『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【1677】「死」がないとわかった時、「時間」は流れなくなる。「現在」しかなくなる。

2008-12-31 05:54:19 | 思索

③『人が死を意識できるのは、他人の死を見る時だけです。

自分が死んだ時は、自分はもういないのだから、自分が自分の死を知ることはできない。

自分の死は、「ない」のです。

人はよく、「死に方」と「死」を一緒にしてしまっている。

死に方とは、ギリギリのところまで、生の側にあります。

「死に方」は選べても、「死」は選べない。

死は、向こうから来るものです。

死は、人生のどこにもない。

そう認識すれば、現在しかない、

「すべてが現在である」ということに気づくはずです。

人は死があると思って生きているから、生まれてから死に向かって時間は流れていると思っています。

社会もその前提で動いています。

真実はそうではない。

死がないとわかった時、時間は流れなくなるのです。

そうすると、現在しかなくなってしまう。

そうなれば、過去もこの現在にあるということに気づく。

それが、年齢を重ねるということの面白さでもあるのです。

現在という瞬間に時間が層をなしている。

年をとると、その層がだんだんと厚みを増してきますから、
反芻することが非常に面白くなってきます。

現在を味わうこと、現在において過去を味わうことが、
年をとることの醍醐味になる。』(p278)
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④『年をとると、みな歴史の本を読むようになりますが、なぜ歴史に帰るのか。

年を重ねると、自分の歴史と人類の歴史が重なってくるからです。

人間はこんなふうに地上に生まれ、ここまでやってきたということが、
まるで、自分のことのように感じられる。

年をとることは、ある意味で個人を捨てていくことと思う。

近代以降の人間は、個人というものを信じ込んでいますが、
個人なんて、本当はないのです。

自分がこの肉体のこの某でと思ってしまったから、
人はどんどん小さくなっていった。

そう思ってしまったから、自分が死んでしまうのが怖いとか、
これだけが人生だという話になってしまったのです。

しかし、そうではない。
「自分」とは、そんな個人に限定されるものではなく、
人類や精神、宇宙とは何かという思索のなかで存在する不思議なものです。

そういう自分を感じることを、現代人はすっかり忘れている。
それは、非常にもったいないことだと思う。

これを理解するには、今の思い込みをすべてひっくり返さなければいけない。

みんな『自分は誰それだ』と思い込んでいるから、
まず、それを外すことからしなければいけない。

「人生一回切りだ」と言いながら、墓を作る。
それは、一回切りだなんて思っていないということじゃないの、ということでしょう。

そこには、なんとなく続いてゆくという気持ちがある。

そういう漠然としてイメージを捨て、一度きっちりと考えてみればいいのです。

きっちり考えれば、生き死にというこのおかしな現象、それが成り立つこの宇宙というものが、
なんて奇妙な存在であるかに、必ず気がつくはずです。

その時、思索が個人を超えていくのです。

少なくとも、死が恐かったり、今の人生のしがみついている自分がなさけなかったりするのなら、
そう考えればいい。

人間はまだ、死をおしまいと考えていますが、ひっょとしたら、
死は始まりかもしれないのです。』(p281)
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★上のなかで印象的だったのは、題名にも書いたように、
「死がないとわかった時、時間は流れなくなるのです。」という文です。

この文を反対から言いますと、
『「死」があると思っている時には、「時間」が流れている』となります。(^^;ゞ

『「思っている」ときには、流れている』のですから、
「時間は存在していて、流れている!」の前提は、「思っていること(思っている内容)」なのです。

つまりこれは、「唯識のこと」です。 「唯識の説明」なのです。

宇宙には、ただただ、「各人の思い」だけがあるのです。
「純粋な客観的事実」はないのです。

そして、道端で出会う他人のすべても、宇宙のなかで、
「各人の思い」を生きている存在なのです。
同志なのです。

【1675】『人生には、守るものなんか何にもないんですからね。』

2008-12-31 05:32:51 | 思索
以下に、『人生は愉快だ』からいくつかを抜粋します。
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①『後悔という非生産的な行為を、生産的な行為に変える方法がひとつだけあります。

それは、後悔しないで、反省するということです。

「即興的に、楽に生きたい」とお望みなら、思い切って、
何でもやっちゃたら 如何ですか?

「たかが人生」という居直りも、なかなか気持ちのいいものですよ。

よく考えてみると、人生には、守るものなんか何にもないんですからね。』(p215)

【1674】『気がつけば、錯覚としての悩みや苦しみは脱落します。』

2008-12-31 05:08:26 | 思索
池田晶子さんの、同じような内容の文章は、何十回も読んでいるはずなのに、
読むといつも「目からウロコ」が落ちる気がして、「そうか、分かった!」という、
新鮮ですがすがしい気持ちになります。(^^;ゞ

これは、昌美氏や五井氏の文章を読んでいる時にも起こる現象でして、
それはたぶん、「真理は、いつも新鮮」であるということでもあり、そしてそれは同時に、
「人間は、すぐに真理から、離れてしまう」ということでもあります。(^^;ゞ

人間は、「まだらボケ(まだら模様の想念をもった存在)」のようです。(^^;ゞ

彼らの文章を読むと、「自分のなかにある真理」に光が当って、「自分」が堕ちるのです。(^^;ゞ

そして「堕ちた」分だけ、「自分の心」が自由になるのです。(^^;ゞ
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【プロローグー考える人生】より

■『生きている限り、人は死ぬのは当たり前で、
 この当たり前を当たり前として認識しているかどうかで、
人の人生観は全然違ったものになるようです。

今のここの死があるからこそ、
今のここの生はあるのだと思えば、
人生は長いとか短いとか言いようもなくなるはずだからです。

だって、いつだって、「この今」しかないのだから。

「この今」しかないのだと気づけば、先のことをあれこれ悩んで苦しむことはなくなるようです。

悩みや苦しみというのは、人生に先があるとする錯覚的時間認識が作り出す、
まあ、一種の「気の迷い」みたいなもんでしょう。

未来への不安、もしくは過去への後悔、いずれも「時間認識の勘違い」です。

だって、未来や過去を悩んだり苦しんだりしているのは、
まさしく、この現在ではないですか。

あ、なんだ。
と、気がつけば、錯覚としての悩みや苦しみは脱落します。

そして、なんらそういう感情が湧かなくなり、逆に楽しみや喜びといった感情が
湧いてくるようになるようです。

むろん、悩みや苦しみのタネは変わらずに存在しますよね。
我々は生身の存在だからです。

仕事上の悩みが存在すれば、病の苦しみだって存在する。
それは偽りのない事実です。

しかし、それらを言わば受け身で悩み苦しんでいるということではなくて、
妙な言い方ですが、悩むことを楽しむとか、苦しむことを喜ぶとか、
そんな風に変えられるようです。

要するに、楽しみや喜びというのは、どこか外になるものではなくて、
自分の側の「心の構え」のことだということです。

それを楽しんでやろう構えでいれば、それが何なのであれ、
それはその人にとって、楽しみとなるはずです。

楽しむということは、今しか存在しないのだから、
その今を楽しむこと以外ではないでしょう。』(p12)

【1673】『老子は言った!』

2008-12-31 04:01:54 | 思索
『人生は愉快だ』池田晶子著が手元に来て、
数ページを読んで感じたことが、詩のかたちで浮かびました。(^^;ゞ
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【老子は言った!】

「他人」とは、「自分の思う他人」である。

「自分」とは、「自分の思う他人」である。

「宇宙」もまた、「自分の思う他人」である。

「愛」もまた、「自分の思う愛」である。

・・・・・・・・と、老子が言った。

【1672】人間とは何か?(「存在と死と時間」の物語)

2008-12-31 03:56:36 | 思索
池田晶子さんの『人生は愉快だ』を読んで、
人間には、「本質に関心があって、それを見極めようとする人」と、そうでない人がいるのだと、
つくづく思いました。(^^;ゞ

そして、「本質を見極めようとする人」は、いずれは本質を見極めて、
「平和な心(受容の心)」で生きられるのだと思うのです。(^^;ゞ

(これは、本質に目覚めた分だけ「平和な心(受容の心)」でいられるということでもあります。
それは「白か黒か」の状態ではではなくて、「本質の見極め」とそれに伴う「平和な心(受容の心)」は「まだら模様」ということです。)

(これは、「平和な心(受容の心)」自体が、良いとか悪いとかいうことでもないし、本質を見極めようとする人が、良い人で、そうでない人が悪い人ということでもありませんので、念のため)(^^;ゞ

それでも、「白光の教え」につながっている人は、本質を求めて、ある程度(笑)、
人それぞれの程度で「平和な心(受容の心)」に至った人ですが、
これも、良い悪いということではありません。

仏教者やキリスト教徒やイスラム教徒の中にも、本質を知った人がいるでしょうし、
宗教とは関係がなくても、自分の人生を悟って(=全面的に受容して)、
なんの迷いもなく生きている人は沢山います。(^^;ゞ

「本質を知ろうとするかどうか」は、個人の問題ですので、
「他人が手出しできる領域」のことではないのですが、
それでも何かのきっかけになればと思って、
昌美氏や五井氏の言葉を読んでもらおうと思う私です。(^^;ゞ

「人類が救われる」というのは、どういう状態なのかというと、
すべての人が「平和な心(受容の心)」になるということです。

そして、あらゆることは「そうなるためのプロセス」なのですが、
このプロセスは『時間的な経過』ではないのです。

「平和な心(受容の心)」になるときには、一瞬にしてなるのです。
時間を飛び越えてなるのです。

これが「まだら模様」の意味です。(^^;ゞ

世界とは、プロセスではなくて、『一瞬の今』なのです。

★今日の文章が、こういう結論に達したのにはワケがあります。(^^;ゞ

 それは、このあとに載せる『人生は愉快だ』(池田晶子著)を読んだ印象に起因します。(^^;ゞ

とても感銘を受けて、「本質を、一応言葉で理解することができた」のです。(^^;ゞ

いままで不明であったことに、「言葉の光(=理解)」が当った感じがします。

それらを題していえば、【「存在と死と時間」の物語】です。

『人間とは何か?』という問いに、いまの私が答えるとすると、
【「本質を知ろうという意識」の途中経過の想念が、肉体に宿っている状態】かな。(^。^?

2008年に読んで、一番良かった本

2008-12-31 02:57:48 | 思索
昨日(30日)は、毎年の恒例で、「アリスのおせち料理セット」を作りました。(^^;ゞ

そのおせち料理に、私の描いた干支の絵のコピーをおまけに付けています。(^^;ゞ

すぐに飾れるように、透明な袋に入れてお渡しするのですが、今年は
それにプラスして、『私が2008年に読んで、良かった本をご紹介します』と題して、
このプログでも紹介した二つの文章(【1637】と【1633】)をA3の用紙一枚にプリントして同封ました。

いつも、お世話になっているお客さん(主に店舗の方)にも、差し上げたので、
合計して80枚ぐらいを配ることになります。

私としては一応(笑)、「真理の光(本質を語った言葉)」を配っているつもりです。(^^;ゞ

二つの文章のうちで、なぜ【1637】を先にしたのかいうと、
『人間の一番の望み』は理性的な内容で、客観的で分かりやすいからです。

そして、【1633】は、「白光の教え」の本質中の本質だと思います。(^^;ゞ

【1633】の文章を読むと、心が洗われた気がします。(^^;ゞ

【1671】2009年7月の行事や、如何に(^。^?

2008-12-30 04:31:07 | 思索
昨年の7月の行事は、私にとって、とても印象深いものでした。(^^;ゞ

それで、2009年7月の行事がどのようなものであるのかは、
今の私にとって、とても関心のあることです。

具体的な内容はわからないのですが、白光誌1月号に以下のような文が載っていましたので、
行事に向けて、「自分の意識」を高めていこう(笑)と思いました。(^^;ゞ
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■『2009年7月には、果因説による大成就の共磁場を創り上げる神事が、
全く新しく始まろうとしている。

これこそ、全人類の未来を決定的に変えてゆく大神事であり、秘事である。

この大神事への参加がかなう人々は、今までのいかなる神事や行事より徹底した高次元意識を
保たなければならない。

そうしなけければ、自らの肉体を通しての秘事が出来かねるのである。』(p3)
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★「秘事」というのは、内容がわかっていないという意味だと思うのですが、
 この7月の行事で行われることが、地球の未来、人類の未来を光明の方向に、
積極的に切り開いてゆくことであり、維持会員の役割、しいては「私の役割」であると思えるのです。

そして、この『知足日記』を書き続けていていること自体が、
2009年の7月行事に向けてのエピローグ(?)だという気がします。(^^;ゞ

このプログでの「思索と書き込み」が収れんしてゆく方向が、
「高次元波動の世界へ、自分を創りあげてゆくプロセス」だと思うのです。(^^;ゞ

★上の文章、言葉をあまり吟味しないで書きましたので、
言葉が足りず、「意味不明」な部分があるかも知れませんが、
「心情を述べた文章」としてお読みください。 (^^;ゞ

【1670】「個人の自立」というビジョンを持とう!

2008-12-30 04:07:09 | 思索
白光誌1月号で、印象に残った言葉は「個人の自立」と「ビジョン」です。(^^;ゞ
その中のいくつかを紹介します。
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■『私たちがすべきこととは、個の自立という目標に向かい、自分、
そして相手がすべての不安、依存から解放され、神と一つである自分への信頼を取り戻すことで、
自立の道に移行できるように導くことなのであります。

真の自立に向かった今の選択、決断をすることです。

いくら泣かれても、悲しい思いをしても、
その決断により、自分や相手が自立という新たな一歩へと踏み出せるならば、
その選択や決断は、自分や相手の可能性を広げる素晴らしい道への第一歩なのです。』(p33)

■『未来のビジョンに向かった、未来のビジョンにつながるアドバイスは、
未来の可能性を広げる選択をするということであります』(p33)

■『本当に、人間はビジョンと夢があれば、生きていかれるんですよね。』(p27)
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★「ビジョンが持てていない想念」は、迷っている想念です。(^^;ゞ
 「客観的事実」として、そういうことだと思うのです。(^^;ゞ

ビジョンにも色々とあります。ピンからキリまであります。
ビジョンの内容は、人それぞれです。(^^;ゞ

それでも、
自分で考えることができる範囲の「高次元のビジョン」を持って生きれば生きるほど、
「自分の人生(各人の人生)」を豊かにすることができると思うのです。

【1669】モノからコトへ

2008-12-30 03:56:41 | 思索
「物質から精神へ」とか、「物質主義から精神主義へ」などとよく言われますが、
それは、時代のニーズが「モノからコトへ」と変わったということです。

「コト」とは、「サービス」のことですから、
「便利という思い」が、商品として取り扱われて、
報酬を得ることができる時代に、今後ますますなっていくのです。

これは、時代が「半霊半物質の世界」に移行しているということかも知れません。(^^;ゞ

企業の競争力は、物の品質だけではなくて、
「どのようなサービスを提供できるのか?」という視点で考えることが重要な時代になったのです。

ちなみに「アリス」は、随分と前から「無料配達サービス」をしています。(^^;ゞ

思い出してみると、それは、私が20歳代の後半に、
パン屋さんをしていた頃からのことでした。(^^;ゞ

私は「配達」をして、喜ばれるのが好きなようです。(^^;ゞ

【1668】「資本主義の変遷」があった。「消えてゆく姿」があった。

2008-12-29 02:25:13 | 思索
昨日の朝日新聞の『耕論』に、品川正治氏(経済同友会終身幹事)の
『人間をみようとしない経営』という文章が載っていました。

現在のような「雇用危機」を招いた原因は、
「企業の利益は、株主や資本家のもの」という価値観に基づいたアメリカ型資本主義を是とする政治家(国会)による「労働者派遣法の規制緩和」なのだそうです。

そして、当時の政治家たちによる小泉政権を、是として選んだのは私たち国民だったと思うのです。

国際競争力という金看板を掲げられて、納得せざるを得なかったのかも知れませんが、
当時の私たちの意識は、「利益追求のみが善であること」を認めてしまったのです。
以下は、品川正治氏の文章です。

■『これまでの日本の資本主義には、果実は国民が分けるという実質があった。
それが修正主義と批判され、果実は株主や資本家のものという考えが幅を利かせた。

いったん回復した景気の実感さえ得られないまま、
リストラという名目で労働者への分配は減らされ、
浮いた利益を配当に回すことで、経営者の報酬を増す。

そういう米国型の経営手法が当然とされてきた。

非正規労働者を調整のための「物」とみなす風潮の横行に今年、
労働者の危機感は高まった。』

■『経営者は本来、資本家のためだけでなく、
従業員や代理店など、すべての利害関係者のために仕事をするものだ』
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★どの企業も、物を売ることによって利益を得て、経営をしています。
 
 それなのに、たとえ派遣社員であろうとも、自社の社員に、
自社製品を買えない程度の給料しか払わないのだとしたら、
「大いなる矛盾」だと思うのです。

労働者(労働力)を「物」と見ていたのでは、経済は成り立たないのです。

自社の利益(金銭)のみを追求する経営手法では、
経済全体が破綻する方向に進むのです。

「社会全体」とは何か?
「社会全体の利益」とは何か?
「全体のつながり」とは何か?
という視点を持って経営して欲しいと思うのです。

すべては、つながっているのです。(^^;ゞ

【1667】「路頭に迷わすな」(ワークシュアリングとセーフティーネット)

2008-12-28 15:15:25 | 思索
【1666】では、「人生を大いに楽しもう」などと気楽なことを書きましたが、(^^;ゞ
世間では「派遣切り」などの雇用不安が問題になっています。

このプログのテーマ(唯識)に沿って語れば、
「雇用不安もプロセス」ということになります。

そして、『すべて必要。すべて良し』なのですから、
「すべては、必要な経験」ということになります。

「私たちの意識」が、必要な経験として、
「派遣切り」という雇用不安を起こしているという「論理」です。

「派遣切り(雇用不安)」を、「必要な経験」とするためには、
死んではいけません。自殺してはいけません。

「なんとしてでも、生き延びましょう」というのが、このブログ(唯識)の論理であり結論です。

農業就労や介護職などなど、
「他人のためになることによって自分が生きていく方法」はいくらでもあります。

「雇用不安」という過渡期を生き抜いた経験は、各人の人生の財産です。

そう考えれば、前方には「輝かしい未来」しかありません。

だだ、私が気がかりなのは、「冬の夜は寒い!」ということです。
官民が一丸となって、寝場所を確保してあげましょう。
同胞を、街頭に迷わせてはいけません。

今日の朝日新聞の『声』欄にも載っていたのですが、
仏教者は、たとえば寺を、一時的な寝場所として提供できないのでしょうか?

【1666】私はただ、この世界に「我即神也」を実現してゆけば良いだけなのである!

2008-12-27 02:34:42 | 思索
『生かされていることに感謝』(エッセー)を読んだあとに寝て起床し、
『起床時の呼吸法の唱名』をしている最中に浮かんだ言葉です。(^^;ゞ

■【私は、ただ、この世界に、「我即神也」を実現してゆけば良いだけなのである。
どうせ(笑)、神さまから、もらった命なのである。】

★「どうせ」という言い方は、適切でないのかも知れませんが・・・・・。(^^;ゞ

この言葉は、「力強い」と思いました。

なんの迷いもなく、「我即神也」を実現してゆけそうな予感がします。(^^;ゞ

「我即神也を実現する」とは、自分の無限なる可能性を表していくことです。

『この世とは、所詮「消えてゆく姿」である』という実感が湧いてきました。(^^;ゞ

『良いも悪いもない』のです。(^^;ゞ

パンを食べているこの命も、
バイキングに興じているこの命も、
一生懸命に働いているこの命も、
思索しているこの命も、
所詮「消えてゆく姿」であり、
神さまからもらった命なのです。

なんと有り難いことか!

お互いに、自分の人生を『人生は愉快だ』の気持ちで、
おおいに楽しもうではありませんか!

■冒頭のテーマを書き換えますと、
『私は、この世界に、自分の無限なる可能性を実現してゆく者である』となります。


生かされていることに感謝

【1665】「人類の意識」の進化と「不変意識」と「真の個人主義」

2008-12-26 04:11:03 | 思索
それにしても、「国家」や「国民」というものが、本当に存在するのでしょうか(^。^?

「国家」や「国民」という考え方(想念)は、
「人類の意識の進化」の中での過渡期の思考(プロセス)だと思うのです。

そして、「人類の意識」のもっとも進化したものが「光明思想」であり、
それが、「真の個人主義」だと思うのです。(^^;ゞ

■北京の美容室には、「髪形のカッコ良さ」を求めて、
日本人の美容師に弟子入りして、技術を習っている若い中国人がたくさんいます。

その一方で、「日本は、中国を侵略などしていない」という国家観の人がいて、
同時代を生きている。

一体、この世界観の違いは何なのでしょうか?

ある意味それは、「世代意識の違い」なのかも知れませんが、(^^;ゞ

一体、私たちは、どのような意識を生きるべきなのでしょうか(^。^?

「普遍なる意識」はあるのでしょうか?

それの手がかりとなるのが、「神意識」、「光明意識」という言葉です。

■話は変わりますが、
一体、「地球全体」「人類全体」とは何なのでしょうか?

一体、「人間のしあわせ」とは何なのでしょうか?

一体、「人類のしあわせ」とは何なのでしょうか?

一体、「私のしあわせ」とは、何なのでしょうか?

■この頃よく考えるのは、「全体的に考えて」ということです。

この「全体的」という枠をどこまで広げるのかによって、
「各人の生き方」が変わります。(^^;ゞ

人間を「霊的な存在」と考えたり、「宇宙的な存在」と考えることは、
「全体性の中の自分」に目覚めることです。

■「より良く生きるために必要なこと」は、真理を知ること!

真理のひとつは、【反省なくして、「消えてゆく姿」はない】ということ。
もうひとつは、【過去も未来もなく、今しかない】ということ。

この二つを深く理解することによって、「自分の人生」を、
「普遍意識」でより良く生きることができると思うのです。

そして、理解できたのなら、それを表しましょうというのが「白光の教え」です。(^^;ゞ

「白光の教え」を聴くと、「さあやるぞ!」(笑)という喜びの思いが湧いてくるのですが、
それは「私だけ」なのでしょうか(^。^?

【1664】「戦争や力の論理」とは、無明である

2008-12-25 04:55:47 | 思索
ほんとうは、波動神氏は気づいているのです。
奥深いところでは知っているのです。

けれども職業的に、「戦争や力の論理」を強調しないと、
自分たちの存在価値がなくなると思っているのかも知れません。

私はこの論理は反対だと思うのです。(^^;ゞ

『自分たち自衛隊員(軍人)は、国民の安全を守るための黒子である。
国民に奉仕するための存在である。』という謙虚さが必要です。

それを実現する方法が、文民統制(シビリアンコントロール)なのです。

「戦争や力の論理」主導では、ダメなのです。
自衛隊主導では、「過去の過ち」を犯してしまうのです。

自衛隊のトップは、特に謙虚でなければならないのです。

その後のNHKの番組で、防衛大学の学長である五百籏頭真氏が、
そういう文民統制の考え方を学生たちに浸透させる努力をしているされていることを知りました。

五百籏頭真氏は、その前任者である西村氏の意思をついでおられて、
自分たちの立ち位置を謙虚に内省する言動をされていました。

五百籏頭真氏