『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

■■ 【楽しい絵たちとアート・マンダラ展】■■

2006-12-31 05:34:13 | 私の彩墨画
 来年の1月に、個展をします。お気軽にお立ち寄りください。
★★優しい笑顔で、お待ちしています。(*^_^*)★★

1月4日(木)~8日(月) 午前10時~午後6時
アリスにて開催【大阪府松原市阿保3-5-3】
(近鉄南大坂線・河内松原駅下車・南へ徒歩5分)
   連絡先・【アリス(072-335-0016)】

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松原市阿保【地図中のローソンの裏です】(大阪老人ホーム新生苑さんに駐車可)

【876】この世はテーマパーク。長生きは、簡単なこと。(*^_^*)

2006-12-31 04:52:30 | 思索
今年も最後の一日となりました。今年は、記念すべき、すごい年でした。(^^;ゞ
内面も状況も、大きく変わった感じです。

二人の孫が出来て人生観が変わり、「白光の教え」に触れて、いままでの探求が実を結び、
今年はまさに、収穫の時期でした。(^^;ゞ

私の人生を振り返ると、「なるほど、こういう人生だったのか」と合点がいきます。
ピラミッド神事での経験も、大きかったです。(^^;ゞ
自分の人生で、このブログ日記と、朝の「世界平和の祈り」が習慣なるとは、思っていませんでした。(^^;ゞ

これからはず~と、日常のなかで「祈り」を欠かさずに、
守護霊さまにすべてをお任せして生きてゆけばよいのですから、気楽なものです。(^^;ゞ

そう思ったときに、
『長生きは、簡単なこと。息をし続ければよいのだから』という言葉が浮かびました。(^^;ゞ

天地によって生かされている「いのちとしての自分」。

食べることにしろ、住むところにしろ、自分への供給が途絶えたら、潔く死を迎えて、
「守護霊さん、世間の皆さん、色々とありがとう御座いました」と言って、
魂の故郷(ふるさと)に戻ってゆけばよいのですから、お互い誰でも、気楽なはずなのです。

神さまが、必要だと思っている間は、生かしてくれます。(^^;ゞ
この世は、いろいろな経験をするためのテーマパークなのだと気付いたのです。(^^;ゞ

来年もよろしく、お願いします。(^^;ゞ

【874】「愛」と現代の若者と「こどもの反乱」と

2006-12-29 17:45:32 | 思索
他人を愛し、物を大事にすることで、豊かな人生を送れるのは、自分自身なのです。(^^;ゞ
自分の心を愛の想念で満たすと、自然に「愛」が他人に流れてゆきます。
この方法のひとつが、「世界平和の祈り」のようです。(^^;ゞ

いまの若い人たちの多くが、人生に希望を抱けないと思うのは、高度成長時代後で、
物質が豊かになり過ぎたという状況にあるからだと思うのです。

欲しい物が、造作なく手に入ってしまうので、手に入れるまでのプロセスが楽しめませんし、
手に入れた充実感もすくないので、自分が何をしたいのか(天命?)がわからなくなっていると思うのです。

先日の、NHKの『ニートを支援するNPOの番組』をみて、そのようなことを感じました。

その点、私たちやその上の世代は、幸せだったと思うのです。(^^;ゞ
物質的な豊かさを追求することと、自分の生きがい(人生の意味)の追求を共通なこととして語り得たからです。

けれども、いま考えると、それは問題が見えなかっただけであって、
家庭内では、子供の反乱が始まっていたのでした。

不登校や家庭内暴力という、真理に気付くためのプロセスが、表れ始めていたのです。

【873】愛するのは、自分のため(^^;ゞ

2006-12-28 21:27:46 | 思索
自然に、他者を愛することが出来れば良いのですが、
はじめのうちは、「愛する努力」が必要なのかも知れません。(^^;ゞ

まずは、『他人に意識を向ける』ことが大切です。
他人が、どのような「心の状態」であるのかに、注意深いことが大切です。

「他人」とは、自分の思いの投影なので、自分の思いを変えれば、
作り変えることができるのです。

「過去」は、終わったことであり、「想念」ですから、実態はないのです。(^^;ゞ
済んでしまったことを悔やんでも、仕方ないのです。(*^_^*)

今のこの瞬間から、『他者を愛する想念』に切り替えることによって、
人生を、豊かで調和のあるものにしてゆけるのです。

まずは、もっとも身近な人のために、自分に出来ることを、一生懸命にすればよいのです。

【872】愛されるよりも、愛したい(*^_^*)

2006-12-27 21:38:01 | 思索
「逆転の発想」を、自分に取り入れるということは、
『愛されるよりも、愛する』という決意をすることだと思うのです。(^^;ゞ

誰かに愛されることは、気持ちが良いことなので、
人間が「愛されたい」という欲求を持つのは分かるのです。

けれど、ここはひとつ「逆転の発想」をして、(^^;ゞ
『自分は他人を、愛するために生まれてきた』と考えて行動すれば、
自分の人生をより充実させて、楽しく生きられると思うのです。

これが、哲学的な『善く生きる』ことの意味だと思うのです。

問題は、自分の「愛そう」という決意なのです。(^^;ゞ

【871】逆転の発想(^^;ゞ

2006-12-26 21:56:44 | 思索
「逆転の発想」だと思うのですが、(^^;ゞ

普通、人は自分の利益のために行動をしますが、
それをやめて、自分は他人を利するために行動をするのだと決めると、
色々な気づきがあって、ずいぶんと楽な生き方(笑)が出来ます。(^^;ゞ

自分中心に考えていると、「うまくいかなかったら、どうしようか?」という思いが、
ストレスになることがありますが、
他人を利するための行為ならば、私が失敗して困るのは自分ではなくて、
「相手さん」が得をしなかっただけということになるのです。(*^_^*)

たとえば、私が「世界平和の祈り」をしなくて、損(?)をするのは「人類」なのです。(^^;ゞ

私と宇宙が一体であるのなら、
私が、自分のために、特になにかをする必要はないのですから、
人事さえ尽くしていれば、「神様に、任せっぱなし」で良いのかも知れません。

【870】「祈り」は、霊エネルギーの放射と放出

2006-12-25 21:47:12 | 「白光」の教え
本物のボランティア活動とは、霊エネルギーの放射、放出をすることなのだそうです。(^^;ゞ

奉仕活動というと、自我のこの肉体がジタバタすることだと思っていますが、
それは、霊的なことを知らないからです。

三次元的な援助では、究極的な「助け」にはならないのです。
というのは、ボランティアを受けた人たちが、はじめのうちは感激していますが、
慣れてくると、文句を言い出したりすることに、表れています。

誰であろうと、自分の力で難関を乗り越えてこそ、魂が磨かれるのです。

ですから、相手の天命が完うされるように祈り、
霊的生命エネルギーを放射、放出することが、本当のボランティアなのです。

肉体のボランティアは、決まった何十人しか相手にできませんが、
あなたから放射、放出されるエネルギーは、全世界への奉仕活動なのです。

肉体的なボランティアは、有限の奉仕であり、
霊的なボランティアは、無限の奉仕なのです。

私たちが、瞑想や「統一」をして、自分は「神(全体性)」なのだという波動を感じ、
自分の体を通して、「神」のバイブレーションを世界中に放出する。
それが、本当のボランティアなのです。

肉体的にジタバタするボランティアでは、世界は永遠に「平和」にならないのです。
人間は、自分の内なる力で、自分の心を「平和」にしなければならないのです。

各人が、「宇宙は、もともとひとつだ」と気付くことによってしか、世界は「平和」になりません。
他人からの物質的な援助で、人の心は「平和」にならないのです。

5分間だけでも、「統一」をするほうが良いのです。

現象の肉体人間を、相手にしないで、
自分の頭脳を駆け巡る想念を、相手にしないで、「統一」をすれば、
人類の想念の大海原に影響を与えることができます。

そして、その影響を、世界中に広げ、伝えてゆくことができるのです。

「統一」(瞑想)なくして、真の自己完成も、「平和」もないのです。
            (以上、昌美氏の法話をまとめました)

【869】「祈り」は、最高のボランティア (*^_^*)

2006-12-24 06:50:07 | 「白光」の教え
「祈り」は、最高のボランティアなのだそうです。
実際に体を動かして、具体的に他人を助けるよりも尊いことであり、
陰徳を積むことなのだそうです。

私にはまだ、これが信じられないのです。(^^;ゞ
私のささやかな体験でも、
やはり、実際に体を動かした人助け(ボランティア)は、気持ちが良いのです。

けれども、こういうボランティア行為では、
「自分の快感」を求めてしまいがちなのが、問題なのかも知れません。

この、私の解り難さは、
「祈りが、世界を支えている」とか、「すべては、思いである」という真理を、
私が体験できていないからかもしれないと、思っています。

ですが、「祈りが、大切」というフレーズは、実践する上では、とても楽です。
ただ、祈っていれば良いのですから。(^^;ゞ

でも、「世界平和の祈り」をしていると、この「祈り」だけが、大切だということが少しずつわかってきます。
三次元の現象に、一喜一憂しなくなり、腹が据わってくるように思えるのです。(^^;ゞ

 ■■ 【楽しい絵たちとアート・マンダラ展】■■

2006-12-23 04:42:38 | 私の彩墨画
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【868】毎日、「お祈り」をしなくてもよい(^^;ゞ

2006-12-22 21:45:27 | 宗教的思索
「言葉」に把われないために、ときには、反対のことを自分に言ってみるのもよいかも知れません。
たとえば、『毎日、「祈り」をする必要がない』とか。(^^;ゞ

というのも、「理想のイメージ」に把われると、「自分のいのち」が輝かなくなるからです。

そして、祈りたくなったら、祈ればよいのです。

初心者のころは、「毎日、祈らなければならないのか?」(笑)と思ったものですが、
「祈り」の味(快感)を知ると、祈らないではいられなくなります。(^^;ゞ

『オーラの泉』で、江原さんが、「あなたは、演劇をするために生まれてきたのですよ」と、
出演者によく言っていますが、私の場合は、「祈るために」生まれてきたという気がするのです。(^^;ゞ
なにか、自分に合っている気がするのです。

私の守護霊さんは、私の祈り易い環境を整えてくれていると思うのです。
私の心が、心配でいっぱいにならないように、必要以上の災難が起きないように整えてくれていると思うのです。

【867】人は、『言葉』の意味を生きている

2006-12-21 21:47:20 | 思索
このごろ、つくづく考えることは、「言葉のイメージで、他人や自分を判断して、責めてはいけない」ということです。

人間は、『言葉』で生きていることに、気付かなければなりません。(^^;ゞ
一般的に、人間は『言葉』によって傷つき、『言葉』によって救われる存在なのです。

『言葉』には、その人の『こころ』のことです。
『言葉』とは、その人自身のことです。

【人は言葉が財産であるなど、まさか思いもよらない。
しかし、言葉が財産、自分の価値であるということは、その人の話し言葉を聞けば、その人の価値は瞭然だという事実に明らかである。正しい言葉を話す人を、正しい人だと人は判断し、くだらない言葉話す人を、くだらない人だと人は判断する。

人が人を、その「価値」を判断するのは、その話す言葉以外の何ものにもよっていない。
言葉と人は、完全に一致しているのである。】(『知ることより考えること』p85)

★ 言語の違う国に生まれていたら、私は、私ではないと思うのです。
『言葉』とは、自分自身であると思うのです。

ありふれたフレーズですが(笑)、『言葉』を大切にしましょう。

『言葉』を大切にすることは、自分自身を大切にすることですから。(*^_^*)

【866】神の世界は、「統一」の世界

2006-12-20 22:23:46 | 思索
「神の世界」は、言葉で語れるものではなくて、「感じる世界」だと思うのです。
人間は、言葉を得ることによって、コミュニケーション能力が増し、成長すると思われていますが、
それは、目先の成長に過ぎないのです。人間としての真の成長ではないのです。

「神の世界」は、「統一」のなかにあると思うのです。
自分の思いを捨てて、「統一」をすると、「自分」に把われない解答が、「すっと、降りてきます」。(*^_^*)
これは、体験してみないと分かりません。

「統一」とは、迷っている自分を、守護霊さんが浄めてくれることなのです。

思考を停止すると、自我が消え、守護霊さんのアドバイス(指示)が、聴き易くなるのです。

【865】「世界平和の祈り」が、世界を支えている(^。^?

2006-12-19 22:37:51 | 思索
昌美氏が、『「世界平和の祈り」が、世界を支えている』という法話をされていて、
それが信じられなかったのですが、先日、永安氏の講和テープを聴きまして、合点がいきました。(^^;ゞ

①私の中には、すべてがある。
 私の中に、宇宙創造以来のすべてがあることは、「事実」です。(^^;ゞ
「私」はそういう状況のなかで、「存在」しています。

元素だった時期(?)を経て、無機物になり、生物の時代を過ごして、
少しづつ進化しながら、人間という意識体のこの「私」が、いま、ここにいます。

②そして、その「意識」が、「宇宙」を認識しています。

この「意識」が、「宇宙」を考えることができるということは、凄いことでして、
人間の「意識」がなければ、「宇宙」はない。つまり、
「私」が居なければ、「宇宙」はないということなのです。(^^;ゞ

③それで、世界の平和を祈る人の「思い」があってこそ、
宇宙の平和が保たれているのです。

「世界平和の祈り」が、多くの人の心にあればあるほど、
「世界の平和」は、安定するのです。

④ ですから、『「世界平和の祈り」が、世界を支えている』というのは、
 「事実」なのです。およそ、すべての人が、自分の欲望を満たそうとしたら、
 地球環境は、物理的に破壊されてしまいます。

「世界平和」を思うことによって、世界は平和になっているのです。

昌美氏の法話は、自分のなかにそういう「聖なる思い」を積み上げましようという話なのです。(^^;ゞ

【864】哲学的に考えれば、因果関係はない

2006-12-18 22:18:39 | 哲学的思考
「意識」は、いかに外界を認識しているのか?
そして、その認識は、人間なくして、ありえるのか?

科学的な見方もまた、人類の共同幻想なのではあるまいか?
「主観即客観」という精神世界系が提唱する世界観は、人類の共同幻想に気付いた立場からの哲学的発言なのだと思う。

科学的な考察(3次元的な原因と結果の因果関係)とは、相容れない立場であると思われる。

『脳内の 客観的物理的過程が、どうやって主観的意識経験を生み出すのかと、
科学者は、もう長いこと悩んでいる。しかし、主観と客観というこの構図自体が誤りなのだから、
こんな問いに答えはない。

「 客観的に説明すれば」、これこれの物理現象であり、「主観的に経験すれば」、これこれの意識経験である。
同一の事象をどちらの側から見るのかという違いであって、そこに因果関係はないのである。

「哲学的に考えれば」、そこに因果関係はないのである。
しかし、世の人は、科学がそう言うものだから、それを因果関係で見てしまう。
そのほうがわかりやすいということもある。』(『知ることより考えること』p151)

【863】思ったことが、結果として現れる(*^_^*)

2006-12-17 19:31:03 | 思索
波動注意報さんの「ご飯に声かけ実験01」を見ました。綿密な実験で、すごいと思いました。(*^_^*)

私も「ご飯に声かけ実験」をしようと思っていたのですが、こんなに科学的な方法は、考えていませんでした。(^^;ゞ

そして実験の結果は、「有意な差は、認められない」ということのようです。

ただ、ちょっと水を差すようで、悪いのですが、(^^;ゞ
うがった見方(?)をしますと、実験者の「有意な差は、認められないはずだ」という思いが、
実験結果に現れたとも考えられるのです。(^^;ゞ

「この世は、すべて思いが形に表れたものだ」ということが真実なら、
そういう解釈もできると思うのでが、どうでしょうか?
 
そして私が、この3年間で白光さんから学んだのは、そういう世界観なのです。(^^;ゞ

白光の人に、「ばかやろう」という言葉をかけて黒カビの生えたご飯を見せてもらったことがあるので、
とりえず私も、「変わるはずだ」という思いで、実験をしてみようと思っています。(^^;ゞ


「ご飯に声かけ実験01」