③『人が死を意識できるのは、他人の死を見る時だけです。
自分が死んだ時は、自分はもういないのだから、自分が自分の死を知ることはできない。
自分の死は、「ない」のです。
人はよく、「死に方」と「死」を一緒にしてしまっている。
死に方とは、ギリギリのところまで、生の側にあります。
「死に方」は選べても、「死」は選べない。
死は、向こうから来るものです。
死は、人生のどこにもない。
そう認識すれば、現在しかない、
「すべてが現在である」ということに気づくはずです。
人は死があると思って生きているから、生まれてから死に向かって時間は流れていると思っています。
社会もその前提で動いています。
真実はそうではない。
死がないとわかった時、時間は流れなくなるのです。
そうすると、現在しかなくなってしまう。
そうなれば、過去もこの現在にあるということに気づく。
それが、年齢を重ねるということの面白さでもあるのです。
現在という瞬間に時間が層をなしている。
年をとると、その層がだんだんと厚みを増してきますから、
反芻することが非常に面白くなってきます。
現在を味わうこと、現在において過去を味わうことが、
年をとることの醍醐味になる。』(p278)
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④『年をとると、みな歴史の本を読むようになりますが、なぜ歴史に帰るのか。
年を重ねると、自分の歴史と人類の歴史が重なってくるからです。
人間はこんなふうに地上に生まれ、ここまでやってきたということが、
まるで、自分のことのように感じられる。
年をとることは、ある意味で個人を捨てていくことと思う。
近代以降の人間は、個人というものを信じ込んでいますが、
個人なんて、本当はないのです。
自分がこの肉体のこの某でと思ってしまったから、
人はどんどん小さくなっていった。
そう思ってしまったから、自分が死んでしまうのが怖いとか、
これだけが人生だという話になってしまったのです。
しかし、そうではない。
「自分」とは、そんな個人に限定されるものではなく、
人類や精神、宇宙とは何かという思索のなかで存在する不思議なものです。
そういう自分を感じることを、現代人はすっかり忘れている。
それは、非常にもったいないことだと思う。
これを理解するには、今の思い込みをすべてひっくり返さなければいけない。
みんな『自分は誰それだ』と思い込んでいるから、
まず、それを外すことからしなければいけない。
「人生一回切りだ」と言いながら、墓を作る。
それは、一回切りだなんて思っていないということじゃないの、ということでしょう。
そこには、なんとなく続いてゆくという気持ちがある。
そういう漠然としてイメージを捨て、一度きっちりと考えてみればいいのです。
きっちり考えれば、生き死にというこのおかしな現象、それが成り立つこの宇宙というものが、
なんて奇妙な存在であるかに、必ず気がつくはずです。
その時、思索が個人を超えていくのです。
少なくとも、死が恐かったり、今の人生のしがみついている自分がなさけなかったりするのなら、
そう考えればいい。
人間はまだ、死をおしまいと考えていますが、ひっょとしたら、
死は始まりかもしれないのです。』(p281)
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★上のなかで印象的だったのは、題名にも書いたように、
「死がないとわかった時、時間は流れなくなるのです。」という文です。
この文を反対から言いますと、
『「死」があると思っている時には、「時間」が流れている』となります。(^^;ゞ
『「思っている」ときには、流れている』のですから、
「時間は存在していて、流れている!」の前提は、「思っていること(思っている内容)」なのです。
つまりこれは、「唯識のこと」です。 「唯識の説明」なのです。
宇宙には、ただただ、「各人の思い」だけがあるのです。
「純粋な客観的事実」はないのです。
そして、道端で出会う他人のすべても、宇宙のなかで、
「各人の思い」を生きている存在なのです。
同志なのです。