『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【732】おじいちゃんの成長(*^_^*)

2006-08-31 22:05:10 | 思索
とにかく、「孫が、可愛くて仕方がない」「目の中に入れても、痛くない」ということなのですが、
その感情は、経験してみるまで分かりませんでした。(^^;ゞ

この「経験してみるまで分からない」ということは、面白いことでして、
以前にも書きましたが、自分の父母や、家内の両親が、どのような気持ちで、
我が家の子供たちのことを思っていたのかが、30年経って、
ジクソーパズルをするように解明できるのは、とても興味深いことです。(*^_^*)

父権的で権威主義な人に孫ができると、穏和で謙虚な性格に変わることが多いようです。

特に、おじいちゃんの性格が変わるのは、自分の娘が生んだ「赤ちゃん」というのもポイント(笑)のようです。
攻撃的な性格の人が、謙虚な人になることが多いそうです。(*^_^*)
私は、違いますが(^^;ゞ

何故なのでしょうか(^。^?
「孫」の誕生が、おじいちゃんの何を変えるのでしょうか?

これはたんなる想像ですが、
「小さな孫」は、周りに助けられてしか生きられない存在なので、
周りに対して、「この孫をよろしく頼みますよ」という気になり、
周りへの感謝が湧いてきて、謙虚になるように思うのです。

【731】孫は不思議(*^_^*)

2006-08-30 21:50:28 | 思索
「存在」は、不思議です。
特に、孫の存在は、とても不思議です。(^^;ゞ

まず第一に、「無」から生じていることが不思議です。

今眼の前にいる「孫」の肉体は、どこからやってきたのでしょう。(^。^?
何を核にして、物質(肉体)が構成されたのか(^。^?
肉体だけでは、「孫」ではありませんね。人格としての「孫」は、どこからやってきたのか?

偶然に、ある人格を持って生まれてきて、「孫(存在)」があるのか?

母体から「赤ちゃん」が生まれることも、不思議ですが、
そんなことをいったら、種から花が咲くのも不思議でして、(^^;ゞ きりがありませんね。

とにかく何から何まで、不思議だらけの世界に、私たちは、「存在」しているようです。(*^_^*)

霊的にみれば、霊界でカタチ作られて、人格を持った「孫」が、肉体界に現れたようです。

この「存在と無」の不思議さを、無分別心で、裏から解釈したのが、
『人間と真実の生き方』だと思うのです。

つまり、人間とは、『「思い」の消えてゆく姿』だという解釈も出来るというわけです。

これが、『人間は、業想念の浄化装置』ということです。

これは同時に、「ゴチャゴチャと、自分中心に考えるほど、苦しくなる」ということも表わしています。(*^_^*)

本来、「存在」を考えることは出来ないと思うのです。
なぜなら、私たちは、「存在」の外に出られないから、「存在」を対象化できない。
つまり、「存在」は、「存在」を客観的には把握できないのです。(^^;ゞ

それにしても、「孫」は可愛いですね。想像力のない私は、
「孫」を持つまで、この「可愛さ」を知りませんでした。(^^;ゞ

その「かわいさ」は、どこからくるのでしょうか?

【730】『人間と真実の生き方』再考

2006-08-29 21:39:30 | 思索
『人間と真実の生き方』は短い文章ですが、不思議なことに、何回読んでも「発見」があるのです。
なぜ毎回、「発見」と感じるのかについて、考えてみました。

何故かというと、私たちはすぐに、『自分が神の分霊である』ことを忘れてしまうからなのです。
気付いていられるのは、「意識していられる間」だけなのです。(^^;ゞ

人間の脳には、1分間に2400もの想念が行き来するそうで、
自分でも気付かない間に、思考の渦に巻き込まれてしまい、
肉体界の三次元的な算段を、「ああだこうだ」としてしまうのです。(^^;ゞ

ですから、自然と「自分の意識」を忘れしまうのが、私たちなのです。

けれども、三次元の損得の算段をするよりは、把われなく、「世界平和の祈り」をすれば、
自ずから、「良い結果」になるのだそうです。(*^_^*)

後半の『消え去るのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起こし』も、
まさに、「不要な算段」をしないで、「世界平和の祈り」(善念)を唱えていれば、良いのですよ」ということなのです。

そのことを、ついつい忘れてしまうので、『人間と真実の生き方』を唱えると、「意識」が目覚めて、新たな発見をしたような気になるのです。(いつも、「新たな」と思えることが、不思議です!)(^。^?

この「何回読んでも、忘れる」というのは、一体何なのか?
そして、読むたびに、思い出すとは、何なのか?
私たちは、いったい何を思い出しているのでしょうか?(笑)

肉体界の損得の算段をして行動するよりは、「世界平和の祈り」をして、心を天に置いて、
把われなく行動したら、自然に自分の天命が完とうされるのだそうです。

「思考停止」、「下手な考え休むににたり」、「理性は、考えに考えて、間違う」ですね。(^^;ゞ

思考を停止する方法が、「世界平和の祈り」と「印」。
思考で、思考を止めることはできません。

【729】守護霊の力を強める「印」の効果

2006-08-28 21:33:37 | 「白光」の教え
「他人さん」のために、その方の天命を祈って、人類印を組みますと、
私の守護霊さんと、相手の守護霊さんの話が通じて、力を貸すことができて、
その方の守護霊さんの力が数十倍になり、大難を小難にしたり、小難を無難にしてくれるのだそうです。

その方がもし「癌」で、死の真近にいたとしても、
第一寿命や、第二寿命、第三寿命というのがありまして、
癌の末期であったとしても、命を救えることがあるのだそうです。

佐久間筆八さんのお話によりますと、
そのくらい、「印」の力は大きいとのことです。(*^_^*)

【728】苦しみは、修行(*^_^*)

2006-08-27 19:36:04 | 思索
「苦しみは、修行」と思えたら、楽なのかも知れません。
「人間は、スピリチュアルな存在」的には、そういうことだと思うのです。(*^_^*)

他人も私も、修行中の身。
ホリエモンも村上さんも、世界中のすべての人は、修行中の身なのです。

そのように看破(笑)出来ますと、「罪を憎んで人を憎まず」精神のように、
すべての人を許してあげたいような、慈しみ深い気持ちになれます。

他人様は、「ご修行中の身」なのです。

一ヶ月ほど前から、職場の女性が、自分でダイエットを始めました。
かがんだ時に、膝が痛かったそうですが、治ったそうです。(*^_^*)

私は「その人即神也」の人類印を組んで、天命を祈っていたのですが、
本気で取り組んでくれて、体重が8キロ減りました。

彼女はタバコも吸っていて、私は「やめたほうがよい」と思っていましたが、
ある朝、彼女の声が出なくなり、本人も納得して、禁煙中でもあります。

肥え過ぎて苦しかったり、咽が痛かったりするのは、「修行」だと思うのです。
その苦しみを通じて、本人の魂が成長するのです。

★「極楽100年の修行は、穢土1日の修行に及ばず」(『オーラの泉』)なのだそうです。
 穢土とは、汚れた水(世間)のことです。

楽な修行では、魂は大成長しません。(^^;ゞ

【727】それぞれに、魂の計画がある

2006-08-26 23:42:43 | 思索
男女には、「魂の計画」に違いがあると思うのです。
ということは、女児の人数が多い現代は、そういう傾向の「魂の計画」の時期なのなのでしょうね。(^^;ゞ

家内によると、我が家では、次男(現コピーライター)は、難しい時期があったそうです。
私は、自分の価値観で生きたい次男の気持ちがとてもよく理解できたので、
「難しい」とは思わなかったのですが、女性脳の家内には、理解できない行動が多かったのだと思います。

「魂の計画が、違う」という言葉が浮んだあとに思ったのは、
「私の人生を、他人の人生と比べる必要がない」ということです。

それぞれの「魂の計画」が違っているのですから、比べること自体が、無意味なのです。

誰かの人生を羨ましく思ったり、蔑んだりすること自体が、間違いなのです。
自分の持ち場で、一生懸命にやることだけが、その人の「魂の計画」であり、「人生」なのです。

【726】男の子と女の子の違い

2006-08-25 22:02:50 | 思索
家内と、男の子と女の子と、どちらが育て易いか(笑)という話をしたことがあります。
【725】の「男性のリアリティー観と女性のリアリティー観」に関係があると思うのです。

男の子は、14歳ぐらいに「難しい時期を迎える」そうです。「引きこもり」の多くは、男性です。
自分を振り返ってみても、「世間との折り合い」をどのようにつけたらよいのかと、けっこう悩んでいました。
「社会に出て、働いて、稼がなければならない」というプレッシャーは、相当に重いものでした。(^^;ゞ

勉強をして、認められ、誉められることが、自分の存在証明(アイデンティ-)になっていました。(^^;ゞ
自分を、「職業」という型にはめるために生きるのは、辛いことです。

その点、少女の場合は、そのようなプレッシャーも少ないですし、
「考え方」が現実的なので、抽象的な悩み(「人は、なぜ生きるのか?」とか)に悩まされることも
すくなく、男子に比べると、陽気だと思うのです。(^^;ゞ

それにしても、最近は、女児の出産が多いそうです。
小学校のクラスでも、女子の人数が、明らかに多いそうです。

【725】男性のリアリティーと女性のリアリティー

2006-08-24 22:01:58 | 思索
家内と話して、いつも食い違う(笑)のは、自分の『感情』にリアリティー(真実)があると思う彼女と、
『事実』にリアリティー(真実)があると考える私の違いです。(*^_^*)

例えば、「死んだ父親には、もう会えないのだなあ」という『感情』は絶対であり、リアリティーがあると思う彼女と、
「死んだのだから、会えないのは当りまえ」という『事実』にリアリティーがあり、
「感情」は変化してゆくものと考える私との「違い」です。

この「男女の違い」は、かなり一般的だと思うのです。

「暑いという自分の気持ち」に真実(リアリティー)があると思う女性と、
「暑さは、気持ちの問題だ」と考える男性の違いは、
 男女の脳の構造の違いによるのだそうです。

男女が、外界に対して、違う感じ方をしているとしたら、
「別の世界」に住んでいることになるのですから、
根本的に、話が通じるはずがないのです。

簡単にいうと、「思い込み」が強い女性と、その「思い込み」を信じていない男性の違いですが、
「思い込み」は、「信念」に通じますので、女性は、理屈なしに「神」を信じられるようです。

ところが、男性(私)はというと、論理的に考えて間違いないと思えないと、「信念」がもてない、
やっかいな存在のようです。(^^;ゞ

【724】スランプも、なんのその。スランプ万歳\(^o^)/

2006-08-23 21:49:20 | 思索
「スランプ」もまた、「消えてゆく姿」なのですから、別に心配はしていません。(^^;ゞ

それで、スランプが教えてくれるものは、何かと言いますと、
「スランプもあるよ」ということなのです。

「スランプもあるけれども、把われないで、流れのままに、祈っていこう」と思えたとき、
「スランプ」が、気にならなくなったのです。(^^;ゞ

こういう気持ちになれて、解放された感じがし、その時に浮かんだのは、「スランプ万歳」と思いました。(^^;ゞ


「世界平和の祈り」への捉われは、「業」だったのです。
「世界平和の祈り」は、落ちこぼれても、「消えてゆく姿」で救ってくれる教えだったのです。(^^;ゞ

【723】只今、スランプ中。「安易な心境」になっている(^^;ゞ

2006-08-22 21:51:24 | 思索
それで今、スランプ中なのです。(^^;ゞ
【722】の「私の天命」を、裏から考えますと、「私はただ、印を組んでいればよい」となってしまいます。
私の素行(業)が、多少悪くても(笑)、人類印を組むという天命を果たしていれば、「業」は「消えてゆく姿」で、
「実体のない泡末」なのだから、それで良い、絶対大丈夫という気持ちになってしまったのです。(^^;ゞ

この「呑気な気持ち」を、今までの「求道心(緊張した心)」と比べると、
なにか張り合いがなくて、もの頼りない感じがするのです。(^^;ゞ

安心しすぎて、呑気過ぎて、「安易な心境」に思えるのです。(^^;ゞ

これは、15日に8時間の「統一」をしたこととも関係するようです。
日々の「統一」の時間と比較するようになってしまったのです。

そして、「教えに把われている自分」にも、疑問を持つようになってしまって、
「朝」起きられなくなったのですが、このスランプも守護霊さんのご指導かも知れませんね。(*^_^*)

「自己イメージ」が、変化したのかも(*^_^*)

【722】人類救済の大事業(*^_^*)

2006-08-21 22:13:04 | 「白光」の教え
1991年8月の聖ヶ丘での法話テープの理事長さん(?)のお話を聞いて、大変なことに気付いてしまいました。(^^;ゞ

言葉では、わかっていたつもりですが、私は、以下のようなことを、「問われている存在」なのだと気付き、
ちょっと頭がクラクラ(笑)しました。(^^;ゞ

ですが、話の内容は論理的でして、「なるほど」と思えるのです。(^^;ゞ

■印を降ろされて以後の維持会員さんは、「人類救済の大事業」を担う一員なのだそうです。(^^;ゞ

以前は、五井氏と昌美氏のおふたりで、「人類の業」を浄める仕事をされていましたが、
印が降ろされてからは、維持会員も参加して、「人類救済の大事業」が行なわれるようになりました。

私は、「人類救済の大事業」に携わる一員として、「白光真宏会」に入ったとは思っていませんでした。(^^;ゞ

霊的にみると、五井氏(白光真宏会)と出会って、印を組んで人類を浄めるという「私の天命」は、
生まれる以前の約束で、決まっていたのだそうです。(^^;ゞ

維持会員になって2年半ですが、そういう天命を、あらためて意識しました。(^^;ゞ

「白光」さんは、本当に、なんの強要もしません。会員になっても、なんの「指示」もありません。(^^;ゞ
私は、先輩の会員さんの行動を見ながら、その心境の源を推し測ってきました。

そして、この頃になってやっと、先輩の会員さん達が、本気で「人類救済の大事業」を担うの一員として、
行動しておられることが、わかってきたのです。(^^;ゞ


「白光」さんに指示された行動は、私の「思い」から出た行為ではないと思います。

「白光」さんでは、「すべては、自分の問題」という考え方なので、組織ではあっても、命令はないし、
基本的には、他人には干渉しないのです。

「白光」さんは、すべてが自主的な探索の場なのです。
自分で探求したものしか、自分のものにはならないのです。(^^;ゞ

■それで私は、「印を使って人類を浄める」という役割が、「自分の天命」であることに気付いてしまったのです。(^^;ゞ

「すべては、スピリチュアルなこと(すべては、必然)」だと断言している私なのですから、
「生まれる前からすべては決まっていて、維持会員になり、印を組んで人類の救済をすること」を否定することは出来ないのです。(^^;ゞ

【721】戦争責任と「平和な心」(*^_^*)

2006-08-20 06:14:30 | 思索
「過去」は、「実体」としては終わっているのだから、悔やんでも意味がないのです。
「反省」をして、今後は、同じ間違いをしないようにすれば良いのです。

それが、「過去は、消えてゆく姿」の意味だと思うのです。

小泉首相が、8月15日に靖国神社に参拝したことの賛否が話題になっていて、
戦後の日中関係のいろいろな経緯なども含めて、NHKでも討論番組が放映されていました。

その番組を見ていて気付いたのは、賛否の分岐点は、先の戦争を「反省している」のか、
「肯定しようとしている」のかの違いだということです。


いまだに、共同体を維持する心情としての「国家」(ナショナリズム)という概念が幻想であることに気付かないことは、時代錯誤だと思うのです。「ナショナリズム」は20世紀の発想なのです。20世紀の「消えてゆく姿」なのだと思うのです。

21世紀の人類は、「人類の平和」を心に描く意識の存在なのです。

「人類の平和を願って、生きる」というと大仰に聞えますが、(^^;ゞ
それは、日々の心情のことなのです。

「人類の平和」を思って、「平和な心」を持つということは、自分のなかの「妬み」や「憎しみ」という感情と向き合うということです。

自分のなかの「妬み」や「憎しみ」という、他人を排除したいという心と向き合い、
そういう感情をコントロールできるようになってこそ、「平和な心」になれるのです。

戦争も平和も、自分の心の中の問題なのです。

石油のための戦争であっても、「敵に対する憎しみ」がなければ、戦争(殺戮)はできません。

政府は、「国家」という概念を使って、巧妙な方法で、国民に「他国に対する憎しみ」を植付けようとするので、注意しなければなりません。

不幸な戦争は、過去の因縁の「消えてゆく姿」でなのです。
私たちは、戦争を反省しながらも、「過去の記憶」に把われないで、
「今」に集中して、より良い未来を築いてゆける存在なのです。

このように考えられると、勇気が湧いてきます。

そして、「現在の戦争」を止めるために私たちに出来ることは、
自分の中の「妬み」や「憎しみ」と、向き合うことなのです。


【720】日々精進(*^_^*)

2006-08-19 22:19:56 | 思索
『他人からどのように思われのるかは、考えなくてもよい』などと書きますと、
不遜に聞えるかも知れませんが、反対でして、
『他人からどのように思われのるかは、考えなくてもよい』からこそ、日々精進なのです。(^^;ゞ

『他人からどのように思われのるかは、考えなくてもよい』ということは、
自分の行動の責任は、自分でとるということなのです。

「自分の行動の全責任は、自分でとる」となると、自分に向き合わざるを得ません。
自分の行動の結果を、他人の助言のせいには出来ないのです。

それで自然に、「自分の責任で、自分の道を歩むという覚悟」が生まれ、
コツコツと精進しながら、自分の道を歩むことになります。

「精進」というと、抹香くさい感じですが、(^^;ゞ
「祈りの生活」には、落ち着いた歓びがあるのです。

【719】他人からどのように思われるかは、考えなくてもよい(*^_^*)

2006-08-19 21:53:04 | 唯識
「自己イメージ」が大切だということは、誤解を承知で言えば、
「他人からどのように思われるのかは、考えなくてもよい」(笑)ということでもあります。(^^;ゞ

自分とは、「自分のイメージ」を生きて存在なのですから、構造的(笑)には、
人間は本来、「絶対に自由な存在」なはずなのです。(*^_^*)

それなのに、窮屈に考えて、把われてしまうのには、主にふたつの要因があります。

ひとつは、「他人からの評価」を考え過ぎてしまう場合であり、もうひとつは、
「自分の理想像」と今の自分のギャップを考え過ぎてしてしまう場合です。

そのような場合には、私たちは「いのち」の輝きを失っています。(^^;ゞ

「他人からの評価」にも「自分の理想像」にも、把われてはいけないのです。
大切なのは、「自分の今のいのち」に目覚めていて、輝かせることなのです。

「自分のいのちを、輝かせる」というと抽象的ですが、要するに、
「今、やるべきことを、一生懸命にしっかりとする」ということです。

大切なことは、何事にも、「把われない」ことです。(*^_^*)

■以前に、「過去はない」と書きました。

けれども、私たちに、「過去」がないわけではないのです。だれにも、「過去」はあるのです。
「過去はある」けれども、その「過去」に把われるないことが大切なのです。

「過去」はあるけれども、それは、私たちの記憶(思い)のなかにあるのであって、
「実体」としては、もう済んでしまっているのだから、「把われるな!」と自分に言い聞かすことが大切なのです。
「過去」に把われていると、「今の生命」が輝かないのです。

「教えに把われない」ことも、「自分のいのち」を輝かせるためには,必要なことです。

【718】考える必要がない(^^;ゞ

2006-08-18 21:07:51 | 思索
今日の朝は、どういう訳だか眠くて、起きられませんでした。(^^;ゞ
それで、「朝の祈り」も「印」も組めませんでした。

守護霊さんのチカラが、発揮されなかったのか、それとも、
これはこれで、「そういう状況も、受け入れられるあなたでありなさい」というメッセージなのか、
現世の私の智慧では、いまのところ、「不明」です。(^^;ゞ

でもまあ、あまり考え過ぎないようほうが、良いと思います。(^。^?

どちらにしろ、神さま(サムシンググレート)に生かされている「いのち」なのですから。(*^_^*)