『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【16】今の自分で、ちょうどいい

2004-11-30 22:06:18 | Weblog
「知足」を、別の言葉でいえば、『今の自分で、ちょうどいい』(相田みつおさんの言葉)と言うことになります。ただ、どのような状況でも、こう言い切るためには、余程の修行が要ります。(^^;ゞ

良寛さんの言葉に
『災難にあう時には、災難にあうのがよろしく候』という言葉がありますが、
これなども、「大受容」の言葉ですね。

哲学的にも、霊的真理的にも、精神世界的にも、『今の自分でちょうどいい』というあり様は、人間の本当の姿のように思います。

「白光」では、「神さま、ありがとうございます」という言葉を、よく耳にします。この「神さま」というのは、人間と対峙する人格神としての「創造主」ではありません。「白光」は、精神世界系なのですから、この「神さま」は、「内なる神性」のことです。

その「内なる神」の具体的な一つの形は、「肉体」です。「肉体」は、神(創造主)によって創られているのですから、肉体には、「神の働き」が現れているのです。

ですから、「神さま、ありがとうございます」は、
「肉体さん、ありがとうございます」という感謝の言葉と同義です。

【15】白光真宏会について

2004-11-29 22:16:41 | Weblog
「白光真宏会」という団体のことを,私なりに、少し書きます。
一般の感覚で捉える「宗教団体」とは、ちょっと違った趣があります。(^^;ゞ

規模はちがいますが、以前に入会していた「ヴィパサナ瞑想会」という感じです。出席は自由ですし、先生の法話を聴かせてくれて、私の質問には、なんでも答えてくれます。会費も同じ額です。(^^;ゞ

『世界人類が平和でありますように』というステッカーやポールを、ご覧になったことがあると思いますが、
その「平和の祈り」を提唱しているのが、白光真宏会という団体です。

私は、その白光真宏会の維持会員になって、一年足らずです。
何をするのも、自分の意思で自由に行うことが原則ですので、なんの制約もありません。ただ、「平和の祈り」を祈り易い環境を作りやすくするために、会員が力をあわせているという感じです。(これも、「瞑想会」と似ています)

白光真宏会というのは、社会的には、宗教団体ということになっていますが、
教祖も、本尊も、社殿も、階級もなく、ボランティアによる陰徳で成り立っている団体です。

それで何が、目的なのかと言いますと、各個人の中の「神性」に気付き、その「神性」を現わして行こうということなのです。

ですから、信仰の対象があるとすれば、「自分の内なる神性(仏性)」です。
私は、そういう意味で、白光さんは、精神世界系だと思っています。

「神中心」ではなくて、「自分中心」のところが、
ヴィパサナ瞑想会と似ています。(^^;ゞ

。。。。。。。。。。。参考までに。。。。。。。。。。。。。。。。。

『神と人間』(主著)五井昌久著【白光出版】
『天と地をつなぐ者』(自伝)五井昌久著【白光出版】
『宗教問答』(法話集)五井昌久著【白光出版】

『我即神也』西園寺昌美著【白光出版】
『人生の目的地』西園寺昌美著【白光出版】


【14】「より良く」と「より善く」

2004-11-28 21:45:19 | Weblog
>神(創造主)が、人間を創造したとして、
>人間には、どのような機能があると思いますか?

★ その時の解答は、人間には、「よりよく」という機能があるというものでした。そう言われてみますと、人間は、どんな状況においても、「よりよくしたい」とか、「よりよくなりたい」いう願い(本願)がありように思えますし、「よりよく」というのは、人間にとって、普遍的な機能であるような気がしました。

ここで、すこし考えたいのが、「良く」と「善く」の違いです。

まだ、厳密には考えていないのですが、
「良く」というのは、「自分にとって都合が良い」という意味が強いように
思うのです。「善く」の方は、「普遍的な価値」のように思います。

例えば、病気やリストラなど、自分にとって不都合なことが起こりますと、「はやく良くなって欲しい」と思うは、人情です。(^^;ゞ
この「良く」は、事態が改善して欲しいという意味です。

このような場合には、「善く」という言葉は使いません。

「善く」というのは、もっと、包括的な価値観に裏打ちされているように思うのです。たとえ、病気やリストラになったとしても、それを通じての学びが大きければ、その病気やリストラを、「より善く」生きることはできるのだという意味での「善く」です。

そう考えますと、
「より良く」というのは、物質的な外界が進歩改善されること、
「より善く」というのは、精神的な内面が受容成長すること、
と言えるかもしれません。

精神的な「より善く」という指針を自らに科しますと、
『何がよくて、何が悪いのか』などという判断は、生身の肉体人間の頭脳では出来ないということになりそうですね。

ここでも、「知足」にたどり着きそうです。(^^;ゞ
『人間は、ただ、足るを知る存在』なのかも知れません。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★サーバーが変わるため、私の下記のサイトが閉鎖されるかも知れません。必要な箇所がありましたら、保存してください。
http://homepage2.nifty.com/hiroshi_n/etegami.htm

【13】池田の哲学と白光真宏会

2004-11-27 22:43:40 | Weblog
昨日までに書いたことは、論理的には理解できると思うのです。この先が、
いよいよ核心(笑)で、きわどい議論になります。(^^;ゞ
「池田さんの哲学」(以後、池田の哲学)や白光真宏会は、この先、どのような論理を展開しているのでしょうか(^。^?

池田の哲学で言えば、人間は「よりよく生きる」という、進化への機能が、
プログラムとして、言葉の価値として、人間の中には入っていると説かれています。

「白光真宏会」では、「絶対によくなる」と思うことによって、「よくなっていく」と、説きます。

なお、これらの見解は、私の理解する範囲のものですので、文責は私にあります。これ以後の記載もすべて、私の判断する「池田の哲学」「白光真宏会の教え」ですので、そのように理解してください。(^^)
間違いがありましたら、指摘してください。

まず、「白光真宏会」の見解から書きますと、

イメージトレーニングというのがありますよね。例えば体操競技で、完璧
な演技を、何回も思い描いてから実践すると、うまく出来る可能性がとても上がるという話を聞いたことがあります。

脳と現実の関係は、そのようなものらしいのです。
脳にとっては、イメージが先であって、結果は後なのだそうです。

「出来た」というイメージがあれば、それが出来るように脳が働くらしいのです。(体操演技は、「脳」の指令によって演技がなされる)

養老さんの「唯脳論」も、人工物はすべて、人間のイメージがあって、それを現実化したものだという考えですよね。
イメージが先で、現実化が、後なのです。

それで、白光真宏会では、「絶対によくなる」と自分が思うことによって、「現実がよくなる」と説いています。

それで、もう一つの「池田の哲学」なのですが、人間が言葉を知っているということは、その言葉を生きているということなのであり、「善」という言葉を知っている限り、その価値に基づいて生きることこそ、生きる価値に値すると説きます。

私は、先の文章で、「進化への機能が、プログラムとして人間の中に入っている」と書きましたが、正確には、これは、池田さんが書いていることとは、
多少違います。

以前、ヤマギシにいる時に、「人間にはどのような機能があるのか」という
話題になり、そういう会話のなかで得た解答です。

【問い】マッチは、人間が創造しました。
    「火を点ける機能」を持たされています。
    それでは、神(創造主)が、人間を創造したとして、
    人間には、どのような機能があると思いますか?

【12】一人一宇宙

2004-11-26 22:26:31 | 唯識
『「人類」とは、脳のネットワークである』ということを、仏教的にいうと、
「諸法無我」だと思っています。数年前にNHK教育TV『こころの時代』で、横山紘一さんが、『心の秘密を解く』という唯識講座をされていて、
とても興味深く拝見しました。

その講座で一番始めにでてくるのが、『一人一宇宙』です。どういうことかといいますと、「一人一人は、それぞれの心のなかに住んでいて、そこからは一歩も出れない。」ということなのです。

私たちは、過去や未来について考えますが、その「過去」や「未来」というのも、「今」考えている思いの内容であって、実体はない。(^^;ゞ

過去も未来も、今の自分の思いの反映である。今の自分が思っていることが、そのまま「自分の思っている世界観」なのだということを知って、なるほどなあと納得したわけです。(^^;ゞ

これもコペルニクス的転換かもしれませんね。

いままで、世界というものが歴然として存在すると思っていましたが、
自分の思っているままが世界なのだとしたら、
私の思いが変われば、世界が変わることになります。

ちょっと、恐い気もしますけれども(笑)、私たちの認知形式は、そのようになっているのだと思います。

これを、哲学的にいいますと
        「客観とは、それを客観と考えている主観である」

精神世界的にいいますと、
        「世界とは、『自分』である」
        「状況は、常に中立である」

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

★この日記をご覧の、親しい方々には、ご案内していますが、
あさっての日曜日に、『輝かしい未来を創造するセミナー』という
講演会(無料)を聴きに行きます。

私が、この『知足日記』で語たりたいと思っていることと、
同じテーマだと思いますので、お時間のある方はお越しください。

■11月28日(日)13時~17時 神戸市勤労会館2階多目的ホール(三ノ宮駅から東へ5分)


【11】人類という「脳のネットワーク」

2004-11-25 21:49:27 | Weblog
そもそも、言葉の意味とは何でしょうか。
たとえば、「愛」の意味は何でしょうか。

人々の、「愛」に対するそれぞれのイメージは違いますが、「愛」という概念は、人類に共通です。「正義」も「悪」も「美」も「平和」も「花」も「机」も、各人によって、そのイメージの違いはありますが、言葉そのものが持つ「意味(イデア)」については、共通の概念を持っているからこそ、「愛」についての話が出来るのです。私はそれを、『「人類」とは、脳のネットワークである』と呼んでいます。

人類とは、共通の言語(翻訳も含めて)を有することによって、コミュニケーションを図ることのできる意識体だと思うのです。

ついでに、「脳とは何か?」について書きますと、
「脳」とは、頭蓋の中にある脳組織(固体)のことではないと思うのです。

「脳」の実体というのは、手足や内臓を含めた身体機能システム全体のことだと思うのです。なぜなら、手足を通じて入ってきた情報(入力)を判断し、手足を通じて出力するというフィードバックによって、脳は機能しているですから、手足や身体を除外しては、「脳システム」が成り立ちません。

だから、「アインシュタインの脳」だけを冷凍保存しても、未来に、アインシュタインを再現することは出来ないと言われています。(^^;ゞ

「脳」とは、「身体全体を含めたシステム」のことであり、
「政府」が、人民なくして存在できないように、身体なくして「脳」は存在出来ません。

そして、「人類」の脳のネットワークがあるからこそ、
私たちは、現実を現実として理解することができるのです。

「言葉」とは、現実を捕らえる道具ですが、「現実」が言葉だと思ってしまうと、「言葉」に把われてしまい、心の自由がなくなります。

言葉と意味の関係については、
池田晶子さんの『14歳からの哲学』が、とても参考になります。
お勧めの一冊です。(*^_^*)

「法則としての神」の意図とは?

2004-11-24 21:40:28 | Weblog
『法則としての神』とは、仏教でいえば「ダルマ(法)」のことです。
そして、どのような「法則」があるのかと言うと、因果の法則です。
「裁く者は、裁かれる」です。(*^_^*)

愛する者は、愛され、憎しむ者は、憎しみを返される。
怒りを表せば、怒りが返ってきます。
あなたは、どれを選びますか(^。^?

以前、私は、OSHOの『神が愛なのではない。愛が神なのだ』という言葉が好きでした。これは、人格神を讃える人々に向かって、宇宙の法則とは、
「愛」であると言ったものです。

はっきり言って、「法則として神」の意図とは、「愛の実践」です。

大脳生理学的にも、人間の脳は、「自分の欲望を、満足したとき」よりも、
「他人の役に立てたとき」の方が、より快感を感じるそうです。

ということは、そのように人間は出来ている(プログラムされている)ということですよね。

私たちが道を尋ねられて、それを教えた時のあの快感は、「自分が役に立ったこと」への快感です。自分の欲望が達成されたときの嬉さよりも、大きいというか、違った質のものですよね。(^^;ゞ

人間には、「人の役に立ちたい」という思いが、誰にでもあるように思うのです。それが、「愛」です。

「愛」という文字を見で、温かい気持ちになるのは、
私たちが、意識の深いところで、「愛」(他人の役に立ちたい)を実践したと思っているからです。私は、そう思います。

創造主は、存在するのか?(法則としての神)

2004-11-23 22:41:42 | Weblog
それで、私たちは、「何」によって生かされているのかということが、知りたくなってきますよね。簡単に言えば、「創造主は存在するのか」ということです。

私は、「創造主」と聞きますと、キリストが浮かびます。
両手を広げている長髪で髭をはやし、白い服をまとった人物が想像されます。
「人格神」ですね。仏教では、この世界を創っている力を「空」と言います。
「無人格神」ですね。そして、つぎには、『創造主は、何の意図を持っているのか』ということが知りたくなりますよね。

先の『生きていくことの意味』の中に、
「猿がタイプライターを手当たり次第に打って、その結果偶然に、シェイクスピアの劇がつくられることは常識では考えられない」という例をもちいて「宇宙に人類が出現したことは偶然ではない」ということが語られています。これを読んで、「天地創造」には、なんらかの意図があるということを、私は納得をせざるを得ませんでした。(^^;ゞ

私は、「創造主」というのは、「無人格」だと思っていますが、
「すべてを知っている人格神」と捕らえた方が、親しみ深い感じがして
使い勝手が良いかもしれません。(^^;ゞ

なぜ、使い勝手が良いことが必要かと言いますと、
「神性」は、私の中にあって、それを顕していくことが、
私が「創造主」の法則に則って、生きていくことなのですから、
使い勝ってが良いほうがいいのです。

『神とは法則である』のですから、罰を与えたりすることはないというのが、
私の考えです。ですから、神の法則に則って、安心して生きて行けばよいと
思うのです。(^^;ゞ

それで、その『神の法則』とは何かを、つぎに書きます。
『法則としての神』には、どのような「意図」があるのでしょうか。

生かされている自分(すべての命は、つながっている)

2004-11-22 22:16:44 | Weblog
どのように考えても、私は「与えられた命」を生きていると思うのです。
この命は、与えられた命ですし、この命を維持するための食物も、自分で創出した植物ではなくて、自然の摂理の中で生み出された食物の生命をいただいて、生命の維持をしているのですから、私たちがここに存在するということは、徹頭徹尾、与えられ続けているということが、事実を事実として見た「道理」(TAO)だと思うのです。

『生かされている自分』という言い方がよくされますが、
私は、『すべての命は、つながっている』という言い方もします。
そのように考えれば、『すべては、一つの生命』なのかも知れません。

諸富祥彦さんの『生きていくことの意味』(PHP新書)の中に
ご自分の体験として、若い時期に「人間はなぜ、生きているのか?」
「人生の意味とは何か?」と問い続け、悩み続けた果てに・・・、

『私は、人生とは何かを問う存在ではなくて、
「問われている存在」である』ということに気付く場面が描かれていて、
私はその箇所がとても好きなのですが、こういうコペルニクス的転換
こそが、「知足」の真髄です。(*^_^*)

♪「ああ~。気付いてみたら、すべて与えられていた」というわけです。(^^;ゞ


慈悲の瞑想

2004-11-21 08:04:14 | Weblog
最近、「祈り」という行為の意味が少し分かってきました。
「祈り」は、実践した経験がないと、納得できないという気がしていますが、
ヴィパサナの瞑想会で教えて戴いた、「慈悲の瞑想」をご紹介します。

この瞑想法も、私たちの心の波動を、「善念で満たす」という行法なのだと理解しています。(^^;ゞ

『慈悲の冥想』(心の中で、ゆっくり唱えます)
 
 私が幸せでありますように
 私の悩み苦しみがなくなりますように
 私の願いごとが叶えられますように
 私に悟りの光が現れますように
 私が幸せでありますように

 私の親しい人々が幸せでありますように
 私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
 私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
 私の親しい人々にも悟りの光が現れますように
 私の親しい人々が幸せでありますように

 生きとし生けるものが幸せでありますように
 生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
 生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
 生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
 生きとし生けるものが幸せでありますように

 私の嫌いな人々も幸せでありますように
 私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
 私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように
 私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

 私を嫌っている人々も幸せでありますように
 私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
 私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように
 私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように

 すべての衆生が幸せでありますように
  すべての衆生が幸せでありますように
  すべての衆生が幸せでありますように

これまでがワンセットですが、さらに続きがあります。
次は、自分が嫌いな人、苦手な人、気になっている人のことを思い浮かべ、「慈悲の冥想」をします。

★具体的な名前を入れます。
  ○○さんが幸せでありますように
 ○○さんの悩み苦しみがなくなりますように
 ○○さんの願いごとが叶えられますように
 ○○さんに悟りの光が現れますように
 ○○さんが幸せでありますように

今でも、この「慈悲の冥想」をします。効果があるように思います。
これを唱えると、穏やかな気持ちになれ、苦手な人、嫌いな人、ケンカの相手(笑)などに対する自分の態度が変わってくるように思うのです。

こちらが善念で、接するのですから、相手からも善念が帰ってくるように
思いますが、それは結果なので、あまり期待しないで良いようです。
自分の気持ちが穏やかになることが、なによりの癒しになります。(*^_^*)

瞑想法について

2004-11-20 22:38:28 | Weblog
色々な瞑想法があり、それぞれの人に合った瞑想法がありますので、
どれか一つに決める必要はありません。私も今までに、座禅や、OSHOの瞑想法、ヴィパサナの歩行瞑想などをして来ました。いまやっているのは、「統一テープ」による瞑想です。

その方法は、『統一テープ』(CD)を聴きながら、「世界平和の祈り」を、心の中で、ゆったりと繰り返すというものです。

私は、瞑想を始めますと、眉間の辺りに快い痙攣が起きるのですが、初めて、この「統一テープ」を聴いた瞬間に、その痙攣が起こってびっくりしました。
たぶん、この痙攣は、瞑想中にアルファー波が出ることと、関係があると思います。

※ 「世界平和の祈り」の内容は、
『世界人類が平和でありますように、
 日本が平和でありますように、
 私たちの天命が完うされますように、
 守護霊さまありがとうございます。
  守護霊さまありがとうございます。』であり、
これを繰り返して、こころの中で唱えます。

椅子に座り、背筋を伸ばして、ゆったりした気持ちで、丹田の前で如来印をみ、5分間唱えただけでも、心が静まりますので、試してみてください。

なぜ、この瞑想法が、効果があるのかを分析しますと、
①「世界平和の祈り」を唱え続けることによって、意識の集中が起きる。
②「世界人類が平和でありますように」という祈り言葉が、
  性善性をイメージさせるので、心が「善行モード」になる。
③「世界平和の祈り」が、マントラの役目をし、思考停止に役立つ。

ちなみに、この「統一」というのは、精神統一とか、集中ということではなくて、神性(愛念)と一つになるという意味らしいです。


この世は、魂の学びの場

2004-11-18 21:53:32 | Weblog
番組中の江原さんのそのほかのメーッセージで、興味深かったものを列挙します。

【1】 子供が親を選んで生まれてくる。
【2】 私は、「学び」のために、この世に生まれてきた。
【3】 私たちは、スピリチュアルな神秘の中で生きている。
【4】 だれも、本当の自分を知らない。
【5】 誰にでもオーラはあって、守護霊はそのオーラのスクリーンに
   映し出されるようにして見えるが、視覚として見えるののではなくて、
   霊界や神界にある姿が、脳の後の方で感じられるという視覚である。
【6】 瞑想は、オーラをきれいにする。
【7】 守護霊は。「魂の親」であり、「魂の成長」を望んでいる。
【8】 霊は、見るものではなくて、感じるもの。
【9】 結婚は、基本的に相手に「迷惑」を掛けるのことなので、「すいません。私のようなものにお付き合い戴いて」という姿勢が大切である。

【1】 は、ある意味で納得できます。
このように考えれば、合点が行くこともありますし、私が自分の両親を選んで生まれてきたと思えば、子供に対しても、両親に対しても、愛情が湧きますよね。そのような態度で接することこそ、守護霊さんが望んでいる「魂の成長」かもしれません。

【5】も「なるほどなあ」と思いました。昨年の夏、霊能者の方が、目の前で50人ほどの方を零視する様子を見たのですが、そして、私も霊視してもらったのですが、それは江原さんが、番組の中で霊視しているのと同じ様子でした。

【6】瞑想は、こころの掃除だとうのは、本当らしいです。ヴィパサナ瞑想の先生も言っていました。(*^_^*)瞑想というのは、簡単にいうと「想念停止」です。それによって、なんの掃除をするのかというと、業想念を洗い流すのです。瞑想をした後は、オーラが綺麗になるそうです。

【7】いわゆる困難や苦悩というものは、「魂の成長」のために必要なものと考えますと、私たちの人生に対する価値観が変わるかもしれません。
そういう意味でいえば、【2】は頷けますね。

【9】は、肝に銘じたいです。(^^;ゞ

「脳」は、「宇宙の意図」を理解できるのか?

2004-11-18 00:45:02 | Weblog
『私が今、もっとも興味があるのは「霊的真理」です。』
などと書きますと、堅苦しくなりますが、このブログ日記は気楽に
書いて行こうと思いますので、宜しく、お願いします。(^^)

先日、読売テレビの「スーパーテレビ」に江原啓之さんが出演されており、
大変、興味深く拝見しました。

番組のはじめのコメントは、3つ
【1】 誰にでも、守護霊はいます。
【2】 この世の中に、偶然はありません。
【3】 うまくいかないときには、必ず理由があります。

「霊的真理」については、ネット上でも、
「スピリチュアリズム」(霊性進化の道)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/
「心霊学研究所」
http://www.paperbirch.com/
というサイトなどがありますが、「霊的真理」は、人間の目には見えない真実を、肉体人間の脳で理解しようというものですので、限界があるようにも思われます。

人間を「マッチ」に例えれば、その「マッチ」を創造した発案者の
意図を、「マッチ」が知り得ることは可能かという論理的な問題が、
横たわっていると思います。(^。^?

「脳」が「宇宙」を考えるということは、
「宇宙」によって作り出された「脳」が、「脳」を作りだした「宇宙の意図」を推察するということなのですから、
本来、知り得るのだろうかという疑問があるのです。

ただ、「脳」も「宇宙」なのですから、「脳」は「宇宙」を
知り得るという解釈も成り立つ訳です。

「宇宙」は、「脳」が「宇宙」の真理を認知できる
能力を、「脳」に与えたかもしれない。(*^_^*)

実際に、子供も親になると、「親」の気持ちが分かるのだし、
人間は、そのようなことが分かる動物として作られているのだから、
ひょっとすると、人間の頭脳の知覚で、
「脳」は、「宇宙」とは何かを、知り得るのかも知れないね。(^。^?


私達の信念が、私達の現実を創造する

2004-11-15 21:46:59 | Weblog
毎朝5時半頃から30~40分、瞑想(統一)をしています。
この静かな時間が、一日をとても豊かにしてくれます。

★OSHOの講話集を、よく読みます。(^^;ゞ

【私達の信念が、私達の現実を創造する】

   唯一勇気のいることは
   過去をきっぱり捨て去ることだ。

   過去を集めず、過去を積み重ねず、
   過去にしがみつかないことだ。

   誰もが
   過去をひきずっている。
   そして、
   過去に執着するからこそ
   今を生きることができないのだ。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

私たちは、偶然ここにいるのではない
私たちが、ここにいるのは、必要とされているからだ

私たちがここにいるのは、
そもそも神が私たちの存在を許したからなのだ

これは神の意志だ
神の意味するところは単に、「意味」に他ならない
人生は意味あるものだーこれが神の意志だ

私にとって神とは、人物ではない
それは存在の意義だ
それは人物ではなくて存在だ

神を探し求めることはできない
自分が神性と呼ばれる大いなるエネルギーの一部であることを知るだけだ

神性は、あたかも大海のエネルギーのようなものだ
私たちはただその波であるにすぎない

       『朝の見覚めに贈る言葉』OSHO(2000年刊)

簡単な自己紹介

2004-11-13 23:44:05 | Weblog
1951年生まれです。
高校生の頃から、「老荘思想」に魅かれていました。(^^;ゞ

その後、共産主義に憧れたり、ヤマギシ会に関ったりしました。
OSHOや、禅の書物(主に、内山興正氏)や、シャリーマクレーンの著書の影響で、座禅や瞑想をしていました。

3年ほど前に、ネットを始めたことがキッカケで、
トランスパーソナル心理学関係の本(諸富祥彦氏)や、シルバーバーチ、
飯田史彦、八木誠一、山田邦男、滝沢克巳、船井幸雄、天外司朗、
ケンウイルバー、池田晶子さん、五井晶久氏、西園寺昌美氏などの著書を
よく読みました。

昨年は、ネットで、地橋先生の「ヴィパサナ瞑想」のサイトに出会い、
関西の 瞑想会に半年ほど通いました。
http://www.satisati.jp/1page.htm

現在学んでいるのは「白光真宏会」の五井氏の著書やその方法、
西園寺昌美氏の法話テープです。

今、読んでいるのは、五井昌久氏の『老子講義』です。

高校時代から35年経って、色々な道草をした後に、
「老子」に戻ってきたわけです。(^^;ゞ

そして、「TAO」の意味が、すこしだけ、分かるようになりました。(*^_^*)