『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【357】「死」についての4つの考察

2005-09-30 22:16:29 | 思索
次男と話をしていて、「人間は、自分の体の老いを信じなければ、永遠に生きられる」という話になったとき、
私がふっと、「それはそうと、魂は、永遠であるので、死はない」と言ってしまいましたが、
これは、私の勇み足です。(^^;ゞ

なぜなら、「肉体が老いない」と思うことによって「死」がない話(A)と、
魂は永遠という話(B)は、別次元の話だからです。
それにもうひとつ、「死」は想念であるという話(C)もあります。
それにもうひとつ、「肉体がある」と想うから、「肉体」があるという話(D)もありますね。

この4つについて、考えてみたいと思います。
(A) は、想いが世界(現実)を創っているという意味の話です。
「自分は、若い」と思っている人は、老いることがないというようなことですね。
  それにしてもこの頃は、高年齢でも、肉体的精神的に若い人が、実に多いです。

(B)は、霊的真実として、魂(意識)は不滅だということです。
   これが真実なら、肉体が機能しなくなっても、意識は死にません。

(C) は、哲学的なテーマです。「死」とは、 肉体が動かなくなることを、
   「死」という言葉で表現しているのであり、この場合、 「死」とは、想念(概念)なのです。

 実際に、一人称の自分は、「死」を経験できません。
 ですから、生きている人間はだれも、「死」を知らないのです。
「死」を知らないのに、恐怖しているのです。 知らないから、恐いのかもしれませんが。(^^;ゞ

こういう哲学的考察と、「白光」の教えは、恐ろしいほど一致しています。(*^_^*)
池田晶子さんと西園寺昌美氏の対談が実現すれば、どのような本になるのか、とても興味があります。
どなたか、この企画を、実現して戴けませんか?(*^_^*)

(D)の「肉体がある」と思うから、「肉体」があるという話は、
  「世界は、想いで出来ている」ということを、裏側から見たのだと思うのです。
 「意識」を何に向けるのかによって、立ち現われてくる「世界」が変わるのです。
「肉体」を意識したときには、「肉体」についての感覚が鋭くなり、「精神」に意識を向けたときには、
「世界」は、意識で動いているように見えるのです。

講演会・集い(無料)のお知らせ(「白光誌」10月号より)

2005-09-30 21:57:30 | 講演会のお知らせ
10月1日(土)東京講演会・九段会館ホール【午後1時~3時】
10月9日(日)帯広講演会・音更町文化センター3階会議室【午後1時~3時】
10月16日(日)宇都宮講演会・護国会館1階高砂殿【午後1時~3時半】
11月26日(土)名古屋講演会・名古屋市総合体育館(サン笠寺)サンホール【午後1時~3時】
11月27日(日)福岡講演会・TNC放送会館パヴェリアホール【午後1時~3時】
11月27日(日)福井講演会・フェニックスプラザ地下大会議室【午後1時~3時半】

■ 輝かしい未来を創造するセミナー
10月8日(土)鳥取・さざんか会館 3階 第二会議室【13時~17時】
10月29日(土)名古屋市民会館 第一会議室【13時半~17時】

■ 白光フォーラム(新しい方が対象で、自由参加制です)
10月8日(土)県民プラザ 和歌山ビッグ愛 501号室
10月30日(日)徳島県青少年センター4階 第一セミナー室

【356】「不食」とアセンション(次元上昇)

2005-09-29 22:09:11 | 思索
もうひとつのテーマは、「不食」でした。

この「不食」は、愛と慈悲が深くなって、高次元の意識で生きるようになりますと、
目先の欲望が減ってきて、生物学的変容のプロセスとして、はじまるようです。
ですから、「不食」とアセンション(次元上昇)は、大いに関係があるのです。

高次元の意識になれば、自分の肉体や感情や家族への執着も、なくなるのですから、
実生活でも、食べ物への把われがなくなったり、
食事の量が減るなどのさまざまな変化が起こるのは、当然なのかも知れません。

霊性が高くなり、高次元の意識が持続するようになりますと、
自然に、体が必要とするものだけを摂るようになるのだと思うのです。

また、意識がアセンション(次元上昇)しますと、呼吸からエネルギーを取り入れ、
酸素を糖に変換することが出来るそうですが、
確認は、出来ていません。(^^;ゞ

地球人の覚醒【アセンション(4)】
http://www21.0038.net/~gaia-as1/ascension4.html

【355】「天命」と高次元意識(存在そのものが、天命)

2005-09-28 22:06:20 | 思索
天命についての説明を、次男へのメールに書きました。

★天命というのは、具体的な仕事という意味ではないと思います。
例えば、生まれてすぐに死んだ赤子とか、
重度の身体障害で、家族の介護なしには生きられない子供や老人にも、天命はあるのです。

「存在」が、天命だと言ってもよいのかも知れません。
「役に立つからとか、有意義だから、天命がある」ということではないのです。(^^;ゞ
「存在そのもの」が意味(天命)なのです。(*^_^*)

外界に事が起こる(例えば、トラブル)と同時に、その人の「想い」が現われて、消えてゆきます。
悩みとは、この「想い」に把われることなのです。

ですから、起こってくる「自分の想い」に把われるなければ、あれこれ悩む必要はないのです。

表われてきた「想い」を、掴んでしまうと、「業」が消えませんから、苦しくなるのです。
たとえば、病気や仕事上のミスは嫌だという「想い」がいくらあっても、トラブルは、因縁があって、
起こるべくして起こったのですから、なるようにしかならないのです。
起こってしまったことに、文句をいっても、問題は解決しないのです。(*^_^*)

この「なるようにしかならないという心境」が、無分別心なのであり、一元の世界観なのです。
そして、そのことに気付くことが、本心を輝やかすことなのです。

具体的に、「天命」とは何なのかというと、【348】にも書いたように、
自分の意識を高次元にしてゆくことなのです。

高次元とは何かというと、愛と慈悲に満ちた人間に成長してゆくことなのです。
そしてそれが、人間(人類)一人ひとりの天命(いのちの方向)なのだそうです。

そういう「天命」は、仕事や家庭や、地域での人間関係でのさまざまなトラブルや、
不幸と思われることを通じて、学ぶことが、多いようです。

そのことを、宗教的にいいますと、
『人間の天命とは、この世で、自他の「業(想い)」を消すこと』となるようです。

【354】本心の自分と、エゴの自分の分離

2005-09-27 22:15:23 | 思索
次男との議論のもうひとつのテーマは、本心の自分と、エゴの自分の違い。それに守護霊についてでした。
そして、「天命が、完うされる」とは何か?

★守護霊の意図とは、「大いなる自己(潜在意識・本心)の声」と言えるのかも知れません。
「守護霊の内なる声」というのは、そういう意味であって、「エゴ(私利私欲)の声」ではありません。

それにもう一つ、唯識的にみると、「外界とは、私の見ている世界に過ぎない」のですから、
すべては、「自分の見方」なのです。
ですから、「すべては、自己満足」というフレーズは、屁理屈としては成り立ちます。(^^;ゞ
けれども、そういう決着点が、人生問題(?)の解決点(解答)ではないのです。

★人生問題を解決するためには、
本心とエゴ(自分だけよければよい)を分けて考えないと、話が進みませんので、分けて考えます。

それで、私の経験では、日々「統一」(瞑想)をしていますと、自分はどのような人生を歩めば良いのかが、
おぼろげながら、分かってきて、自然にそのような状況が用意されるように思うのです。

目先の利益を考えると、損だと思えることでも、
「これは、あなたのミッションですよ」というようなイメージが、降りてきます。
そして、それをすると、確かに、自分がイキイキとしてくるのです。(*^_^*)

そういうメッセージは、心の深いところからやって来る気がして、自分の行動に、自信が持てます。
なにしろ、天との交流によるイメージなのですから、もうすでに、想念の世界では出来上がっているのです。
物質界に現実化するのは、時間の問題だと思っていれば、良いのです。(^^;ゞ

私の「絵仕事」もそうなのです。売れる売れないに関係なく、
天の声として、「絵を描きなさい」というイメージを戴きましたので、安心して絵が描け、
しかも、人様の差上げる勇気も、授かったのです。(^^;ゞ

もし、絵描きになれなくても、それはそれで、「神の御心」なのであり、プロセスに意味があるのだと思うのです。
そう思えたので、結婚記念の絵も、描けたのです。(^^;ゞ
(不苦労の絵になったイキサツにも、ちょっとしたドラマがあります(^^;ゞ

この「自分の行動に、自信が持てる」というは、私が「統一」をお勧めする理由のひとつです。
「迷い」が少なくなるのです。(*^_^*)

【353】本来、不幸や苦労はないのです(*^_^*)

2005-09-26 23:20:52 | 思索
娘の結婚式のために帰ってきた次男と、このブログ日記の内容について議論をしました。(*^_^*)
議論の発端は、やはり「不食」でしたが、それは後日に書く予定です。

■「人生は、守護霊さんに従って、スムーズに過ごせる方がよい」と、「不幸は、学びである」は、矛盾する。
 なぜなら、「不幸」が良い事なら、スムーズに行く必要がないのだから。

これがテーマでした。鋭いでしょ。(*^_^*)
その時は、あたふた(笑)として、上手く答えられませんでしたが、今日、回答を送りましたので載せます。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★結論から、先にいうと、『本来、不幸や苦労はない』ということになります。
もうすこし、詳しくいうと、事実(たとえば、病気や身体障害)と、それを不幸と思う事は、
別のことだとことです。

人生がスムーズに運ぶと、「不幸」がないのだから、学びにならないと、考えることもできますが、
そうではないのです。逆なのです。

エゴによる把われがないから、「人生がスムーズの運んでいる」と思える心境であるということなのです。
「スムーズ」というのは、「エゴに都合よく、事が運んでいる。ラッキー」という意味ではないのです。(^。^?

たとえ癌になっても、「自分の人生はスムーズに運んでいる」という『本来、不幸や苦労はない』的境地のことなのです。
エゴから見て不都合なことになっても、「どうなっても大丈夫」という境地(世界観)のことです。

「本来、不幸や苦労はない」というのは、「どうなっても大丈夫」という世界観のことなのです。

ですから、「在るものを、そのまま見ると、そうなっている」(現象学的立場)という意味で、
「人生は何が起こっても大丈夫的スムーズさ」の快感(心境)と、「不幸は学びである」的快感(心境)は、同じのものなのです。

これが、二元か一元かという議論です。
多くの場合、言葉は二元論ですが、それで表わしたい真理は、一元なのです。
言葉とは、そのような二元的性質のものであることを、了解しておかなければいけません。

以前から、私が「言葉は比喩である」といっているのは、このことです。
言葉の通りに、事象や事物があるのではなくて、事象や事物を分類するために、
言葉を利用しているということを、押さえて置きたいのです。

それで私は、「人生は、守護霊さんに従って、スムーズに過ごせる方がよい」と、
「不幸は、学びである」は矛盾しないと思いますが、
どうでしょうか(^。^?

「不幸や苦労は、エゴによる把われである」という真理(一元)の学びの中に、
「自己」が解けていれば、矛盾はないのです。


【352】「無私」の精神=祈りのなかに生活がある

2005-09-26 21:55:16 | 思索
以前にも書きましたが、「白光」の職員さんというのは、私のみる限りでは、「無私」の精神の方たちでして、
ご自分のいのちを、「世界平和のために使おう」と、決心されているように思えるのです。

そして、そのいのちの力を、「世界平和」を祈る維持会員のためにも使い、それを通じて、
「世界の平和」(形ではない)を樹立しようとされている、崇高な方々だと、私は思うのです。

新米の私が、人類印を丸1日組むぐらいの「無私」など、知れていますね。(^^;ゞ
職員の方たちは、生活の全部が「祈り」なのだと、思うのです。
生活の中に祈りがあるのではなく、祈りのなかに生活がある。(*^_^*)

「白光」の理事長さんが、10月2日(日)に、神戸で講和会をされますので、聴きに行くつもりです。
このブログ日記で書けそうなことがありましたら、ご紹介します。(*^_^*)
(維持会員の方で、場所をお知りになりたい方がおられましたら、ご連絡ください。)

【351】「幸せは、自分の心で決めるもの」

2005-09-25 22:57:28 | 経験
今日は、娘の結婚式でした。両家だけの少人数の集まりでしたので、
披露宴の記念に、私の彩墨画をもらっていただきました。(*^_^*)

色々と考えたのですが、「日々感謝」と、相田みつをさんの
「幸せは、自分の心で決めるもの」という言葉を入れて、「不苦労」の絵を描きました。

【350】「時間が流れる」は、想念である

2005-09-24 22:37:17 | 思索
印の組み始めに、ふっと浮かぶ「考え」があります。
「こんなことやっても、仕方がない。そうそう、あれをしなければ。」
その時、「まあ、待て。これが終わってからにしよう。」と思います。

そして、終わるころには、「あれをしなければ」を忘れていて、
3、4回続けて組みますと、至福の世界に入っていきます。

この至福感はまだ序の口で、その奥には、もっと深い世界があるそうですが、
それは、考えてみて、どうにかなることではないようです。

「時間が流れる」というのは、想念なのだと思うのです。「時間は、流れるもの」という概念で、
外界を見ているに過ぎないのです。事実は、「今」という一瞬が、「今、今、今、…・」と続いているのであって、
過去というのは、「今」考えている過去なのです。

ですから、「時間」に気付いているのは、いつでも「今」であり、気付いた瞬間には、「過去」になります。
超ひも理論によりますと、原理的にも「宇宙」というのは、「今」のことであり、「この瞬間」に、
すべての過去と未来が畳み込まれているのだそうです。

【349】苦しみは、心の偏りから、生じる(*^_^*)

2005-09-23 19:50:33 | 思索
外界というのは、ひとり一人の意識が描いている「世界」なのです。
100人居たら、100通りの「世界観」があるのです。

現実の世界は、それら人類の想念の総体として、現実化しているのです。
その「人類」には、過去に亡くなった魂の想念も、含まれているのです。

すべては、神(一つの源)から生じているのですから、本来は、不調和はないのです。
不調和と思っているのは、「心」なのです。
戦争は、プロセスとして、人間の業の現われとして、「消えてゆく姿」として起こるのです。
肉体人間の心の偏りが、戦争という現象を生み、自らに苦しみを与えているのです。
しかしそれも、「良くなるため」に起こっているのです。
「業」を消すために、起こっているのです。

肝心なことは、「戦争はプロセスとして、必要があって起こっている」と、認めることなのです。
人類はすべて、「宇宙の進化創造の光」の中に含まれているのです。

「不調和と思う心」が表われたときこそ、消すチャンスなのです。
人生のあらゆる苦悩は、宇宙神と調和するために生じているのです。

     (平成15年8月、永安治氏の講和テープより)
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★ この内容には矛盾がなく、「人間とは何か?」の正しい見方だと思うのです。

つまり、人間とは、「業のかたまり」であって、業を消すために、
地球上に現われている存在だということなのです。

『天上のシンフォニー』(伯宮幸明著)について

2005-09-23 06:21:40 | 精神世界
先日ディクシャに参加したときに、見せてもらったのがキッカケで、ネット上だけで販売されている『天上のシンフォニー』という
3000部限定の本を、手に入れました。読んでみると面白くて、2日で読んでしまいました。(*^_^*)

私が、このブログ日記のテーマだと思っている「アセンションと霊性開発」が、そのものズバリのテーマの本です。
3000部に達したあとは一般公開され、翻訳されて海外でも読まれると思います。

残りの部数は、1300部位だと思いますし、精神世界的な洞察にあふれた本ですので、
よろしければ手にしてみてください。下記のサイトに申し込みのフォームがあります。

「SGTクラブ」という、『天上のシンフォニー』を読み終えた人の情報交換の掲示版があり、
感想などを、自由にシュアーでき、お互いの気付きのプロセスをサポートできるようになっています。

天上のシンフォニー製作委員会



地球人の覚醒「ガイア・アセンション」

【348】天命の自覚(天命とは、何か?)

2005-09-22 21:51:33 | 思索
★「天命」は、天職とは違うようです。
「天命」というのは、「働きの具体的な内容」ではないようです。
…………………………………………………………………………
いかなる人も、今生における「天命(ミッション・使命)」をもっています。
今生で、枝葉のいかなる目的を達成しても、この「ミッション(使命)」の完成をみなければ、魂は満足しないのです。
また、今生でいかなるものを失おうとも、この「ミッション(使命)」が、達成されれば良いのです。

魂には、「ミッション(使命)」があるのです。
人間は生まれながらに、天命(ミッション)をもっているのです。
生まれてすぐに亡くなった赤子にも、「ミッション(使命)」はあるのです。(小天命)

その「天命」とは何かというと、この世界を次元上昇させてゆくことなのです。
私たちの「働き」とは、この世界の因縁生を浄化することなのです。
自分の肉体を通して、この世界を良くしてゆくことが、一人ひとりの「天命」なのです。(大天命)

この小天命と大天命を同時に果す道が、「世界平和の祈り」なのです。
人間は「形ある神」として、肉体界に降りてきているのです。

そのなかで、自分の肉体観に把われているので、
肉体を通して表われてくる「業」を、自分のものだと思ってしまうのです。(*^_^*)
そして、他人の「業」も、その人のモノと認めて、攻めたり裁いたり、
嘆いたり悲しんだり、苦しんだりしているのです。(*^_^*)
これら肉体界に起こっていることは、すべて「業」が消えるための「働き」なのです。

縁のないものは出てこないのです。来たものは全部、縁があって来るのですから、
それを「良し」と受けとって、「消えてゆく姿」と見て浄化すれば、
その人は、その人の置かれた立場でミッション(使命)を遂行していることになるのです。(*^_^*)

けれども、肉体観に把われて、自分の天命(ミッション)を放棄した人は、
自らの意志で、不幸へと転落してゆくことになるのです。
自我欲望の達成のためだけの人生は、天命(ミッション)の放棄なのです。

この天命(ミッション)を自覚する、しないによって、生き方が決定的に違ってきます。
その天命を気付かさせるために、天変地変やアセンション(次元上昇)が起こるのです。

         (平成15年8月、永安治氏の講和テープより)

【347】「卒業」が、始まっているのかも(*^_^*)

2005-09-21 21:26:04 | 思索
「今の仕事からの卒業が、始まっている」と思えると、すっきりしてきました。(*^_^*)
まわりでも、去年から廃業が相次いでいて(7店舗ほど)、アリスは、そのなかでも結構、
がんばっている店だったのですが、
そういう時期に来ているのかも知れません。

もし将来私が、本当に画家(笑)になるのなら、アリスの廃業もありうることですよね。
でも、画家よりは、今の仕事のほうが、はるかに気楽で良いのですが、…・・。(^^;ゞ

毎朝、「教義」(仮称)を読むのですが、今日は、『守護霊、守護神によって守られているものである』というところで、気付きを得ました。
 
『そうなんだ、肉体の私は、守護霊、守護神によって守られているのだ。だから、何があっても大丈夫なのだ。この肉体がある限り、どのようにしてでも生きてゆけるし、「食べなくてもよい体」になっているのだから、なんの心配もいらないのだ。』と思えたのです。

こういう分かり方こそが、『御心のままに』の精神だと思えると、急に勇気が湧いてきました。(*^_^*)
「飲食業」もプロセスに過ぎないということが、腹に落ちたのです。
私は、「天命」を完とうする段階に、差し掛かっているのかも知れません。

2年まえに、チャネラーのTさんに描いてもらった絵(チャネリングアート)に、私の人生のテーマとして、
『力強く、生きる』と書いて戴いたのを、思い出しました。(*^_^*)

…………………参考までに………………………………
【人間と真実の生き方】

人間は本来、神の分霊(わけみたま)であって、業生(ごうしょう)ではなく、
つねに守護霊、守護神(しゅごじん)によって守られているものである。
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世(かこせ)から現在に
いたる誤てる想念が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るので
あるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し
、どんな困難のなかにあっても、自分を赦(ゆる)し人を赦し、自分を愛し
人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、
守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈りつづけて
ゆけば、個人も人類も真(しん)の救いを体得出来るものである。

★ 守護霊・守護神とは、常に私たちの背後にあって、私たちを専属に守護し、
 運命の修正に尽力している神霊です。

【346】『御心のままに』ですべてが、解決。(*^_^*)

2005-09-20 22:20:33 | 思索
五井氏の一番好きな言葉は、『御心のままに』だそうです。(*^_^*)
「どのように感謝するのか」がわからない時にこそ、『御心のままに』という言葉を繰り返すと、
ふっと、自分のなかに「把われ」があったことに、気付くのでしょうね。

売れるも売れないも、『御心のまま』、『なるようになる』。
自分の物など、何一つなくて、全部が借り物なのですから、
ああだこうだと「自分の都合」を考えることが、迷いなのでしょうね。

「飲食」ということを考えた場合、数十年後には、食べなくてもよい時代がやってくるのかも知れませんし、
私もいずれ、この「飲食」という仕事を、卒業する日が来るという気がします。

昨日、『天上のシンフォニー』という本を読みました。
売れる売れないとかいう話以前のアセンション(次元上昇)。
地球の大浄化、価値の大転換をしなければ生き残れない時代が、目の前に迫っているのに、
私は「売上げ」などという「のんきな話」を、しているのかも知れません。(^^;ゞ

アセンション(次元上昇)は、6年後に迫っているのですから、
せめて、心の準備だけでもしておきたいと、思うのです。(*^_^*)


天上のシンフォニー製作委員会

【345】「さっぱり売れない日々」には、どうやって感謝するの?

2005-09-19 18:28:48 | 思索
商売をやっていますと、「さっぱり売れない日々」というのはあるものなのですが、
現場にいますと、「消えてゆく姿」とはわかっていても、不安になってきます。(^^;ゞ

「このままで、大丈夫だろうか?」「店を閉めることになったらどうしよう」とか、
否定的な想念は、肥大してゆくばかりです。(*^_^*)
20年も営業してきて、禅も哲学も「白光」も勉強したのに、
それが活かせないとは情けない限りです。(^^;ゞ

起こる事象に対しては、「出会うところ、わが人生」とか、「消えてゆく姿」と思えるのですが、
起こらない事象に対しては、「これも経験だ」と思えない自分がいます。

こんなことは、もう百回以上も経験して、「消えてゆく姿」だとはわかっているのに、
「物質」を信じているので、捕まえてしまうのしょうね。(^^;ゞ

「さっぱり売れない日々」は、「消えてゆく姿」と受け取れば、
なんの問題もないのに、ついつい、暗い未来を連想してしまう私です。(^^;ゞ

★17日の「統一三昧」の結果ですが、 結局、「統一」は、4時間ぐらいでした。(^^;ゞ
 そのあと1時間、人類印を組み、屍のポーズをしていましたら、
肉体感覚がなくって「意識」だけなり、体が痙攣したり、反転するのを感じましたが、
実際には、体に変化はありませんでした。 そしてそのまま、深い睡魔に落ちていきました。