『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【53】生かされてる医学(私は、だれ?)

2004-12-31 19:09:39 | Weblog
『生かされてる医学』というHPをご存知ですか?
http://www.ikasareteruigaku.org/

数年前、NHKの「こころの時代」に、医学博士の 笹田信五さん
が出演されて、このサイトを見つけました。

その中のお話で、
『医学的に、死は、「私」の終わりではありません』
http://www.ikasareteruigaku.org/haken3.htm
というのがあり、医学的に「死」と「私」の関係が
論じられています。

内容を掻い摘んで書きますと、
①「死は私の終わりである」というのは、科学的に証明できて
いないそうです。ですから、私たちは、「死んだらおしまい」と
証明もなしに信じているのだそうです。

②身体から「私」が発生したということは証明できないそうです。
しかし、「私」は実在します。今このように考え、判断し、
行動しています。だから身体の死は、身体の消滅ではあっても、
実在している「私」の消滅ではないのだそうです。

★ この「私」という意識は、何なのでしょうか?
何処からやってきたのでしょうか?
考えてみると不思議です。(^^;ゞ

この「意識」は、地球(宇宙)の創造物なのかな?
この「意識」は、何がしたいのかな?

■私は、誰で、何をしたいと思っている「意識体」なのでしょうか?

【52】すべての想いは、「消えてゆく姿」

2004-12-31 18:27:28 | Weblog
良いとか、悪いとか、非情であるとか、無礼であるとかという
人間の判断とは関係なく、事実として、
『すべての想いは、「消えていく姿」』だと思うのです。

OSHOの言葉で言えば、「それは、それ」、あるいは、「それもまた、
過ぎ去る」というのは、「真理」だと思うのです。

「白光」の方が、世間的に見て「不都合なこと」が起こった時に、
『「消えていく姿」が起こった』と捉え、その事象を、自分の想いと
切り離して、客観視しているのが、印象的でした。(*^_^*)

「事実は、事実。思いは思い」の言葉通りに、
「自分の想い」は、「消えていく姿」として 客観視し、
事象と切り離している姿が、印象的でした。

【51】「法則としての神」とは、霊的真理のこと

2004-12-31 06:19:19 | Weblog
私の『「大災害」の霊的解釈』について、「非情」であるというご意見を
戴きましたので、すこし補足します。

以前にも書きましたが、「法則としての神」と「愛としての神」があると思うのです。私が『「大災害」の霊的解釈』で言いたかったことは、「法則としての神」についてです。

確かに、「霊的解釈(真理)」は非情な面がありますよね。

ですが、そういう「霊的解釈(真理)」を理解しないと、
「個人も人類も、真の救いを体得できない」という一面があると思うのです。

前後の文章を読んでいただければ、「非情」で語っているのではなくて、「法則」を語っているのだと、理解してもれえると思うのです。

そして、たとえ「非情」に映ったとしても、
「ああ、亡くなられた方々は、救われているのだ」と理解していただけると
思っています。

問題は、生き残った方々(私たちも含めて)が、大災害の事実をどのように受け止めるかなのです。「霊的解釈(真理)」を知っているかどうかが、「救われる」か「救われない」かの境目だと思いましたので、書きました。

そのように理解くていただけると、嬉しいです。(^^;ゞ

【50】人類と環境は、一つのもの?(依他起性)

2004-12-30 20:51:39 | Weblog
NHKスペシャルの『地球大進化(46億年・人類への道)』を見て、
http://www.nhk.or.jp/daishinka/
人間とは、何なのかということが、ますます、分からなくなりました。(^^;ゞ

私たちの肉体は、地球上の物質で作られています。
ということは、私たちは、「地球の部分(部品)」です。(*^_^*)

私たちのなかには、地球46億年の大変動が隠されています。
ということは、私たちは、「経過(プロセス)でしょうか?

私たちの祖先が微生物から人類へと進化しする過程とは、
いったい何なのでしょうか。
「大いなる意図」はあるのでしょうか?

生命は、地球の大変動による絶滅の危機を何度も乗り越えることに
よって、「人類」にたどり着きました。(*^_^*)

「環境の変化」が、「人類」を形成してきたのです。

例えば、人間の視力の良さは、環境の変化に対応することによって、
獲得された能力だそうです。

この「良好な視力」の獲得がなければ、
人類の今の文明はないかも知れません。

「人類」というのは、「単独」で存在するものではなくて、
「環境」とともにあることによって、存在し得ている存在のではないでしょうか。これは、「事実」だと思うのです。

これを、仏教では、「依他起性(えたきしょう)」といいます。
どんなものも、「他に依って、成り立っている」という意味です。

ですから、これはちょっと飛躍になりますが、(^^;ゞ
「自分」という確固としたものは、無いのです。

「自分」が「自分」と思い込むことによって、「自分」が在るのです。
「自分」を思い描いていない時、「自分」はないのです。

そして、「自分」というのは、「環境を含めた自分」なのです。
これは、主客合一に似ていますね。(^^;ゞ

「すべて」は、いまの私の見ている「世界」なのです。

【49】「大災害」の霊的解釈

2004-12-29 20:44:52 | Weblog
今回のスマトラ島沖地震の大津波による被害は甚大で、多くの方が亡くなり、胸がつぶれる思いです。

大きな地震と津波が起こったことは、大変に残念なことです。
今回の大災害も「消えていく姿」なのでしょうか。

霊的に解釈するとどうななるのでしょうか?

まず、肉体人間としての生命は、一時的なものであり、魂としての「いのち」は不滅だと考えれば、「肉体の死」は、悼むべきことではないことになります。

霊的な解釈をすれば、「人はみな死後、肉体から解放されて自由になり、輝く」と言われています。

霊的にみれば、過去のカルマが、「消えていく姿」として顕われたということになり、そのことにより、「浄まった」ということになります。

現象としての「津波」は起こり、消えて行ったというのが、「事実」の見方だと思います。前にも書きましたように、事実としての「時間」は、「今、今、今」の連続です。

霊的に見れば、
地球もまた、一つの生命体です。その地球の中心的な存在である人類
の悪い業想念や行為が、地球に影響を与えないはずはありません。

悪しき業想念や行為の結果として、「天変地変」が起こると言われています。

地震で死んでしまった方がいいのか、死なずに残って悲しい思いをした方がよいのかは微妙なところですが、生きている人にとってみれば、天変地変によって、「業(カルマ)が浄まった。」と考え、「災難に遭う時には、災難に遭うのがよろしく候」と受け取るしかありません。

それにしても、痛ましい惨状です。
しかしそれも、私たちが真理に目覚めるための「プロセス」なのだと思います。

それは例えば、阪神淡路大震災のときに、たくさんの悲劇があったけれども、それらの「不幸」を通じて、「助け合う心の大切さを学んだ」というようなことに象徴される「真理(愛)」です。


【48】「なんのために、仕事をするのか」という虚無(*^_^*)

2004-12-29 18:37:38 | Weblog
以前の私は、虚無主義的なところがありました。
「なんのために、仕事をするのか」という問いの答えが、
「食べるのため」ということぐらいしか、思い浮かばなかったのです。(^^;ゞ

朝起きて仕事に行くのが、「面倒だ」と思う時も、当然ありました。
でも、この頃は、ギリギリまで寝ていることがなくなったこともあるのですが、「仕事に行くのが嫌だなあ」、「寝ていたいなあ」と思うことがなくなったのです。

朝起きて、瞑想をする楽しみもあるのですが、
自分の本心は、今の、こういう生活を望んでいるのだということが納得できるので、「自我」による迷いがなく、「面倒だ」と思うことがなくなったようい思います。

それに、「仕事」というのは、「食べるため」ではなくて、
「仕事」のため、つまり、「事(こと)」に仕えることが、「仕事」だと分かってきたのです。池田さんの哲学風にいえば、「仕事」をするのは、「善」を成すことと言えるかも知れません。

それに、「仕事」を大事にすることは、
日常生活を大事にすることでもありますしね。(*^_^*)

★ サーバーが変わるため、私の下記のサイトが今月で閉鎖されます。
 必要な箇所がありましたら、保存してください。
http://homepage2.nifty.com/hiroshi_n/etegami.htm

【47】「あらゆる事、人を通して導いてくれる」から、『全託』

2004-12-29 15:28:10 | Weblog
「日常生活が大切」ということを、「白光」の言い方で言いますと、『守護霊、守護神は、あらゆる事、人を通して導いてくれる』となります。(*^_^*)

「守護霊、守護神」の存在を信じられれば、
「幸福」と感じる時には、そのことを通じて、
「不幸」と感じるときには、そのことを通じて、
私を導いてくれていると納得できるわけです。(^^;ゞ

そのように納得できれば、不幸に対する「悩み」(どうして、私は不幸なのか?)から、自動的に解放されることになります。(*^_^*)

「守護霊、守護神」の存在を信じられれば、「安心立命」の境地なのですが、人間の「二元論的思考」が、それを阻止してしまいます。(^^;ゞ

『守護霊、守護神が、あらゆる事、人を通して導いてくださる』ということが、腹に落ちれば、すべては、「守護霊さんへのお任せ」(全託)なのですから、「安心」以外はないのです。(*^_^*)

自分のすべてを、「守護霊、守護神」にお任せ出来る人、
すなわち、どんなことが起こっても、「日常生活」を大事にする人は、
悟っている人なのです。

本来、私たちは「生かされている存在」なのですから、「悩み」はないのです。「悩み」は、自分を中心に考えるから、顕われるのです。(^^;ゞ

私たち、「生かされている分際(ブンザイ)」が、「創造主(空)」に、不満を言える道理はありませんものね。(*^_^*)

★ 『全託』というのは、「すべて、託す」という意味です。
「与えれているいのち」なのですから、「託す」以外にはないのですが、
ついつい、「自我」の思いで、「悩んでしまう」のが、私たちですね。(^^;ゞ


【47】あらゆる事、人を通して導いてくれる(全託)

2004-12-28 20:13:35 | Weblog
「日常生活が大切」ということを、「白光」の言い方で言いますと、『守護霊、守護神は、あらゆる事、人を通して導いてくれる』となります。(*^_^*)

「守護霊、守護神」の存在を信じられれば、
「幸福」と感じる時には、そのことを通じて、
「不幸」と感じるときには、そのことを通じて、
私を導いてくれていると納得できるわけでして、

そのように納得できれば、不幸に対する「悩み」(どうして、私は不幸なのか?)から、自動的に解放されることになります。(*^_^*)

「守護霊、守護神」の存在を信じられれば、「安心立命」の境地なのですが、人間の「二元論的思考」が、それを阻止してしまいます。(^^;ゞ

『守護霊、守護神が、あらゆる事、人を通して導いてくださる』ということが、腹に落ちれば、すべては、「守護霊さんへのお任せ」(全託)なのですから、「安心」以外はないのです。(*^_^*)

自分のすべてを、「守護霊、守護神」にお任せ出来る人。
「日常生活」を、大事にする人は、悟っている人なのです。(^^;ゞ

本来、私たちは「生かされている存在」なのですから、「悩み」はないのです。

「生かされている存在」なのに、「私たちを生かしている創造主(空)」に、
不満を言える道理はありませんもの。(*^_^*)


【46】日常生活が大事。(市井の人々)

2004-12-27 22:14:49 | Weblog
「いのち」の立場、「脱意味」の立場として、代表的なのが、
禅なのだそうです。

以前に、紹介した良寛さんの
「災難に遭う時には、災難に遭うのがよろしく候」というのも、
「人生は、脱意味である」ということに通じます。

そして、そのような「脱意味」を生きているのは、市井の人々なのです。(^^;ゞ

市井の人たちは、その具体的な「仕事(日常)」に専念することによって、
すでに「脱意味」を生きているのです。

「脱意味」は、彼方にあるではなく、今、自分の在り様とともに、
もっとも具体的な形として、顕われているのです。


「白光」さんの言葉を借りれば、
『具体的な「いのちの働き」を通じて、天命が完うされる。』のが、
もっとも理に適った生き方なのです。

『人事を尽くして、天命を待つ』のが、人間の「真摯な生き方」なのです。(*^_^*)

そのように覚悟ができれば、悩んでいる暇はないのです。(^^;ゞ

【45】どんな時にも、人生には意味がある(*^_^*)

2004-12-26 23:12:22 | Weblog
トランスパーソナル心理学というのは、「自己を越えた視点(価値)から、現在の自分の状況を見つめ直す心理学」です。

フランクルもまた、その範疇に入っています。

 フランクルについては、山田邦男氏の著作が優れています。
『生きる意味への問い』(佼成出版社)、『フランクルを学ぶ人のために』(第11章「現代の精神状況とその克服」)(社会思想社)などです。

フランクと聞くと、すぐに思い出されるのが、人間には「3つの価値が内在している」ということです。その価値を簡単に説明しますと、
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

①創造価値(我々が何を人生に与えるかということを通しての価値)
     <研究や仕事によって、自己実現される価値>

②体験価値(何を我々はこの人生から受け取るかということによる価値)
     <友人や家族と共に過ごしたり、芸術や自然に親しむことによって自己実現される価値>

③態度価値(我々が改善の余地のない宿命に対してとる心的態度を通しての価値) 
     <運命や苦悩(病や死や苦境など)を自分に受け入れることによって自己実現される価値>

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
山田氏の解説によりますと、フランクルのいう「価値」というのは、その場その時で、常に変化しているものだそうで、観念で、これこれと規定できるものではないそうです。この「価値は規定できない」というのは、TAOに通じる所がありますね。(*^_^*)

★フランクル心理学の要点は次のようなメッセージになります。

 『どんな時も人生には意味がある。なすべきこと,充たすべき意味が与えられている。』

別の言い方をしますと、『人生は、脱意味である。』(我々の人生は、脱意味に帰着する)となります。(^^;ゞ


『教育に生かすフランクル心理学 』というのが、あります。
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/soyama/gakusyuukai/siryou/01-7frankl.htm

『生きる意味への問いーフランクルをめぐって』山田邦男著
http://www.kosei-shuppan.co.jp/book/contents/culture-hobby/01878-1.html

【44】「所詮、~~~。」は、ダメよ。(*^_^*)

2004-12-25 22:30:47 | Weblog
簡単に言いますと、「いのちの立場」ということは、
「所詮、~」という発想(還元主義)で、物事を捉えてはいけないということです。

「所詮、世の中は、お金だ」とか、「所詮、男と女だ」という分析の方法は、
「いのちとしての人間の人生」の全体像を把握出来ていないのです。

また、同様に、「所詮、人間は神の僕(しもべ)だ」というジハード的発想も、還元主義(原理主義)だと思いませんか?

「所詮、人間は愛だ」なら、還元主義(原理主義)にならないと思います。

還元主義(原理主義)になるか否かの違いは、価値の基準が何処にあるのかによるのです。

価値の基準が、自分の内面(愛)にあれば、還元主義(原理主義)にならないのです。ジハードは、外なる神を価値とするから、
還元主義(原理主義)になるのです。

人間は、内なる神(愛)を見出すべきなのです。(*^_^*)

★ 【43】の還元主義についての説明は、『フランクル心理学入門』諸富祥彦著書(コスモライブラリー社)p164の一部を要約したものです。

【43】「いのちの立場」か、原理主義か(^。^?

2004-12-24 22:15:09 | Weblog
私は、「いのちの立場」に対立する概念は「還元主義」だと思いますので、まず、「還元主義」について説明します。「還元主義」というのは、「要素還元主義」とか、「原理主義」といわれるもののことです。(^^;ゞ

①還元主義とは?

私達はものごとを考えるときに分析ということをします。
そして、結論を出すとそれは多くの場合、還元主義になっているようです。

たとえば、生物学還元主義は「人間は生物的な存在にすぎない」と説き、
心理学還元主義は「人間は心理的な存在にすぎない」と説き、
社会学還元主義は「人間は社会的な存在にすぎない」と説きます。

要するに、人間とは、反射の自動機械装置、衝動の束、心理機構、
あるいは、経済環境の産物のいずれかに「すぎない」と規定するのです。

ところがそういう「~にすぎない」という考えは、人間の生き生きとした
活動の一部を分析したものであり、「一面的なもの」である宿命にあります。

マルクス主義、実存主義、ニヒリズムなどと色々ありますが、
「~主義」というのは、すべて還元主義(「~にすぎない」)なのであり、
生きている人間の活動の全体を把握できていないのです。

「~主義」で、「生きている人間の全活動」を推し測り、規定する事はできないのです。

原理的に、「主義」(「~にすぎない」という発想)を人間の全活動である「人生」に、あてはめることは出来ないのです。


②『いのちの立場』は、【42】に書いた通りですが、
 以前に、本から抜粋したものがありますので、記載します。

≪人は生命をその本来の在るがままに生き、
本来の相(すがた)を受け入れさえすればよいのであって、
それを年数(年齢)や物質的標準で計る必要はないのです。
人間はこの真理を認めさえすれば、
今、ここにおいて久遠の生命(いのち)なのであります。

生命は何か向こうからやってくるものではなくて、
実に今この瞬間にここに実在し、
その中に人は生きているのです。

然るに人々は過去や未来に生きようとして
(即ち持ち越し苦労や取り越し苦労をして)、
今ここに実在している生命から自分自身を引き離しているのです。
過去はすでに死に、未来は久遠の今の中にのみ生まれます。

無量寿全体が実にこの瞬間に働いており、
何人でもこの生命の水を飲むことができるのです。
永遠に生きようとする必要すらありません。

なぜなら、いやしくも生きている以上はすでに
久遠の生命の中にあるからです。
過去を忘れよ、己自身を未来に投入する試みを止めよ、
なぜならば、『今』のみが唯一真実の時なるが故である。
あなたは『今』すでに久遠の中に在るのです。≫

       『ヒマラヤ聖者の生活探求』第五巻(1970年)

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★ 「いのちの立場」に立てば、あらゆる原理主義は、間違いだと思うのです。
そういう意味で、「自爆」というジハードは、正しくないと思うのです。

戦争も自爆も、自他の「いのち」を輝かせる方法ではないと思うのです。


【42】「いのちの立場」とは?

2004-12-24 22:13:16 | Weblog
「いのちの立場」を分かり易く言いますと次のようなことです。

『我々は、ひとり一人が「いのちがいのちしている」存在だ。
「いのちが私している」と言い換えてもよい。

これが真実であり、これ以外にはなにもない。
各人は「いのちの働き」であり、
その「いのちの働き」は、どんな言葉や観念でも表現出来ないし、
規定することは出来ない。

人生の目的とは、生きることそのものだ。
人間はただ生きているだけですごいのだ。』

たぶん、諸富祥彦さんの『生きていくことの意味』からの引用だと思います。(^^;ゞ


【41】私はだれでもない。(大きな自分とちいさな自分)

2004-12-24 04:17:25 | Weblog
「私」とは何かと言いますと、
『過去の記憶の集大成』であるというようなことが、よく言われますが、
ただそれだけではないように思うのです。(^^;ゞ

たぶん、上の文節の「私」というのは、肉体人間の頭脳の、思慮分別を中心にした意識としての「私」のことであるように思うのです。

でも、その「思慮分別」をさせている「大いなる命」に繋がる自分と
というのは、もっと広大で、大きな精神だと思うのです。

それは、感情と精神との違いかも知れません。
感情はつねに変化してゆくもの、精神はその感情を見守っていて、
不変(普遍)であろうとする意識のことです。

ですから、私たちは「精神」を生きているのかも知れません。

この精神を顕そうとする私が、「大きな自分」であり、感情を顕そうとする私が、「ちいさな自分」です。

そして、この「大きな自分(大いなる自分)」を顕している時には、「過去はない」という生き方をしているのだと思うのです。

この「過去のない」生き方というのは、把われのない生き方(いのちの立場)のことです。