『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【425】非対立の生き方

2005-11-29 22:23:55 | 思索
高木さんの『非対立』の重要なポイントは、次の点だそうです。

★ 「自分が正しい」「相手が間違っている」という正義感や怒りは、『対立』である
★ 自分の中に「対立」があれば、何ごともうまくいかない
★ 『非対立』とは、「非暴力」であるだけではなく、心の中の「対立」を捨てること
★ 『非対立』は、我慢や遠慮のような消極的なものではなく、
積極的に手を差し伸べ、強力に和平を推進し、平和を実現していくことである
★ 『非対立』を理解し、実践できる人が、まず自分の周りを変え、世界を変えていく
★ 『非対立』が広がれば、平和が実現する
★ 争いは「対立」から生まれ、平和は「非対立」から生まれる
(p22)
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どれもこれも、うなずけるものばかりで、とても興味深い内容だと思います。

これらをすべてをまとめて、ひとことで言いますと、(^^;ゞ
■「他人を認める生き方」をしようということであり、他人の批評や評価や批判をしない人生を送りましょうということなのだと思います。そうすれば、自ずから「人生」が豊になり、「世界平和」が訪れるということなのです。(^^;ゞ

【424】人はなんのために生きるのか?

2005-11-29 22:21:26 | 思索
高木義之さんの『非対立の生き方』(2004年刊)を読みました。
先日聴いた長時間の講演テープの内容が、要約されて書かれていますので、高木さんの考え方を知るには、手頃な本だと思います。霊的な話は、出てきませんが、「白光」と通じるところが多かったです。
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【人はなんのために生きるのか】

幸せには、「自分だけの幸せ」と「みんなの幸せ」がある
みんなが「自分だけの幸せ」を求めれば、みんなが不幸になる
これまで自分は、「自分だけの幸せ」を求めてきた
だから、自分も幸せになれなかったのだ

「自分だけの幸せ」の幸せは、本当の幸せではない!
「みんなの幸せ」こそ、本当の幸せなのだ!

「自分だけの幸せ」から、「みんなの幸せ」へ!
これが、自分が生まれてきたことの意味なのだ!
(p16)

【423】正しいと思った方が、負けなさい(*^_^*)

2005-11-28 21:20:50 | 思索
25年くらい前の『こころの時代』の番組の話です。
仏教と縁のあった開業医の方が、ある患者さんに「誤診」を指摘された時、
自分は間違っていないと思ったのですが、「正しいと思った方が、負けなさい」というコトバを思い出して、
裁判沙汰にしないで、相手の要求に応じたという話をされていました。

その方が言われるには、裁判になれば、あれこれと思い悩むことも多いでしょうし、
たとえ勝ったとしても、嫌な思いが残る。そういう日々を送るよりは、
「正しいと思った方が、負けなさい」というコトバに従って、相手の言い分を訊いてあげたほうが、
どれだけ、自分の気持ちもスッキリとするかわからない、と語っておられました。(*^_^*)

「白光の日めくり」にも、
『いかに自分が正しくても、相手を傷つけてはいけない』という語句がありますが、
それも、同じ意味だと思うのです。

人は、どう考えても「自分の方が、正しい」と思いがちですが、
そういう時の自分の心は、案外苦しくて、窮屈なのではないでしょうか。(^^;ゞ

なぜかと言いますと、「自分は正しい」という思いは、自分中心のモノサシで測っている場合が多く、
「自分のいのち」を輝かせていないと思うのです。

「いのち」というのは、自分が自分でないときに、もっとも輝くものなのです。
ですから、自分中心の判断では、本来の自己(本心)は、輝かないのです。
他人の役に立ったときに、もっとも「自分」なのです。(*^_^*)

『負けるが、勝ち』というのは、このあたりの事情に詳しい先人が、
人類の智慧として、残したことわざかも知れません。
偉大なる先人たちですね。海外にも、これと似た格言はあるのでしょうか?(*^_^*)

【422】「消えてゆく姿」を越える(^。^?

2005-11-27 18:21:05 | 思索
本部の講師さんの10年ぐらい前の講演テープを聴きました。

講師の田中みきおさんは、奥さんが二度も脳梗塞になるというプロセスのなかで、「消えてゆく姿を、越える」という体験をされたそうです。そして、その体験のまえには、船井幸雄さんの『どんなことが起こっても、必要、必然です』という全肯定の教えを学んでおられました。

奥さんが病気になられ、入院して大変だったときに、「この経験は、私のより高い神を顕すための学びである」という啓示が降りてきたそうです。田中さんがおしゃるには、この心境は、「消えてゆく姿」を越えているそうです。

五井氏も法話の中で、「ゆくゆくは、消えてゆく姿を、越えなければいけません」と言っておられたそうで、
船井さんのコトバ(教え)に触発されて、その心境になったそうです。

いまの私の感じでいいますと、「体験」と、それに関する「思い」は、「消えてゆく姿」なのであり、
「消えてゆく姿」を摑まなければ、把われることはないと思うのですが、10年ぐらい前は、
「消えてゆく姿」をそのようなネガティブなイメージで使っていたのかなあと思いました。

今は、レベルが上がったので、「消えてゆく姿」を、スイスイと把われることなく、
やり過ごしている人たちが、大半だろうと思います。

【421】自分の生と死は、自分で選んで歩んでいるのです(*^_^*)

2005-11-26 22:07:55 | 思索
林暁宇さんの話にもあったのですが、
『死んだら何もなくなると思っている人は、いまもうすでに、無』なのだそうです。(^^;ゞ
「死んだら、自分が無くなる」と本当に真摯に考えるのなら、自分の死後のこと、
例えば、葬式とか、供養とか、墓の問題など考える必要はまったくないのです。
今を、充実させて、好きなように生きるだけのはずです。(*^_^*)
反対に、「魂は永遠である」と考えても、今を充実させる生き方を選択すると思うのです。

問題なのは、自分の死後についての解答がなくて、あやふやに生きていることなのです。
「死後」があるのかないのか解からないから、「とりあえず、お金を貯めておこう」という考えになり、
構造計算書を偽造したりするのです。(^^;ゞ

すこし、話が飛びますが、以前に紹介した【378】の『死について』を見てください。
私たちは、「自分の死は、地上における人生計画の成就だ」ということを、知らなければなりません。
自分の生と死は、自分で選んで歩んでいるのです。(*^_^*)

長生きも若死にも、事故死も犠牲死も病死も災害死も突然死も他殺も自殺も、
自分が決めたことなのです。そういう「死」を通じて、魂が急成長をするのだそうです。

人生のすべては、プロセスであり、学びなのです。
「世界」とは、お互いが学び合うための場なのです。

【420】大いなる命のなかのこの命

2005-11-25 22:42:38 | 思索
「いのち」と「いのり」は、一字違いですね。語の起源としては、同じものなのかも知れません。(*^_^*)

随分以前の「こころの時代」(NHK)で、林暁宇さんという人が、「まかせて生きる」ということのついて話していました。
番組のタイトルは『妙なるいのち』です。

若い時期に病弱だった林暁宇さんが、もっと病弱な女性の心境に出会い、「まかせる世界観」に目覚めてゆく過程が、とても興味深く語られています。

その女性の『病床にも、つとめがある。そしてそれが、うれしい』という歌は、
『神さまは、その人にしか出来ないことがあるから、命を与えてくださっている』に通じますし、

『ぞくぞくとよろこび湧きて、この朝は、早く起きけり、ひとり勇みて』という歌は、
「惰眠」をむさぼっている私には、耳が痛いコトバです。(^^;ゞ

『身が弱いゆえに、心が弱いゆえに、強く生きられる。身も心も、あてにせずに』という歌は、
自分の心身を、宇宙神にまかせきった生き方(心境)ですね。
このような心境になりますと、「世界平和の祈り」さえ、要らないかも知れません。(^^;ゞ

といいますか、「世界平和の祈り」(統一)は、全託(まかせ切る)のための「道具」なのです。
「全託(悟り)」とは、どんな時にも「統一」とひとつになっていることなのです。


具足舎主宰 林暁宇

【419】祈りのみち=知足

2005-11-24 22:42:16 | 思索
高橋佳子さんの『祈りのみち』という本を手に取りましたが、高橋さんの言葉は、私にはすっと入ってはきませんでした。(^^;ゞ
ですが、この「祈りのみち」という言葉はいいですね。この言葉のなかには、全託(御心のままに)という意味合いが、入っているように思うのです。

自分の存在そのものを「全託」して、宇宙神が望んでおられることを想い、行動するのが「祈りのみち」なのかも知れません。

『神さまは、自分にしか出来ないことがあるから、命を与えてくださっている』とか、
『神さまは、その人にしか出来ないことがあるから、命を与えてくださっている』という宇宙神の心を
信じられれば、「全託」なのだと思うのです。

それはまた、『必要なものは、すべて与えられている』(知足)に気付くことでもあると思うのです。

【418】「祈りの深さ」と還元主義と全託と

2005-11-23 22:07:17 | 思索
自分のなかでは、「祈り還元主義」という言葉が、どうも気になるので、
それを検討してみたいと思うのです。

自分の願いが叶えられないときに、「虚しさ」を感じて、
「神も仏も、あるものか」(笑)と思うことが、時にはありますが、(^^;ゞ
そういうことを、『祈りが足りない』と表現するのかも知れません。
要するに任せ切れていないのですね。(*^_^*)

この『祈りが足りない』という言葉は、自分中心に考えて、願ったことが成就することが幸せであると、
私たちが思っていることへの戒めの言葉なのです。(*^_^*)
宇宙神は、大所からみているので、違った判断をしているかも知れないのです。

『祈りの深さ』という視点からいえば、「ただ常に、祈り続けることのみ」なのです。
自分の最善を尽くし、あとは宇宙神に任せるというのが、「祈りのみち」であり、『全託(御心のままに)』なのだと思うのです。

この「祈りのみち」を、「祈り還元主義」ということはできないと思うのです。
なぜなら、「祈りのみち」は、「祈りだけをしていれば良い」とか、「願いが成就しないのは、祈りが足りないからだ」といういう祈り一辺倒の発想では、完結しないからです。つねに「祈り」と共にある「全託」が、問われるのです。
「全託」のない祈りは、「祈り」でなくて、自己本位の「願望」なのです。

ですから、本当の「祈り」は、還元主義ではないのです。

【417】朝に「統一」できない自分を、悪いとは思わない(*^_^*)

2005-11-22 21:22:48 | 思索
マンネリ(笑)なのでしょうか、朝さっと起きて、「統一」をできない自分に不甲斐なさを感じていました。(^^;ゞ
けれど、それもまた自己限定であって、本来の自分は、もっと大きな「いのちの流れ」だということに気付きました。(*^_^*)

そう気付くと、気持ちが楽になり、次の日の朝には、こだわりなく起きて「統一」(瞑想)をしている自分がいたりするのです。「~を、しなければならない」という観念のしばりは、窮屈ですものね。(*^_^*)

コトバで考えると、「統一をしなければならない」と思いがちですが、
そうではなくて、もっと自由に、「統一」に親しめばよいのかも知れません。
「いのちの働き」は、言葉以前の姿ですので、言葉で考えた判断に把われると、
「いのち」の輝きが失われるようです。

朝に「統一」が出来なかったお陰で、「把われていた自分」を学べました。(^^;ゞ
【ねむい→「統一」ができない→落ち込む】という観念による判断は、「教えに把われな」という真理に気付くためのプロセスだったのです。(*^_^*)

【416】祈りの回数と全託(^。^?

2005-11-21 21:36:02 | 「白光」の教え
田中みきおさんという講師の方のテープを聴きました。1996年1月のもので、人類印が降りる前の講演会のようです。
昌美氏が、会員さんに「○○○○(自分の名前)即神也」という宣言を、1万回しなさいという指示をされたことに対して、「回数を明示するのは、左脳的発想であり良くない」という内容の講演でした。

当時は、人類即神也の印を下ろすために、会員さんの行が必要だったので、このような指示をされたのだと思いますが、
「自分のいのち」を輝かすためであっても、回数を示されることは、確かに窮屈な感じがします。(^^;ゞ

ですが、その「自分のいのち」は、他人(人類)のために使うことによって、輝きを増すのですから、
世界平和のために苦行(笑)をするというのは、案外まとをえた「自分のいのち」の輝やかせ方なのかも知れません。(*^_^*)

それに、「回数を提示してもらえるから出来る」という側面も確かにあるのです。
「業」を中心にした習慣的な考え方から自分を解放するためには、「外圧」もときには必要なのです。(^^;ゞ

大事なのは、目的だと思うのです。昌美氏のために祈りのではなくて、世界平和のために祈ることによって
自分を高めるためというのが、祈りの回数を増やす目的なのです。

【415】脳深部刺激療法

2005-11-20 18:23:35 | 思索
脳深部刺激療法というのがありまして、コンピュータで脳をコントロールするシステムが開発されました。
その方法を使いますと、パーキンソン病やうつ病やジストニア(自分の体をコントロールできない病気)の症状を、
ほぼ完全に抑えることができるそうです。

★ うつ病が、脳深部刺激療法で治るという話は、衝撃的でした。
「病気は薬で治すのではない。薬の力を借りて、自分が治すのだ」といういうスピ系の言葉(笑)が、
ちょっと色褪せて感じられます。(汗)でも大きな意味では、脳深部刺激療法を選んだというのは、本人の
意志による選択なのですから、それも含めると、自分の運命を切り開いたということでもあるのでしょうね。

「記憶」というのは、電気信号なのだそうです。
海馬に蓄えられる「記憶」を、電気信号としてICチップに保存する実験も、マウスを使って行なわれているそうです。
そのICチップの情報は、別の再生装置(マウス?)で再生できるのだと思います。
人間の「記憶」はとても複雑な電気信号だとは思いますが、将来は、その記憶を別の人の脳で、
再生させることができるのかも知れません。
この場合の「記憶」というが、どの程度のものなのか、私にはイメージ出来ませんが。(^^;ゞ

ですが反対に考えれば、「記憶」は単なる電気信号なのですから、いつまでも「過去の記憶」(電気信号)にこだわって、今と未来の自分を限定する必要はないのでしょうね。

【414】ロボットスーツ

2005-11-19 21:59:56 | 思索
ロボットスーツは、ほぼ完成に近づいています。人間の神経の信号を読み取って、ロボットに同じ動きをさせますので、身障者は歩けますし、10倍以上の力で作業をすることもできます。

このロボットスーツが、小型化され大量生産されれば、すべての身障者に供給できますし、
「重労働」も、存在しなくなります。
いわゆる「苦」がなくなるのですから、煩悩即菩提という考え方からは、遠ざかることになりそうです。
ということは、「真理」からも遠ざかることです。(^^;ゞ

実用化に向けて、今秋には病院で試験的に導入するそうです.


ロボットスーツ

【413】脳と機械をコンピュータでつなぐ「神経工学」

2005-11-19 21:57:16 | 思索
立花隆さんの『サイボーグ技術が人類を変える』(NHKスペシャル)を見ました。
立花さんの問題提起は、興味深いものでした。

最近は、脳と機械をコンピュータでつなぐ神経工学が急成長して、
人間の脳の信号を読み取って、隣の部屋にある「機械の腕」を動かすことができるそうです。
これは、思ったこと(脳の信号)が、すぐに現実化するという事象そのものです。
また反対に、離れた所にある「機械の指先」のセンサーが受けた刺激を、脳が触覚の刺激として受け取ることができるそうです。

将来、考えただけですべての機械を動かすことのできる(脳コンピュータインターフェイス)が発達しますと、
思ったことが、実際にすぐ現実化するような社会になります。番組の中では、脳の信号だけで、カーソルを操っている身障者が、紹介されていました。脳細胞の信号を、直接読み取る技術に成功したそうです。

立花さんが憂慮しているのは、サイボーグ技術を使うことが、はたして「人間」にとって善いことなのか?
ということです。これは、哲学的な問題ですね。(^。^?

サイボーグ技術は、脳の機能を変化させ、人間の人格まで変えるかも知れないのです。
脳を変え過ぎた人間は、「人間」という種に属するのでしょうか?
個としての人格は、保たれているのでしょうか?

けれども反対に、脳とコンピュータを繋いでコンピュータを操作できるようになれば、
この世のあらゆる問題を解決できるかも知れないのです。(ロボットスーツ)

【412】ワンネスとは(^。^?

2005-11-18 22:16:45 | 思索
「ワンネス」という言葉が気になりましたので、検索してみました。
『過去と未来の思考を捨てて、今一瞬に意識を戻す時に現われている、おおいなるひとつのつながり』という意味だそうです。また、『魂の絆』マイケル・J・ローズ著(徳間書店)の前書きで、山川紘矢さんは、こう書かれています。

『ワンネスとは、「すべてはひとつである」という意味で、精神世界においては、とても重要な概念です。
本当の世界はすべてがひとつであり、過去も未来も、今、この瞬時に存在している。私たちは個人個人が分離されているのではなく、あなたは私であり、私はあなた、いや、山や海、鳥やねずみ、ニレの木も私自身である、ということです。
このワンネスの体験と概念について、マイケルほど具体的にわかりやすく美しい言葉で表現している人はいなかったのではないかと思います。非常に感銘を受けました』

また、おなじような表現ではありますが、『過去と未来の思考を捨て、今この一瞬にだけ広がっている、ひとつのおおいなる生命、もしくは生命エネルギーと一体である自分』ということも言えると思います。

もっと、簡単にいいますと、『すべての生命は一体だと気付いている自分』は、「ワンネス」の中にいるのです。

これらは、「ワンネス」の説明文ですが、定義というよりは、「悟りの心境」をあらわしている言葉だと思います。

【411】「人類」は、泥棒の自覚が必要です。(^。^?

2005-11-17 22:36:36 | 思索
高木さんが幽体離脱で得た世界観を、一言でいうと「ワンネス」あるいは、「光の世界」なのだそうです。
その「光の世界」には、時間もなく、自分もないそうで、「精神はひとつのもの」なのだそうです。

【406】でも書きましたが、環境破壊は、お金がなくなれば止まるそうです。
なぜかというと、「お金」というのは、物を金額で、分けて考えることだからです。

米も野菜も魚も肉も鉱物も、はじめはタダで、地球から授けられたものなのです。
それに値段をつけて、さもそれが当然のことのようにして、商取引をしていますが、
はじめは、全部タダだったのです。
「誰のものでもない物」に、所有という概念を当てはめているだけのことなのです。

「ウソは、泥棒のはじまり」とよく言いますが、所有が「ウソ」なのですから、
人類の歴史に「所有(私有)の観念」が入れば、真理から外れて、矛盾が起きてくるのは当然のことなのです。

人類のほとんどの悩みが、この「所有(私有)」から生じているのは、自業自得なのです。(^^;ゞ
人間は、地球に対しては泥棒なのです。地球のものを、使わせて頂くという自覚が必要です。
人間は、地球のお恵みで、生かさせて戴いている存在なのです。