「信じる」という心の作用を解明することは、なかなか奥が深いです。(^^;ゞ
目に見える物質や、目に見えなくても、空気などのように存在が確認されている物質については、
「信じる」とは言いませんし、「物理的な現象」も「信じる」対象ではありません。
従って、「信じる」対象は、存在が確認されていないもの、物理的な関連が証明されていない事柄ということになります。
宗教的な体験をした人は、この「信の壁」を乗り越えた人なのでしょうが、
科学的な発想に毒された現在人は、この「信の壁」を乗り越えることが難しいです。(私もそのひとりです)(^^;ゞ
けれども、瞑想をしていますと、自分を冷静に判断できるようになって来て、
なんとなく、目にみえない「宇宙の法則」がわかってきます。(^^;ゞ
ですから、「法則としての神」は、わりと信じられる(笑)のです。(^^;ゞ
もうひとつは、「愛の神」でしたね。(^^;ゞ
「愛の神」が信じられるかどうか?が、問題です。
「世界は、愛によって成り立っている」のか否か(^。^?
「白光の教え」でいいますと、「成就の体験」を積み重ねると、
「今は、不調だけれでも、結果的にはうまく行く。間違いない。
それに、うまく行かなくても、それにはまた、別の意味がある」と、
結果の全部を「神」(法則の神と愛の神)に任せられるようになるのです。(^^;ゞ
★それで再度、「信じる心の偉大さ」について書こうと思います。
『ピラミッド神事』の冊子を読み返してみて、とても明快な文章を見つけました。
『人類の不幸はすべて、自らを信じられないところから、生じているのである。
信じる心とは、見えるものと見えないものを結ぶ光明なるエネルギーである。
信じられない心とは、見えるものと見えざるものを結ぶエネルギーが否定的なのである。
人類が物質に執着し、闘争に明け暮れ、苦悩多き、病多き、不幸にして不調和な日々を送っているのは、
自らの内にある崇高なるもの、高貴なるもの、絶対なるもの(我即神也)を信ずる心を失った証拠である。
こうした誰の心の中にも等しく存在している高貴なる心を信じられなくなった時、人は物質に執着し、
闘争するのである。
信ずる心とは、実に偉大なる心である。
それは、不可能を可能にし、望むものを創造し、成就してゆくエネルギーそのものだからである。
人類のこの信じる心こそが、発明発見を通して、あらゆるものをこの世に存在せしめてきた力である。
また、この信ずる心は、それを用いれば用いるほど、その力は養われ、磨かれ、高め上げられ、協力となる。
そして、遂には、信ずる通りのことが、自らの人生に実現してゆくのである。
このように、自らを信じる心が、自らにもたらす功績は大である。』(p16)
★「すべては、必ずよくなる」と信じるか否かは、各個人の「意志」の問題です。
「信」は意志の問題なのです。
★「神(自分を存在させている力)」を信じることが、「自分の存在と才能」を信じることのようです。
■「母の絵手紙」のページを製作中です。(^^;ゞ
『つる子の絵手紙』