『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【1187】存在と唯識。「基本的には、みんな病気!」ではない(*^_^*)

2007-10-31 22:08:00 | 思索
10月30日放送の『ニッポンの教養』のタイトルは、『ひきこもりでセカイが開く時』で、
対談の相手は、斎藤環氏(精神医学)でした。印象に残った言葉を書きます。

★人間は、言語によって、自分自身を観察する唯一の動物。
その観察が暴走すると病気になるが、基本的には、みんな病気であり、
程度の差でしかない。

★「ひきこもり」によって、人間性が深まることもあるので、
 単純に治せばよいというものではない。

『ひきこもりでセカイが開く時』

【1186】小欲知足・『仏道に学ぶ』(こころの時代)

2007-10-31 21:44:11 | 思索
『こころの時代』は毎週録画できるようにしてあるのですが、
どういうわけか、28日の放送は、残り10分になって、録画されていないこと気付きました。(^^;ゞ
それで、テレビのスイッチを入れますと、とても興味深い話でした。

全部を聴きたいと思い、番組表をみますと、4日(日)の午後に再放送されることがわかりましたを知りました。
それで、このブログで、紹介しようと思っていましたら、
昨日届いた「中澤氏のピースレター」に、偶然、その番組のことが載っていて驚きました。(^^;ゞ

。。。。以下、引用。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★NHK『こころの時代』板橋禅師、
 11月 4日(日)午後2~3時 NHK教育テレビ(再放送)
(再放送の日にち・時間については、都合により変更される場合があります。)

ご住職 板橋興宗禅師様は、人間学を学ぶ月刊誌「致知」に時折登場されます。
サムシング・グレート、笑いによる病気治療の遺伝子学者・村上和雄先生や、
世界平和の祈りのリーダー・西園寺昌美先生、と対談されたこともあります。

【1185】「食べ過ぎ」が、苦しみを生む(*^_^*)

2007-10-30 21:30:44 | 思索
惣菜店をしているので、残った惣菜が目障りになり、「もったいない」と思って、
空腹でもないのに食べてしまって、胃ががもたれて気分が優れず、
心までもが、不安定になることが、時々あります。(^^;ゞ

そういう経験で気付くことは、
「食べ過ぎが、苦しむを生む」という事実です。(^^;ゞ

やはり、「食べることは「業」を積むこと」だと思うのです。
私たちは、「不食の世界」(「食べないほうが、心身にとっては良い」という世界)に住んでいるようです。

【1184】至福の極み(*^_^*)

2007-10-29 22:03:14 | 思索
久しぶりに、大阪支部のページをみましたら、アドレスが変わっていました。
それが原因かどうかはわからないのですが、なんと、
私の細い回線のパソコンで、「大阪支部講話会」が聴けて、感激しました。(*^_^*)

特に、聞き逃したことが心残りだった田中理事長の講話が聴けて、嬉しかったです。(^^;ゞ

田中さんは、昌美氏の説かれる真理や、「白光の教え」を、私たちにもわかるように、
とても論理的に説明してくれるので、「やみくもに、信じる」世界から、
「信じて、あたりまえ」の世界に、私たちを導いてくれます。

詳しくは、下記のサイトのビデオを見て欲しいのですが、
12月中旬に、田中氏の『神さまといつも二人』という本が出ます。

その案内に、著者の経歴が載っていたのですが、中央大学法学部と東大文学部英文科を卒業されていたとは、
知りませんでした。(^^;ゞ 「白光の教え」を論理的に解説される頭脳の明晰さに、納得がいきました。(*^_^*)

それにしても、家に居ながらして、理事長さん(信者の代表)の話が、何回でも聴けるというのは、
「至福のきわみ」です。(^^;ゞ こんなにしあわせなことがあるでしょうか。(*^_^*)
まさに、インターネットのお陰です。これも、アセンションの表れだと思うのです。
凄い時代になったものです。(^^;ゞ

昔の会員さんは、市川市まで、肉体を移動させて、「真理」を学んでいました。
それ以前には、著書もテープレコーダーもない時代がありました。

今は、「学ぶ気持ち」になれば、誰でもが「真理」を学べる時代です。
口伝で、「真理」を伝えていたブッタの時代と比較してみてください。(^^;ゞ
有り難いことです。

講話会では、「呼吸法の印」の解説とか、「成就の体験」の意味の深さとか、
とても参考になるものがありました。
私たちが、安易に使っている「次元上昇」や「成就」の深い意味も知ることが出来ました。

特に、「呼吸法」で息を止めている時には、
宇宙神と守護霊と自分の3者協議が行なわれているという説明は、
自分の経験に照らして、とても納得できました。(*^_^*)


大阪支部講話会(ライブラリー)

【1183】「自分を信じる心」が人類を救う

2007-10-28 06:07:40 | 思索
「信じる」という心の作用を解明することは、なかなか奥が深いです。(^^;ゞ
目に見える物質や、目に見えなくても、空気などのように存在が確認されている物質については、
「信じる」とは言いませんし、「物理的な現象」も「信じる」対象ではありません。

従って、「信じる」対象は、存在が確認されていないもの、物理的な関連が証明されていない事柄ということになります。
宗教的な体験をした人は、この「信の壁」を乗り越えた人なのでしょうが、
科学的な発想に毒された現在人は、この「信の壁」を乗り越えることが難しいです。(私もそのひとりです)(^^;ゞ

けれども、瞑想をしていますと、自分を冷静に判断できるようになって来て、
なんとなく、目にみえない「宇宙の法則」がわかってきます。(^^;ゞ
ですから、「法則としての神」は、わりと信じられる(笑)のです。(^^;ゞ

もうひとつは、「愛の神」でしたね。(^^;ゞ
「愛の神」が信じられるかどうか?が、問題です。
「世界は、愛によって成り立っている」のか否か(^。^?

「白光の教え」でいいますと、「成就の体験」を積み重ねると、
「今は、不調だけれでも、結果的にはうまく行く。間違いない。
それに、うまく行かなくても、それにはまた、別の意味がある」と、
結果の全部を「神」(法則の神と愛の神)に任せられるようになるのです。(^^;ゞ

★それで再度、「信じる心の偉大さ」について書こうと思います。
『ピラミッド神事』の冊子を読み返してみて、とても明快な文章を見つけました。

『人類の不幸はすべて、自らを信じられないところから、生じているのである。
信じる心とは、見えるものと見えないものを結ぶ光明なるエネルギーである。

信じられない心とは、見えるものと見えざるものを結ぶエネルギーが否定的なのである。

人類が物質に執着し、闘争に明け暮れ、苦悩多き、病多き、不幸にして不調和な日々を送っているのは、
自らの内にある崇高なるもの、高貴なるもの、絶対なるもの(我即神也)を信ずる心を失った証拠である。

こうした誰の心の中にも等しく存在している高貴なる心を信じられなくなった時、人は物質に執着し、
闘争するのである。

信ずる心とは、実に偉大なる心である。
それは、不可能を可能にし、望むものを創造し、成就してゆくエネルギーそのものだからである。
人類のこの信じる心こそが、発明発見を通して、あらゆるものをこの世に存在せしめてきた力である。

また、この信ずる心は、それを用いれば用いるほど、その力は養われ、磨かれ、高め上げられ、協力となる。
そして、遂には、信ずる通りのことが、自らの人生に実現してゆくのである。

このように、自らを信じる心が、自らにもたらす功績は大である。』(p16)

★「すべては、必ずよくなる」と信じるか否かは、各個人の「意志」の問題です。
「信」は意志の問題なのです。

★「神(自分を存在させている力)」を信じることが、「自分の存在と才能」を信じることのようです。

■「母の絵手紙」のページを製作中です。(^^;ゞ

『つる子の絵手紙』


【1182】「今できることを、一生懸命にする」が人生の極意(^。^?

2007-10-27 21:31:18 | 思索
「今、生きている自分」が、すべてのすべてであり、もっとも神性なことです。(*^_^*)
死も過去も未来も、観念(イメージ)に過ぎません。(^^;ゞ

ですから、過去を悔やんだり、未来の心配をする必要はないのです。
今できる努力を、懸命すればよいのです。(*^_^*)

「世界」に必要だから、「あなた」は、今ここに居るのです。(*^_^*)
「神」が存在させているのです。

「悪」とは、「自分が、生かされている」ことに気付かないで、
「自分本位に生きる」ことから生じる不調和のことです。

「善」とは、全体が調和していることです。

「才能ある人々」は、自分本位に生きているように見えますが、
芸術家にしろ、スポーツ選手にしろ、政治家にしろ、経営者にしろ、科学者にしろ、職人にしろ、
他人に喜こんでもらえることによって、彼らの才能は認められ、成就するのです。

「自分の願い」を成就させるために、もっとも大切なことは、「自分の才能」を信じることです。

★下記のメールマガジンをご紹介します。
 いろいろと参考になる記事が多いです。

『天上のシンフォニー』スピリチュアル情報

★『知足美術館別館』を作りました。(^^;ゞ

『知足美術館別館』


【1181】「宇宙の法則」と「人生の真実」(*^_^*)

2007-10-26 21:44:52 | 思索
我々の人生の目的は、人を助けること、人の役に立つこと。(^^;ゞ

このように、スッキリと考えられると、自分の「思い煩い」の原因が納得できて、「悩み」が消え、
今の自分が「するべきこと」が見え、それに集中すればよいことが分かります。

自分の肉体を、「みんなが幸せになる」方向に使うと、
収益(笑)が返ってくるのです。ギブあんどテークなのです。(^^;ゞ

自分の欲望のためにだけに、「自分の肉体」を使うと、結果的には破滅します。
(それもまた、プロセスですが)(^^;ゞ

自分のためだけに、何かをすることは、長続きしないのです。 

それが「宇宙の法則」。それが、「人生の真実」らしい。(^^;ゞ

その「宇宙の法則」のとおりに生きれば、真実の人生を歩んだことになる。(^。^?

■今回の「亀田一家の騒動」も、この例かも知れません。(^^;ゞ
士郎さんのボクシング指導の方針(教育?)は、いつの頃からかは知りませんが、
「ボクシングをすること」が目的ではなくて、「勝つこと」が目的になったので、
今回のような事件になったと思うのです。

自分たちのボクシングで、観客に喜んでもらうという「全体的な視点」が欠けていたようです。

それにしても、「なるべくしてなっていく進展」は、
伏線の詰まったドラマを見ているようです。(^^;ゞ

【1180】考えることは、より善く生きること(^。^?

2007-10-26 05:09:49 | 思索
人間は霊的な存在であるとか、
すべては必然であるとか、
必要なものは与えられているとか、
すべては霊的な必然であるとか、
考えることが、オモシロイ(^^;ゞ
考えられることは、幸せなことである。(*^_^*)

とにかく、考え続けることである、
「考えること」がよりよく生きることである。

そして、「考え」を捨てることが、
もっと、より善く生きることである。(^^;ゞ

【1179】存在と世代と魂の計画と「心の平安」

2007-10-25 21:52:39 | 思索
今の私が、いちばん興味のあることは、「世代」ということです。
女性から「子供」が生まれて育てられ、それが世代を作っていくという「現在形」です。

それはやはり、「孫」が出来たことで、「世代」を比較して考えるようになったからです。

こういう脈々とした世代の継続のなかで、
「人類の意識」が目覚めていくのは、「宇宙神の計画」であり、
私たちの人生は、その計画の一部なのです。(^^;ゞ

これは、「信じる」に値する「真理(ほのとうのこと)」なのでしょうか?(^^;ゞ

もし、「真理」なら、このことを自分の人生で表現しないと、
私の心は平安になりません。

【1178】悔いのない人生を生きよう!

2007-10-24 00:34:39 | 思索
亡くなった人たちに、どのような思いで、逝ったのかを訊いてみたいと思うのです。(^^;ゞ
それはとても参考になると思います。(*^_^*)

私は死ぬときに、「悔いがない」と言いたいのです。(^^;ゞ

そのために、今を如何に生きるかが、この『知足日記』のテーマです。(^^;ゞ

どうですか、「悔いなし」に死ねそうですか?(^^;ゞ

悔いなく死ぬためには、悔いなく生きることが必須条件(笑)です。
そして、悔いなく生き、悔いなく死ぬためには、「真理」を知る必要があります。(*^_^*)

その「真理」とは、「我即神也」と「人類即神也」。?

「自分が、周りの人に、どれほど役に立てたのか」が、
その人の「価値」であり、悔いなく死ねる極意(笑)のようです。

そして、自分の状況に感謝して生きることが大切だと、
先日の『オーラの泉』で、江原さんが、小雪さんにおっしゃっていました。(*^_^*)
感謝して生きるのも、悔いなく死ぬための極意、今を生きるための極意だと思うのです。(^^;ゞ

【1177】死んだ人たちは、文字通り「消えてゆく姿」の人たち

2007-10-23 20:52:42 | 思索
五井氏の法話テープに、「死んだ人たちは、消えていった人たち」という箇所がありまして、
そのことを思い出しては、「周りの人たちや自分も、いずれは消えてゆく」という視点で、
「自分」と向き合い、考えてみることがよくあります。(*^_^*)

目の前のこの人たちも、やがては消えてゆくのだ、
自分も消えてゆくのだと思うと、
なにか不思議な気持ちになります。(^^;ゞ


まずは単純に、死んでしまえば、「自分」という意識が消えてしまう。
「意識があるのは、生きている今の間だけだ」と、窮めて即物的に、
「自分」というモノを考えても良いと思うのです。

そう考えたあとには、その「事実」をより良く生きるためには、
どのように生きたらよいのかという、
「自分への問いかけ」が、出てくるのです。

まずは、「一回限りの生命としての自分」に気付くことが大切です。
その「いとおしい自分」に向き合うことが、「自分」を知る第一歩です。(*^_^*)

アリスによく来ていて、色々な話をしたイマイさんや、その奥さんも亡くなられましたし、
ユカワさんご夫妻も居なくなりました。家内の両親や、私の父親などなど、
なかには、自殺をされた方もいました。「死は、身近なこと」なのです。

私の絵手紙教室の生徒さんでも、この20年絵手紙で4人亡くなられました。
身近で亡くなられた方々の人数は、、どなたでも、40人ぐらいはいると思います。

「死後の世界」は、自分には関係ないことではなくて、
とても身近なことだと自覚するべきなのです。

【1176】悩んでいる暇などないのですが、悩みは悩みでそれで良い(^。^?

2007-10-22 00:11:00 | 思索
だれにでも当てはまることはないのですし、
人はそれぞれに、熟すための時間が必要ですから、
一概には言えないのですが、人はいつか、
「宇宙は、存在しないのではないか?」(笑)とか、
「自分には、自信がない」とか、
「自分を信じられない!」などと悩んでいる暇などないと気付くものなのです。(^^;ゞ

心の準備ができたら、
「悩んでいる暇などない。悩んでいる間も、時間は流れている。
時間がもったいない。 まず、やってみればよい」(『一期一会』)
という言葉がすんなりと入ってくるようです。

けれども厄介なことに、私の場合もそうですが、(^^;ゞ
この言葉は案外、心配事の最中には思いつかなくて、心配事から抜けたときに、
「悩んでなどいないで、まずやってみれば良かった。悩んで損をしてしまった」と気付くようです。(^^;ゞ

だからと言って、「やってみれば、それで良い」ということでもなくて、
ある程度は悩まないと、「ここぞという時期」にならないのです。

つまり、理由があって悩んでいるのです。
悩むこと自体に意味と価値があって、悩んでいるのです。(*^_^*)

【1175】『宇宙』を信じることは、自分を信じること

2007-10-21 12:41:38 | 思索
【1174】の「自分を信じることは、『宇宙の存在』を信じること」を反対にした言葉である
「『宇宙の存在』を信じることは、自分を信じること」も言えると思うのです。(^^;ゞ

「宇宙(自分を存在させている力)がある」と思うあなたは、
「宇宙の存在」を信じているあなたなのですから、「自分の生きてゆく力」を信じればよいと思うのです。

【1174】自分を信じることは、神を信じること。

2007-10-21 08:22:18 | 思索
【1166】は『見えないものを、信じらえるか否か?(信じる心の偉大さ)』というテーマでしたし、
「自分が、自分を信じないで、だれが自分を信じるの?」という話や、
「自分を信じるとは、自分の能力を信じることだ」と書いてきました。

宗教的な意味での「信じる」は、信念ではなくて、狂信になる恐れあると思いますが、
「自分を信じること」を、狂信とは言えませんから(笑)、
「安心して、自分を信じたら良い」と思うのです。(*^_^*)

それでふっと、「自分を信じることは、神を信じること」という言葉が浮かびました。
「白光の教え」の「神」は唯一神や、万物の創造者ではなくて、
宇宙を存在させている力(空・くう)ですから、私がその一部(小宇宙)であることは、疑い得ないのです。(*^_^*)

ですから、「自分を信じることは、神を信じること」は、
「自分を信じることは、『宇宙の存在』を信じること」だとも言い換えられると思うのです。

【1173】「人生とは、言葉を生きることである」と「嫌な気持ちを味わう気迫」

2007-10-21 07:46:06 | 思索
【1172】にも書きましたが、他人を「評価する心」は、自分にも向けられますので、
自分の言葉(概念)は、自分の生き方の幅を限定してしまうことになります。

けれども、「言葉」は、人生をより善く生きるためには、必須のもので、外すことはできません。
「人生とは、言葉を生きること」なのです。(*^_^*)

私が反論するのは、「自分とは異なる意見が、発せられた時」です。
人は、言葉(概念)に立腹するのです。(暴力に、立腹することもありますが、)
反論が反論を呼ぶのです。

そして、嫌な気持ちになり、反論しなければ良かった(笑)と思うのですが、後の祭りです。(^^;ゞ
反論しているときの自分の心の状態を考えてみますと、
「言わなければ、気持ちが納まらないモード」になっています。(^^;ゞ

けれども、この「嫌な気持ち」にも意味がありまして、
反論しあった後は、なんらかの気付きや進展があるのです。

ですから、必要だから「反論が起っている」と考えて、
「嫌な気持ち」を避けないほうが良いのです。

「嫌な気持ちは、嫌だ」も把われなのです。(*^_^*)
味わってやろう、経験してやろうぐらいの気迫がほしいものです。(^^;ゞ