「存在」について真に知ると、「自分の心」が落ち着きます。
「存在」について真に知ることは、『「存在」も「無」も言葉でしかない(存在も無も同一)』ということです。(^^;ゞ
★「存在」や「人生」を、言葉で語ることは出来ないのです。
「言葉で語ることが出来ない」のですから、「語られた言葉」に把らわれる必要はないのです。(*^_^*)
★言葉は、「分別」をして、限定するのが役目です。
「真理」は、限定できない無限なるものなので、「言葉」では語れないのです。(^^;ゞ
「言葉」で語って、その「言葉」を捨てたところに「真理の面影」(笑)があるのです。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
①「存在」とは、内面意識の「感じ」でしかありません。
「統一(思考停止)」の中で、「存在」を感じれば良いだけのことです。(^^;ゞ
②人間の価値は、「存在」です。
白光誌5月号にも『生きていることそのものが尊い』という文章がありましたが、
人間は、だた「存在する」だけで良いです。「存在」が、価値なのです。
けれどもそれは、「生存(寿命)の長さ」が、価値ということではありません。
「今、存在している。生きている。いのちしている」ことが、尊いのです。(*^_^*)
③存在すること、ただ在ることが、「創造主(神)であること」です。 「消えてゆく姿」を行じていることです。
「過去の思い」を摑まなければ、スムーズに生きられます。(*^_^*)
④病気や怪我や食べすぎ等で体が不調な時に、「この体を、止めたい。どうにかしたい!」(笑)と思うことがあります。(^^;ゞ
体調が悪い時は、「自分の体」を意識するので、「自分の体」があるように感じられますが、
体調が良ければ、「自分の体」を意識することがありません。
「体」は、意識されたり、意識されなかったりします。
★「自分の体」とは、「自分の体」という「思い」です。 「意識」です。 唯識なのですから、意識(思い・心)だけがあるのです。
「自分の体」を意識すれば、「自分の体」を感じるのです。 「在る」と感じるのです。
「思った時」に、「在る」のです。(*^_^*)
★「自分の体」という「思い(意識・心)」は、灯ったり消えたりしているのです。
寝ている時には、「自分の体」という「思い」がないので、「痛み」が無いのです。
「痛み」も、あったり無かったりしているのです。(^^;ゞ
眠っている間、「私の意識」は、どこに行っているのでしょうか?
「自分の体」という「思い」から離れていることは確かです。(^^;ゞ
私の「思い」は、夢の世界(あの世?・幽界・霊界)のリアルさを「存在」と感じて、
「消えてゆく姿」を行じているのかも知れません。
★肉体と意識は、物(被写体)と写真機(写体)の関係です。
「自分の肉体」は、「心(意識)」にとって「外界」です。
「思い」が、肉体を意識するから、「肉体」があるのです。
映しているのは、「自分の心」です。 中心は、「自分の心」です。
すべては、「自分の心」に映っている姿なのです。
「思っている姿」が、「消えてゆく」のです。
★「自他を分ける意識」が消えれば、
「他人の肉体」と「自分の肉体」という区別が消えるのかも知れません。(^^;ゞ
「存在」について真に知ることは、『「存在」も「無」も言葉でしかない(存在も無も同一)』ということです。(^^;ゞ
★「存在」や「人生」を、言葉で語ることは出来ないのです。
「言葉で語ることが出来ない」のですから、「語られた言葉」に把らわれる必要はないのです。(*^_^*)
★言葉は、「分別」をして、限定するのが役目です。
「真理」は、限定できない無限なるものなので、「言葉」では語れないのです。(^^;ゞ
「言葉」で語って、その「言葉」を捨てたところに「真理の面影」(笑)があるのです。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
①「存在」とは、内面意識の「感じ」でしかありません。
「統一(思考停止)」の中で、「存在」を感じれば良いだけのことです。(^^;ゞ
②人間の価値は、「存在」です。
白光誌5月号にも『生きていることそのものが尊い』という文章がありましたが、
人間は、だた「存在する」だけで良いです。「存在」が、価値なのです。
けれどもそれは、「生存(寿命)の長さ」が、価値ということではありません。
「今、存在している。生きている。いのちしている」ことが、尊いのです。(*^_^*)
③存在すること、ただ在ることが、「創造主(神)であること」です。 「消えてゆく姿」を行じていることです。
「過去の思い」を摑まなければ、スムーズに生きられます。(*^_^*)
④病気や怪我や食べすぎ等で体が不調な時に、「この体を、止めたい。どうにかしたい!」(笑)と思うことがあります。(^^;ゞ
体調が悪い時は、「自分の体」を意識するので、「自分の体」があるように感じられますが、
体調が良ければ、「自分の体」を意識することがありません。
「体」は、意識されたり、意識されなかったりします。
★「自分の体」とは、「自分の体」という「思い」です。 「意識」です。 唯識なのですから、意識(思い・心)だけがあるのです。
「自分の体」を意識すれば、「自分の体」を感じるのです。 「在る」と感じるのです。
「思った時」に、「在る」のです。(*^_^*)
★「自分の体」という「思い(意識・心)」は、灯ったり消えたりしているのです。
寝ている時には、「自分の体」という「思い」がないので、「痛み」が無いのです。
「痛み」も、あったり無かったりしているのです。(^^;ゞ
眠っている間、「私の意識」は、どこに行っているのでしょうか?
「自分の体」という「思い」から離れていることは確かです。(^^;ゞ
私の「思い」は、夢の世界(あの世?・幽界・霊界)のリアルさを「存在」と感じて、
「消えてゆく姿」を行じているのかも知れません。
★肉体と意識は、物(被写体)と写真機(写体)の関係です。
「自分の肉体」は、「心(意識)」にとって「外界」です。
「思い」が、肉体を意識するから、「肉体」があるのです。
映しているのは、「自分の心」です。 中心は、「自分の心」です。
すべては、「自分の心」に映っている姿なのです。
「思っている姿」が、「消えてゆく」のです。
★「自他を分ける意識」が消えれば、
「他人の肉体」と「自分の肉体」という区別が消えるのかも知れません。(^^;ゞ