『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【219】一生で使えるお金と病気は、決まっています(*^_^*)

2005-05-31 21:47:24 | 「白光」の教え
祈っていると、その時に一番必要な光を、投げ掛けてくれ、一番必要な力が、出てくるのです。

早く病気が治りたいと想っても、早く貧乏から抜け出したいと想っても、
その人に一番必要な時期や時間に、治り、お金が入るようになっているのです。

だから、今は、そのままで、「世界平和の祈り」を祈っていれば良いのです。

早く病気が治ることが良いのではなく、早くお金持ちになることが良いのではないのです。なぜかというと、「魂」にとって、その苦しみが必要だからです。

あまり早く「苦しみ」を取ってしまうと、また新たな「苦しみ」を与えられることになるのです。

入ってはいけない時に、お金が入ると無駄使いをしてしまい、後のなって苦しむことになります。

その人の一生で、「入ってくるお金」、「使えるお金」は決まっているのです。
ですから、人をだましてお金をとっても、「自分のお金」を使っているのだから、あとで足らなくなるのです。

しかも、騙して盗ったお金は、悪い想いが着いていますから、身につかないのです。自分のお金を浪費してしまったことになり、後々で困るのです。

苦しむ時には、苦しめば良いのだし、お金がない時には、お金がないので良いのです。悪いことをして、無理して盗ると、かならず摂られます。

「一生の財産が決まっている」のだから、早く摂る必要はないのです。
平均して受け取るのが、一番良いのです。

「食べるのにも困らないし、病気にもならないし、ありがたな。」というのが、一番よいのです。

「一生の財産」が決まっていることを守護霊は知っているので、配分して出そうとして、わざわざ、出さなかったりするのです。(*^_^*)

1年や2年や3年は、苦しむこともありますが、結局は、神さまが「幸せ」にしてくれるのです。「苦しみ」は、神さまの計画なのです。

「永遠のいのち」からみれば、2年や3年の苦労はなんでもないのです。すべてが終わった後には、「永遠の生命」の中に帰っていくのです。

同じ運命なら、
「おかげさまで、貧乏させて頂いて、ありがとうございました」とにっこり笑って、神さまに守られて死ねるのが、一番しあわせなのです。

途中で苦しんでも良いのです。晩年に良くなればいいのです。
途中でも苦しまないようにするには、たくさん祈ることです。

「汝の信仰、汝を癒せり」なのですから、自分の想いを、「神のみ心」に一生懸命に合わせる努力をすることによって、「心」が、平和になってくるのです。

 【特選五井先生ご法話集テープ008『生命を活かす』】

【218】守護霊がいて、何故、強盗や殺人をする人がいるのか?

2005-05-30 21:41:46 | 「白光」の教え
守護霊はいるのですが、業が厚つ過ぎて、光が通らないのです。通そうとしているうちに、悪いことをしてしまうのです。強盗や殺人をして、業が消えるのです。強盗や殺人をされる方も、前世的な因縁因果があって、そこで晴らされるのです。

強盗や殺人がいいというわけではありませんが、色々な因果が交じり合って、交流して、そこに表われるのです。

その時に、「天命が完とうされますように~」と祈れば、光がす~と、通うじていくのです。

殺人をした人が悪いのかというと、そうでもない。
悪いことをした時には、業がいっぺんに表われるだから、悪いのであって、それが消えた場合には、「いい人」であるかも知れない。法律的には、罰せられないけれども、年中、悪いことをしている人も、「ある」かも知れない。

「罪を憎んで、人を憎まず」ではないけれども、本性はみんな、神の子なのだから、表われてきた業想念が、はやく消滅するように、みんなで祈ってあげるべきなのです。

「世界中の悪い業想念が、はやく消えますように」というのが、「世界平和の祈り」なのです。

「神のみ心」とひとつになった「世界平和の祈り」だから、自分の業も一緒に、消してくれるのです。

 【特選五井先生ご法話集テープ008『生命を活かす』】

【217】汝の信仰、汝を癒せり。

2005-05-29 21:34:34 | 「白光」の教え
『信仰』とはなんでしょうか?
簡単にいうと、「肉体」を信じないで、「いのちの働き」を信じることです。

「肉体というのは、力のないものだ」と悟ると、「肉体」が活きてくるのです。

肉体の五井昌久が、ここに居るように見えるけれども、私の中に働いている力、生命力、私に宿っている霊なる力を抜いてしまったら、この五井昌久という肉体には、なんの値打ちもないのです。

表われている「肉体の値打ち」は、「肉体という観念」がないほど、「いのちの価値」が増すのです。「肉体がありがたい」のではなのです。(^^;ゞ

「神の響き」を、たくさん出せる人が、「価値のある人」なのです。
イエスさんや、お釈迦さんは、そういう「働き」だから、ありがたいのです。

いかに、「肉体人間としての思い」を無くしてゆくのかが、大切なのです。
「表われてくるあらゆるもの」に感謝できるのなら、「宗教の極意」に達しているのです。「悟っている」のです。

それでも、嫌いなものや好きなもの、嫌なものがあるでしょう。そのあるものは、「消えてゆく姿」ですよというのが、私の教えなのです。簡単でしょ。

「神さまの響き」に波長に合わせると、業(カルマ)が、少しずつ消えてゆくのです。大難は小難になり、小難は無難のなるのです。これは、『宇宙の法則』なのです。

 【特選五井先生ご法話集テープ008『生命を活かす』】

【216】守護霊と守護神について

2005-05-28 21:56:47 | 「白光」の教え
★守護霊は、祖先の中の浄まった霊だそうで、一人に数人が付いています。
守護神は、民族や国家レベルのカルマに対処する霊的存在です。守護霊の生みの親でもあります。

正守護霊は一人ですが、副守護霊は3人います。それで、国家的なことや、社会のためになることを、純粋な動機でする場合には、副守護霊の数が増えることもあります。

★ 肉体とは、神さま(生命エネルギー)に使われている場であるのですから、エゴの自分が偉いと思ったときには、肉体が神さま(生命エネルギー)に使われているのだということを、忘れているのです。

ですから、「肉体の自分は、決して偉くはない。」ということを、肝に命じておかねばなりません。

他人に対して、いい言葉を言ったときにも、
「ああ、いい言葉を言わせて下さって、ありがたいな。」
「ああ、こうやって、私にも教えてくださるのだ。ありがたいな。」と
思わないといけないのです。

 【特選五井先生ご法話集テープ007『愛なる神々』】

【215】「愛の神」の証明は、言葉では出来ないのです。

2005-05-27 22:10:56 | 「白光」の教え
「宇宙神」は、絶対なる「一」ですが、全体像は、釈迦にも、キリストにも誰にも、分からないし、説明はできないのです。分かるように説明することは、だれにも出来ないのです。

「愛の神」の証明は、自分の「愛の行ない」で示す以外にはないのです。
言葉で、「愛の神」を説明して、分からせることはできないのです。

宇宙神とは、全宇宙を主催している大権能力者であり、大生命ですが、宇宙神を証明することはできません。

子供に、「神さまって、いるの?」と聞かれたら、
「いいことをした」と思うでしょ。それが神さまなのよ。(*^_^*)
心臓が動いているでしょ。それが神さまなのよ。(*^_^*)
花が咲いているでしょ。それが、神さまなのよ。(*^_^*)
と教えればよいのです。

「神さま」は、言葉では説明できないのです。
神さまは、「いのち」であり、「いのちの働き」なのです。

 【特選五井先生ご法話集テープ006『実在への道』】

講演会(無料)のお知らせ【「白光誌」6月号より】

2005-05-26 22:55:46 | 講演会のお知らせ
5月28日(土)奈良県文化会館2階 【13時半~17時15分】
5月29日(日)市川市市民会館第二会議室 【13時15分~17時】
6月5日(日)倉敷市芸文館アイシアター 【13時~15時半】
6月5日(日)山形国際交流プラザ4階 【13時15分~17時】
6月19日(日)プラザ文化センター新潟8階 【13時15分~17時】
6月19日(日)北海道立道民活動センタービル4階(札幌市)【13時~15時】
6月25日(土)茨城県立県民文化センター分館1階 【13時15分~17時】
6月26日(日)郡山市市民プラザ7階 【13時15分~17時】
7月10日(日)秋田市文化会館 5階大会議室 【13時~15時半】
7月17日(日)仙台国際センター 2階大会議室 【13時~15時】

     問い合わせ先 0544―29―5210
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「白光フォーラム」とワークショップ(マンダラと印の練習) (13時~

6月26日(日) コンパルホール(大分市府内町) 4階視聴覚室
6月26日(日) 松山市民会館 2階第3会議室

【214】統一とはどういうことか?

2005-05-26 22:20:16 | 「白光」の教え
統一というのは、精神統一ではないのです。人間のいのちは、宇宙神から来ていますから、その「神さま」の中に統一するのです。「一」なるものに、すべてを任せるのです。それを「統一」というのです。

どのような気持ちになった時に、統一なのかと言うと、分別心があれば、「統一」は出来ていないのです。

「想う」のはしかたないけれども、「祈り」の中に消しなさいということなのです。たゆみなく、「世界平和の祈り」をすることが、大切なのです。

「統一」とは、日々瞬々の行(ぎょう)なのです。
そして、多人数で祈ると、「統一」が深くなるのです。

 【特選五井先生ご法話集テープ006『実在への道』】

【213】願わなくても、与えられるのは、「私自身」!(^^;ゞ

2005-05-26 22:18:13 | 思索
考えてみますと、願わなくても、与えられるのは、この「私という意識」や、「体」なのでは、ないでしょうか?(^^;ゞ

私という意識も体も、宇宙神に与えられ、その恵みの中で生かされているのに、「ああなりたい。こうなりたい」と、わがままな子供のような私たちなのですね。

【212】願わなくても、与えられる。(*^_^*)

2005-05-25 21:51:19 | 「白光」の教え
【212】願わなくても、与えられる。(*^_^*)

「行と効果」についてですが、中澤秀雄さんのお話が、参考になると思いますので載せます。
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「いいとか、わるい」とか言いますが、誰が言っているのでしょうかね。(^^;ゞ

神さまは、人間のやっていることに、一切の評価を下さないのです。これは確かなことなのです。私たち人間が、自分で評価を下しているのです。

例えば病気を通して、心の中の葛藤が消え、平安な気持ちになれたら、病気は霊性開発にとって、プラスであったことになります。

最終的にそのことが、良かったのか、悪かったのかは、死ぬ時にしか分からない。

私たちが、「よいとか、わるいとか、想っていること」が、邪魔なのです。(*^_^*)

守護霊さんが、私たちを霊性開発に導いてくれているのは、間違いがないのです。その途中で起きてくることは、すべて本心や霊性を開発するためのプロセスなので、本来そこには、「悪い」ということはないのです。

ただ、私たちが、肉体的な狭い視野で見ているので、よくなるためのプロセスであるということがわからない。それで、「よいとか、わるいとか」考えてしまうのです。

それは、私たちの意識(眼)が、3次元の世界に把われているからです。3次元の世界にいるから、先が見えない。このプロセスを通って、必ず良くなるということが、分からない。

これが分かったときが、霊性開発なのです。本心は、4次元から見ているのです。

★ 『必要とされているものは、必ず与えられる。願わなくても、与えられる。』(『霊的存在としての人間』五井昌久著)なのです。

いまさら、願望成就を願わなくても、自分の霊性が開発されれば、自ずと与えられるのです。

そして、『霊性開発』とは、無限の赦しと、愛を目指して、「世界平和の祈り」をすることなのです。

【中澤英雄大阪支部講話会(平成13年6月24日)】
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■効果を信じて、ただ、行じる(自分を無にする。生かされているいのちに、徹する。)ということが、大切なようです。(^^;ゞ

【211】「7つの場」の効果で、売上げアップ?(^^;ゞ

2005-05-24 21:35:21 | 「白光」の教え
富士聖地の中に「7つの場」という場所があり、22日は、ある企画をやっていました。自分の気になることを紙にかいて、「消えてゆく姿」にする方法でした。
多くの方々が、熱心に書いておられました。(*^_^*)

私は「売上げが気になる自分」を、「消えてゆく姿」にしたいと思い、書いた紙を炉の中に入れ、燃え尽きるのを確認して、「世界平和の祈り」を唱えました。(^^;ゞ

それで、私の「売上げの気になる業」が切れたのかどうか分かりませんが、昨日と今日は、とてもよく売れました。(^^;ゞ

と言いますか、「売れる売れない」にこだわらないので、事態がスムーズに流れている感じです。

でももし、売上げの少ない日が続くと、たぶん私は、売上げに把われ始めると思います。(^^;ゞ

★そうしたらまた、「消えてゆく姿」ですね。(^^;ゞ

■「7つの場」では、宇宙究極のエネルギーを受けながら、所定の行を行なうことにより、自分の神性が開かれ、人類を真理に目覚めさせるための働きができる………と、されています。


「7つの場」

【210】「業の強い妻」は、最高のパートナー?(*^_^*)

2005-05-24 21:33:40 | 思索
これもM・Sさんから聞いた話なのですが、例えば夫婦の一人が、業が強い場合(我が家のことです(笑))、その業の強い人が悪いということではなくて、一人が表わした業を、「もう一人が浄める」と考えれば、とても良いパートナーとして、「お浄め」が出来ていることになるのだそうです。(^^;ゞ

夫婦一組になって、自分たちの業(カルマ)を浄めることにより、人類のカルマを浄めていることにも、なるのだそうです。

これを聴いて、なるほどと思いました。(^^;ゞ

浄める方法とは、例の『他人の愚痴を、「世界人類が平和でありますように!」と言いながら聞く』という方法です。(^^;ゞ

【209】妻の愚痴を、光に変える方法(*^_^*)

2005-05-23 22:20:01 | 「白光」の教え
「白光」の日めくりに、『人の話を、心からきいてあげられるように、なることです』という言葉がありあますが、こういう場合も、相手の想念に巻き込まれては、いけないそうです。そんな話をM・Sさんから聞きました。

人の愚痴を聞くときに、耳で聞かないで、胸で聞くようにすると良いそうです。そして、相槌をうたず、黙ってニコニコとして、「世界平和の祈り」をしながら聞きますと、疲れることもなく、相手の想念が、自分を通ることにより、光に変わるそうです。このことを、「浄める」と言うのだそうです。

多くは、人の話を聞く場合、相手の想念(言葉)に同調してしまって、その「想い」の波に巻き込まれるのです。OSHOの講話にも、「相手の話を、言葉としてでなく、音として聞く」というものがありましたが、同じことだと思うのです。

試してみましたら、わりと使える方法でした。(*^_^*)

M・Sさんは、「白光」の講師さんです。私の拙い絵をたいへん気に入ってくれて、それがご縁で、松原市のお店に数回来られ、とても貴重なお話を、色々と伺いました。

M・Sさんの経験では、「世界平和の祈り」を唱えながらだと、8時間歩いても、疲れないそうです。それにたぶん、菩薩食をされていて、自分を浄めておられるので霊性が高く、『人は食べなくても生きられる』の山田鷹夫さんと同じような体になっているのだと思います。

私も体重が、54キロになりました。あまりに極端に減ると恐いので、今日は少し食べましたが、「空腹感」は、まったくありません。

昨日は、富士聖地に行きましたが、35時間位は、飲料水以外は口にしませんでした。

【208】「世界平和の祈り」に効果はあるのか?

2005-05-22 23:26:02 | 「白光」の教え
「世界平和の祈り」は、誰が祈っているのでしょうか?
もちろん、祈っている人が、祈っているのですが、その祈り心は、誰のもので、どこからやって来るのでしょうか?

「世界人類」の『世界』とは、あらゆる存在を差しているそうです。つまり、時間や次元や空間に関わりなく、今、この宇宙に存在する森羅万象すべてのことです。

『人類』とは私たちのことです。どのように定義できるかというと、「自分の体と想念で、外界を創ったり、造り替えたり出来る能力を持った存在(神の子的存在)」なのだそうです。

そういう、『世界人類』が「平和であれ」という呼びかけは、「神の子的存在(=人間)」に対して、働き掛けが出来ると知っている「心」からしか、生まれてこない。

つまり、「世界人類が平和でありますように!」という言葉は、神の発する言葉だということになるのです。

そうすると、「凡夫の人間」が、祈るのではないということになる。
「世界平和の祈り」は、「神のみ心」が祈っているのです。(*^_^*)

「神のみ心」が祈っているのだから、効果はあるでしょうし、それ以前に、
『「世界平和の祈り」には効果があるのか?』という問いを越えているのです。


凡夫の私でも、「世界平和の祈り」を祈れば、「神のみ心」が、そこに働くのです。

「世界平和の祈り」一念なのです。(*^_^*)

【207】私たちは、風呂屋の三助さんなのです。(^^;ゞ

2005-05-21 04:46:15 | 「白光」の教え
病気は、「消えてゆく姿」なのです。痛みや熱は、異常を知らされるためのシグナルであり、自分の体を良くしようとしているのです。

ですから、痛みや熱はいけないものではなくて、体をより調和した状態にするためのものなのです。病気の症状は、「消えてゆく姿」なのです。

私たちは、肉体だけではなく、心(意識)を持っている存在です。心にも、「調和しよう」という動きがあり、人間というものは、心も体も調和した状態に、成りたがっているのです。

宇宙というのは、「物」だけで出来ているのではなくて、「精神」によっても出来ている。「宇宙」は、よこの物質波動と、たての精神波動が、その交差(調和)の上で成り立っているのです。

人は、体が健康であると同時に、心も健康でありたいものなのです。

「健康な心」とは、明るいとか、思いやりが深いという心です。それに対して、人を騙そうとか、いじめようとか、ゴマかそうというのは、「不健康な心」です。

不健康な心の人の極端なのが、犯罪を犯す人です。
それで、心が健康でない人が増えますと、その社会は乱れ、多くの人が不幸になります。

反対に、「健康な心」の人が多く、みんなが明るく、思いやりがあって、生き生きと暮らしている人々の社会は、みんなが幸せになれる、良い社会なのです。(*^_^*)

人間の体と心は、宇宙の法則が、調和へと向かう動きの中にあるのです。
健康になろうとするから、嫌な物を「消えてゆく姿」として出すのです。

心の中に不調和な想いがあれば、心の健康が保てないので、自分の心の中にある不調和なモノを出そうとするのです。

「不調和」とは、体の場合は病気ですが、心の場合は、さまざまなトラブルに起因する苦しみや、悩みです。

そういうトラブルは、体の不調と同じように「辛い」のですが、そのトラブルを通して、自分の心の中に積み重ねてきた、なんらかの不調和な想いを、形に表して、消しているのです。

トラブルは辛いけれども、それを通して、私たちは、より健康な自分に向かっているのです。

その時に大切なことは、それを押さえようとしても、押さえることは出来ないので、自分の中の生命力を使うことなのです。

人生の問題については、一般的な処方箋はないのですが、宇宙の法則(調和)に、自分の本心を沿わせると、解決するのです。

トラブルによる悩みや苦しみは、自分がより良くなるための、
より立派な人間になるための、より幸せな自分になるためのプロセスであり、やがては、すべて消えるだから、恐れることはないのです。

そのように思えれば、「調和の流れ」に沿っていることになるのです。

専属の、守護霊さんというお医者さんに頼んで任せておけば、一番よい方向が、自ずと出てくるのです。その任せる方法が、「世界平和の祈り」なのです。

なぜなら、「世界平和の祈り」というのは、宇宙神の御心、宇宙の法則(調和)そのものなのだからです。(*^_^*)

体も心も宇宙も、調和の方向に向かっているのだから、体も心も調和の法則に乗ってしまえば、整ってきて、良くなるのです。

調和の方向から外れているから、私たちは苦しむのです。それを「世界平和の祈り」によって、調和の方向に向けるのです。

印やマンダラも、「世界平和の祈り」と同様に、人生の問題に効く、強力な薬なのです。(*^_^*)

生活の中に、「世界平和の祈り」や印やマンダラを取り入れますと、自分の想いが、調和の方向に整い、それが同時に、世界全体の調和にも寄与することになり、世界を平和にすることが出来るのです。

人類の積み重ねた業想念のあやまちが、形となって表われて、戦争や事故に事件になるのです。浄める力が、人類の悪しき業想念に負けてしまうと、人類は滅んでしまうのです。

私たち個人のマイナスのカルマを、「世界平和の祈り」で浄めることにより、そのカルマと同じ波動の、人類のカルマを消しているのです。

ですから、私たちのカルマは、単に個人の問題ではないのです。
個人の問題と人類の問題は、無関係ではないのです。私たちの争いの想いを、祈りに切り替えることが出来なければ、世界の混乱を助長させてしまうのです。

逆に、私たちが自分のトラブルや混乱を、祈りに変えることができ、光に変えることが出来れば、個人の因縁を浄化すると同時に、「人類の憎しみ」を消してゆく働きになれるのです。

私たちは、「波動変換器」なのです。個人の波も、人類の波も、全部交差して、私たちを通っているのです。よこのカルマの波を受けたものを「世界平和の祈り」によって、たての神さまの光の中に投げ入れることにより、人類のカルマを浄化するのです。

私たちは、カルマを浄化する、「風呂屋の三助さん」なのです。(^^;ゞ

【中澤英雄大阪支部講話会平成15年1月26日】より(文責・知足)

【206】結果を求めて善をなすことは、偽善である(無為と愛)

2005-05-20 21:58:55 | 「白光」の教え
『結果を求めて善をなすことは、偽善である』
偽善にならないように、「善をなす」のは、難しいそうです。(^^;ゞ

この「偽善」というのは、『作為のある善』とか、『良い事をしなければならないと思ってする善』のことなのだそうです。

「善悪に把われている心」は,自由でないということですね。(^^;ゞ

同様に、『見返りを期待した愛は、本当の愛ではない』という言葉もあります。

金銭や物品を与えたとしても、「してあげた」のではなくて、「差して頂いた」という気持ちが大切なのだそうです。「お礼の言葉」を期待しては、いけないそうです。(*^_^*)

「相手の本心を開き、相手のいのちが、輝きますように」と思ってする行為は、自分のいのちを、輝かせるのです。そういう時、「無為にして、為す」になっているのだそうです。

「○○さまの天命が、完とうされますように!」という気持ちから出た行為が、「無為」なのであり、「愛」なのですね。

「自分のいのち」が愛を行なうために、愛を行なうのが、「本当の愛」なのです。

「自分のいのち」を、他人のために活かすことに徹すると、「二元対立」を越えて、「個を生きる」ことが出来るのです。(*^_^*)

相手のいのちを輝かせる行為が、同時に、自分のいのちを輝かせるのなら、素晴らしいですね。