問えないということが、論理的には正しいと思うのです。(脳が、脳を創った「存在させる力」を問えるはずがない)(^^;ゞ

ですが、ウイルバー理論(?)のように問えてしまいますよね。でも、どこまでいっても、
「本来は、問えない」というか、その理論が正しいかどうかを、絶対的に判定することは誰にも出来ない。(これが、悩みですね。(^^;ゞ)

それでも、哲学的には「解答」がある。それは、肉体人間が生きているということは、
「意味」を生きているのだから、各人の作り出している「意味」が、「生きるに値するものであるかどうか」を、自分に問いながら生きてゆくというのが、「哲学的な解答」だと思うのです。違うかも知れませんが…・・。(^^;ゞ

私の『知足日記』の【108】と【109】に池田晶子さんの哲学的な解釈の抜粋を載せましたので、宜しかったらご覧ください。

【112】奇遇(神の配剤)の中で生きている私(*^_^*)

2005-02-23 22:27:31 | Weblog
私は、Sさんと出会いの「奇遇さ」が不思議でならないのですが、
よく考えて見ますと、すべてのことは「奇遇」ですね(^^;ゞ

私はこれを「神(存在)の配剤」と呼んでいます。
微妙なところに、まるで「意図」したかのように人や物があると思うのです。

家内、職場の人、ネット上での出会いなどなど、多くの「奇遇」があります。「奇遇でない」のは家族ぐらいだと思っていましたが、神(存在)の立場に立てば、何処からやってきたのか分からない「家族」もまた、大いなる「配剤」、最大の「配剤」と言えます。ただ、そう言えるためには、それらのすべての「出会い」を善い事として、認められる精神がないとダメですね。

「嫌な出会い」も「学び」だと捉えられれば、「悪しき出会い」=「神(存在)の配剤」と受け取れるのでしょうね。その辺りがポイントのようです。(^^;ゞ

そして、それは、後になって気付くのが常なのです。
「そうか、あの人(事象)との出会いは、こういう意味だったのか。」という具合に、すべては結果還元主義的なのです。(^^;ゞ

「神はすべてのすべて」なのですから、私たちは良いにしろ、悪いにしろ「神(存在)の配剤」の中で生きているのです。

【111】不倫についての「神(存在)の意図」(^^;ゞ

2005-02-23 05:24:41 | 思索
アンナさんのブログで、「不倫」がテーマでしたので少し書きました。(^^;ゞ
http://spaces.msn.com/members/belle/PersonalSpace.aspx?_c=&_c02_owner=1

私は、このようなテーマで書くことは、「生々しくて」苦手ですが(^^;ゞ
良い機会ですので、アップしました。

私も一概に、不倫が良いとか悪いと言えないと思います。(^^;ゞ
そんなに単純なものではないという気がします。「それぞれの状況があって、
それぞれの状況の中で学んでいる」と捉えています。

不倫も、自分の理性的な意志ではコントロールできない「やむに止められない」状況だと思うのです。神(存在)に「不倫」を経験させられているというか、潜在意識というか、
そんなことだと思うのです。簡単に言えば、そういうカルマ(業)があると思うのです。
そして、それを通して「学ぶ」ということなのだと思うのです。精神的にも、肉体的にも。

そういう意味では、「不倫」もまた学ぶためのプロセス(良い材料)ということになると思うのです。

「不倫」させているものは、何なのでしょうかね?
やはり、「神(存在)の意図」かな?
なにしろ、誰が何を言おうと、「神(存在)はすべてのすべて」なのですからね。(^^;ゞ

【110】『「統一」をする。それがすべて』(只管打座)

2005-02-22 22:16:49 | 「統一」
先日、大阪のF市の「世界平和の祈り集会」に行きました。私は、いつも集会の始まる時間よりもかなり早く伺って、白光真宏会や精神世界のことなど、個人的に疑問に思っていることを主催者のSさんに色々と質問し、教えてもらっています。(*^_^*)

「意識の中に、肉体がある」とおしゃったのはSさんですが、池田さんも、
「心の中に、体がある」と述べられています。これはいわゆる「唯識」のことです。

Sさんは、私の母とほぼ同じご年齢なのですが、とても積極的で、なんでもよくご存知なのです。いつも「ツーカー」で返事が返ってくるのです。大阪で日曜日に集会をしているのはF市しかなく、しかもそのF市は、私の自宅から一番近い集会場所なのです。この奇遇さには、「存在の意図」(笑)を感じないわけには行きません。(^^;ゞ

今回は、『とにかく、「統一」をすること。それがすべて』という言葉が印象的でした。書物を読むのも良いが、それもやはり「プロセス」だというわけです。私は日々の「統一行」のお陰で、日常でも、心の中に「世界平和の祈り」を響かせていることが多少出来るようになりました。その時間をもっと増やそうと思いました。

実際にこの頃の私は、朝の「統一行」が楽しみで仕方がないのです。
これはちょっと、言葉では表現出来ません。(^^;ゞ

「統一行」をして、自分の「霊性」を高めることが第一だと思うようになりました。

今まで「世界平和の祈り集会」のお祈りの部屋には五井氏の写真が掛けられていたのですが、今年からは取り外されたようです。

人間の一人ひとりが「神」であり、「人生の主人公」であるという「白光の教え」が普及したので、それが形として顕われたのかも知れません。

Sさんに「2時間祈る」という行の企画をお聞きしたのですが、私は参加できそうになかったので、自宅に帰った翌朝に1時間ほど、統一テープなしで、「統一行」をしました。

雑念が湧いて来たら、カセットデッキのスイッチを入れて、
自分の意識を「世界平和の祈り」に戻す方法を教えてもらいました。

【109】出会うものすべてが、自分である

2005-02-22 04:52:46 | 唯識
【108】の続きです。(^^;ゞ

★ 「本当の自分」とは幻想である
★ 意識するしないに関わらず、人々はその役回りを生きている
★ 「死」は観念としてしか存在しない。「現実の死」などない。
★ 精神は思考することによって、生物としての死の恐怖、その錯覚を看破しえる。だから、考えるということこそが、善く生きるということなのだ。
★ 「瞬間」など、どこにもない。なぜならそれは物質ではないからだ。物理的時間のうちの存在しない自分とは、物理的肉体ではない。すなわち、自分は生きて死ぬこの肉体ではないということに他ならない。
★ この瞬間に意味がないのに、人生に意味があるはずがない
★ 死んだ人が、不幸なのかどうかは、論理的に「分からない」
★ 「死んだ人が、不幸である」とは、明白に観念である
★ 「死は、恐れるべき避けるべき事柄なのだ」と、本当に深く我々は思い込んでいる
★ 永遠として直観される瞬間とは、そのこと自体で生死を超えている。あるいは、すべての生死を含み込んで、今である
★ 全過去の記憶を現在として保有する「心」とは、その意味で、存在そのものではなかろうか。記憶こそが「存在する現在」である。
★ 経験は、外部からやってくるもののようでありながら、それは内部から生きられるものでしかあり得ない
★ 「自分である」ということは、実はそれほど自明なことではない
★ 実は性格とは、それ自体で自立した存在、自分からは独立した他者なのではなかろうか。それぞれの性格が、それぞれの魂であるということも可能だろう
★ 出会うものすべてが、自分である
★ 個人などというものは、この世界のどこにもいない

■ 以上、私のブログ日記の「題名」にでもなりそうなものを、抜き書きしました。「哲学」というのは言葉の論理(ロゴス)だと思いますので、だれが考えても、上のような解答が、言葉の意味において「普遍的」に導き出されると思うのです。(^^;ゞ

「何も食べず、何も飲まない人々」というサイトなど

2005-02-20 23:16:49 | Weblog
★「何も食べず、何も飲まない人々」というサイトがありました。
http://x51.org/x/05/01/1506.php

★ 山田鷹夫さんが、船井幸雄さんとお会いになったそうです。
(2月10日の記事です。山田さんの主張が上手く表現されています)
http://www.funaiyukio.com/hisho/index.asp

★山田さんご本人が参加している不食のBBSがあるそうです。
http://www.shiryu-music.com/treebbs/2/
露天の鷹というHNが山田さんだそうです。

オーストリア人のジャズムヒーン(Jasmuheen)という女性が書いた
"Living on light"(リビングオンライトー光に生きる)という本に、
「不食」の本と似たような事が書いてあるそうです。
彼女はヨーロッパ、タイなどで活動をし、ワークショップ等をしているそうです。

【108】「私」とは観念である(『あたりまえのことばかり』)

2005-02-20 22:54:36 | 哲学的思考
『14歳からの哲学』のつぎにお勧めの『あたりまえのことばかり』(Ⅱ章、Ⅲ章)は「真実」を語る言葉の宝庫です。(^^;ゞ

というのは「あたりまえ」でして、『哲学』というのは、「真実」を語るものだからですね。

同様の意味で、科学も「真実」について語っていますが、それはあくまでも
「説明」なのです。『「真実」とは何か?』という問いではないのです。
以下に、その『「真実」とは何か?』という問いの解答(?)らしきものを『あたりまえのことばかり』(トランスビュー社)の中から抜書きしてみました。

★ 存在することの意味は問えない
★ 個人と全体、自分と他人は、どうもうまく分けられない
★ 生も死も実体としては、どこにも存在しない
★ 我々は、死に向かって生きているのではない
★ 「私」というのは、物質としての脳ではない
★ 「死後」は問いとしてナンセンスである
★ 「魂」とは、個であることがそのまま全体であるような存在
★ 「魂」は、全体に対して奉仕することしかできない
★ 人生の価値は、善いことをすることである
★ 価値は自分の内にある。人は善悪の規範を内に持っている
★ 「価値」という意味は、言語によって成立している
★ 人間は思い込みの動物である。「幸」も「不幸」もそれ自体でひとつの思い込みである
★ 「私」とは、そのように思い込まれている限り、やはりひとつの観念である
★ なりたい幸福の何であるかは、必ずしも明白ではない
★ 身体的苦痛は、「身体の苦痛」という事実なのであって、「不幸」という観念ではない
★ 苦しみや悲しみも不可解な何者かから届けられた「ある感情」として味わえばよい。それが運命なのであり、「魂」を味わうことなのである
★ 「魂」もまたフィクションであるが、虚構は虚構と自覚されることによって、視点として有効となる
★ 虚構を知ることによって、真実を知る
★ 物語を楽しむように「苦しみ」を楽しむ