『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【646】精神以外には、何もない(*^_^*)

2006-06-30 21:44:23 | 思索
「すべては、『思い』で出来ている」ということを、池田さん(哲学)の言葉でいうと、
「この世には、心(精神)しかない」ということです。

「すべては、スピリチュアルなことだ」というのも、同じ意味だと思うのです。
この世には、「精神」しかない。つまり、すべては「精神世界」なのです。

何回も村上さんを惹きあいに出して、恐縮ですが、(^^;ゞ
この世には、「村上さんの精神」があるだけであり、「拝金主義」も村上さんの精神なのです。

「お金儲けは、悪いことですか?」という記者会見をした時には、彼は「拝金主義という精神」だったのです。
そして、あとになって村上さんは、「自分は、拝金主義者だった」と気付くのだと思います。
そして、それが彼の精神の成長なのです。

ですから、今回の逮捕は、彼の魂の成長のために必要なことであり、
村上さんを指導する守護霊さんが仕組んだプロセスなのだと思うのです。

村上さんの「拝金主義」は、過去の因縁の「消えてゆく姿」なのです。

【645】「拝金主義」も、スピリチュアルなプロセスの一部

2006-06-29 22:07:59 | 思索
「人生という舞台」でも、すべては駆け引きなのでしょうか?(^^;ゞ

投資ファンドの村上さんが「儲けることは、いけないことですか?」と言っていましたね。
この言い方の裏には、「儲けることは、悪いことではない」という思いがあるようです。(^^;ゞ

彼の主張は、「お金儲けは、法律に触れなければ、価値のあることだ」ということのようです。
こういう考え方を、「拝金主義」というのだと思うのです。

拝金主義の何が良くないのかといいますと、「金銭(儲けること)」が目的になっているからです。
本来、「金銭」は、なんらかのサービスを受けるための手段であるのに、「儲けること」自体が目的になっていることが、
生き方として、「危うい」のです。(*^_^*)

私は今、「拝金主義は、良くない」と書きましたが、これは、「拝金主義は、絶対的な悪だ」という意味ではないのです。(^^;ゞ
何が「良くない」かと言いますと、「金銭」を得ることだけを目的とした行為(欲や業)が、不調和を生み出すので、本人の人生にとって「良くない」のです。

もうひとつ、思慮が浅いと思うのは、「金銭という物質がある」と思っていることです。
「金銭」は、人間の頭の中に、「思い」としてあるだけなのに、
「物質としての金銭がある」と思い込んでいるのは、哲学的な思慮に欠けていると思うのです。(^^;ゞ

「金銭」が3次元的な物質であると「思っている」ということは、「思っている」という意味のおいて、
精神的なことであり、それは「すべては、スピリチュアルなことだ」という意味と同じなのです。

この「すべて」の中に、「金銭」も「物」も「食べ物」も「自然」も含まれるのです。(*^_^*)

拝金主義者とは、「自分がお金に執着することは、スピリチュアルなこと」であり、自分の人生のプロセスの一部であることに気付いていない人たちのことです。

【644】すべては、駆け引きか(^。^?

2006-06-28 21:49:54 | 思索
サッカーの試合を見ていると、ボールをキープしている選手に足を引っ掛けたり、シャツを引っ張ったりしている場面を眼にすることがあり、「よくもまあ、あんなアンフェアーなことをするなあ。どんな気持ちでしているのだろうか?」と思い、なんのためにスポーツをしているのだろうかと、いぶかる気持ちが湧きます。(^^;ゞ

先日見た「メキシコとアルゼンチンの試合」では、そうやってぶつかりあった選手同士が、立ち上がりながら握手をしました。その場面をみて、すがすがしい気分になり、お互いのことを思い合って「いいなあ」と思ったのですが、
次の瞬間、反則を受けた選手のフリーキックのボールが、「得点」になりました。(*^_^*)

こうなると、ぶつかられた選手は「アンフェアーな行為をされてラッキー」と思って、握手したのではないか
ということが、疑問になります。(^。^?

もしそうなら、ぶつかられた選手の差し出した握手は、「思いやり」ではなかったことになります。(^^;ゞ
すべては、「駆け引きの途中」というになります。(^^;ゞ

私たちは、「アンフェアーという悪」に、関心を寄せがちですが、
「アンフェアーな行為」のなかにはリスクがあって、隠しおおせれば良いのですが、
バレてしまいますと、ペナルティーを科せられて、大きな損失が生じることがあるのです。

それも含めて、サッカーゲーム中の行為は、「すべてが、駆け引き」だとも考えられますが、
「人間の人生」の中では、「すべてが、駆け引き」と言えるのでしょうか?

【643】六十四歳での「成就」は何か(^。^?

2006-06-27 21:54:17 | 思索
西洋占星術のホロスコープでは、私は六十四歳のときに、なんらかのピーク(成就)があるそうです。

どのような「成功」があるのか、自分でもよくわかりませんが、
いま一番力を入れているのは、この『知足日記』のように思います。
正直、こんなに長く続くとは思っていませんでした。 (^^;ゞ

それでも、何故こんなに続いたのかを、考えてみますと、
『我即神也の宣言文』の中にある「私が語る言葉は、神そのものの言葉であり」に対応していると、ふっと思ったのです。(^^;ゞ

別に「神そのものの言葉を、語ること」が偉いということではなくて、(^^;ゞ
ほんとうのことを知りたい、真理を探究したいという気持ちが、自然と、
「神(真理)そのものの言葉を語る日記」になっているのだと思うのです。(^^;ゞ

そういう意味では、この『知足日記』が、六十四歳のピーク時に、なんらかのカタチになるのかも知れませんが、
あと、9年間もこのブログは、続くのでしょうか(^。^?

先日の「オーラの泉」の岡崎朋美さんの将来の結婚相手は、まだ身近には現れていないそうですから、
私の協力者も、時期をみて現れるのだと思います。とにかく、今、一生懸命にやるだけです。(*^_^*)


「出会い」の時には、そういう守護霊さんからのメッセージを、聴き漏らさないようにしないといけませんね。

【642】肉体の霊化とは(^。^?

2006-06-26 21:56:43 | 経験
スッキリと起きられた朝、目が覚めたと同時に思い浮かんだのは、
『肉体の霊化とは、自分の思いで自分を創り変えること』というフレーズでした。
こういうときに浮かぶ言葉は、以前に聴いた昌美氏の法話テープの内容などが多いです。

私は年のせいもあって、最近は頭頂部が薄くなってきました。(^^;ゞ  
それで、1年ほど前から、シャンプーをするときにマッサージをしながら、
「髪がたくさん、生える!」と念じていたら、その効果が出てきたようなのです。(^^;ゞ

私の体重も、一日一食で痩せたのではなくて、
私の望んだ54キロ(20代の)の体重になったのだと思うのです。

『肉体の霊化とは、「自分の思いの通りのカラダ」になること』です。
「思いが、世界(現実)を創っている」のですから、そういうことだと思うのです。

「我即神也」を信じれば、こんなことも出来ると思いますので試してみてくさい。(^^;ゞ

最近は、目がショボショボするときがあるので、「スッキリ、見える! 視力が良くなる!」を実践しようと思います。(*^_^*)

【641】空腹を感じたら、腹6分目がベスト(*^_^*)

2006-06-25 18:52:31 | 経験
昨日の朝は、眠くて「統一」が出来なかったけれども、今朝は3時半にすっきりと目が覚めました。
なにが違うのかと考えてみますと、「昼食の量」のようです。

毎日、午後一時前ぐらいに食事をするのですが、まだ空腹を感じていないのに食べたりしますと、
そのあとも、何か物足らない感じが残って、手近にあるものをつまんだりします。(^^;ゞ
その結果、食べる量が多くなり、翌朝すっきりと起きられないし、体も重い感じがするのです。

この頃は、食べ物を薦められても、「美味しそう」と思わなくなりました。(^^;ゞ
むしろ、「これを食べたら、体がしんどくなるだろうなあ」という思いが浮かび、
断ることが多くなりました。

今後はますます、空腹を感じてから、適量を食べるようにしようと思っています。
空腹でもないのに「段取り」(習慣)で食べると、体に負担が掛かるように思うのです。

【640】反省はすれど、後悔はせず(*^_^*)

2006-06-24 21:55:30 | 「白光」の教え
「売上げ減」がスピリチュアルなことならば、「売上げ増」もスピリチュアルなことなのです。

「思いが、叶う」というのは、「白光」のキャッチフレーズ(笑)なのですから、
それを試してみようと思いました。(^^;ゞ

「売上げ増」を思い描いて、イメージすることにしました。 

これは、大いなる実験です。(^^;ゞ
実際に、「思いが、叶うかどうか」の実験です。(*^_^*)

私は今まで、『御心のままに』と思って事象に任せていたので、「どうにかなるさ」という思いが強かったのですが、(^^;ゞ
そういう「思い」は、消極的なものだったのです。

これからは、「ドンドン、売れる!」を思い描いて、「願い」を叶えてみようと思いました。
(もちろん、「世界平和」も思い描いて、叶えます。)

真剣に祈って「売上げ増」が達成できなかったら、「白光」の教えは、間違っていた(笑)ことになります。(*^_^*)

でも、それもまた考え方でして、私の、ある時点での「弁当屋」としての役割が終われば、自然と辞めることになるのでしょうし、その先には、また新しい出会いや経験(=スピリチュアルな必然)が用意されているのだとは思います。(^^;ゞ

将来の私には、どのような出会いや経験が、用意されているのでしょうね。 楽しみです。(*^_^*)

【639】一生懸命に祈って、あとは『御心のまま』(*^_^*)

2006-06-23 22:03:18 | 思索
藤井寺の集会には、意気揚々と出掛けました。
お祈りのお陰で、『身も心も状況も、絶好調』という思いがあったからです。(^^;ゞ
「白光」に出会えて有難いと思っていました。(^。^?
そして、その次の日は、おかずが足らなくなるほどよく売れて、ますます天狗になっていました。(*^_^*)

ところがそれ以後、まったく売れない日々が続いたのです。
そのとき、「試されているな」とは思ったのですが、気分は落ち込むばかりです。(^^;ゞ
ですが、ふっと『御心のまま』と書いてあるメモが、眼にとまりました。

そうだ、この売上げ減も、『御心のまま』と思って受け止めれば良いのだと思ったのです。(^^;ゞ

一生懸命に誠意を持って仕事をしているのだし、祈っているのだから、あとは守護霊さん守護神さんに、
『御心のままに』と任せれば良いのだと思ったのです。(*^_^*)

そう思えた時、「これほど楽なことはないな」と思いました。(*^_^*)

ある時点で、不運だと思ったり、嫌だと思っても、「時間」が経って、あとから振り返ってみると、
必ず「消えてゆく姿」なのです。(*^_^*)

何事も一時的なことだし、「不運と思える状況」から学べることは沢山あります。
そういう失敗体験を積んで、次に、うまくやれば良いのです。

つまり、「売上げ減」もスピリチュル(必然であり)なことであり、『メッセージ』だったのです。

【638】本当に、祈るだけで良いの(^。^?

2006-06-22 22:03:39 | 「白光」の教え
昨日の続きです。
ほんとうに、「世界平和の祈り」だけで、良いのでしょうか。(^。^?

おそらく、それで良いのです。
それ以外に、私たちに出来ることは無いのです。たぶん。(^^;ゞ
なぜなら、本人の心を変えられるのは、本人だけだからです。
自分の「平和な心」は、自分で作り出すしかないのです、

また、「世界平和の祈り」という方法は、以下のようにも解釈できると思います。(^^;ゞ

「不調和に思える三次元的な現実に対して、物理的な善行為だけをしても、「世界」は平和にならない。
なぜなら、物理的な援助(善行為)で、助けられた人が、そのことによって、真に救済されるわけではないから。」
「救済」は、内面的な問題なのです。

「救済」や「世界平和の祈り」は、三次元的な物理的な援助(善行)とは、次元を異にした事柄なのです。

すべての出来事を、スピリチュアルなこと(すべては、必然である)と思えるようになりますと、
「世界平和の祈り」の意味が分かってくると思うのです。
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【637】祈りこそ最高の人助け(*^_^*)

2006-06-21 21:35:24 | 精神世界
「6月号の法話」の最後の部分です。

『自らが究極の真理に目覚めて、自らが本来内に持てる無限なる叡智を駆使し、自らを磨き高めあげてこそ、
失われていた神意識が蘇ってくるものなのである。それは神や聖者や他がしてくれることではなく、あくまでも、
自らが自らを救済するのである。

罪意識から神意識まで自らを高め上げてゆくことは、それこそ大変な意志力が必要となる。
だが、それこそが自らの意識の変革である。』p20

『神人は彼らに直接手を差し伸べて救済するのではなく、神人は人類に先駆けて、究極の祈り、世界平和の祈り、
人類即神也の印のバイブレーションを通して、彼らの魂に光、真理、癒しを黙って、与え続けてゆくのである。

人々の心、精神、魂は氷のように冷たく固く閉ざされてしまっている。それを溶かしてゆくのは、説教でもない、倫理でもない、援助でもない。救済でもない、金でもない。

ひたすら真理の光、癒しの愛を与えつづけ、「原罪」という意識を溶かしてゆくのである。人々の心から自己否定、自己抑圧を取り去り、自信と尊厳、高貴さを取り戻させてゆくのである。

自らの無限なる能力を引き出させ、自らの存在の素晴らしさを認識させてゆくのである。人類一人一人が皆このような道を辿る時、世界は自ずから世界平和に近づいてゆくのである。』p21

■ これら全体を要約しますと、
『只々、他者の魂が、真理に目覚めること願って、「世界平和の祈り」をする』ということだと思うのです。
そして、そのことが、「世界を平和にするための、お仕着せでない最も良い方法」だと思うのです。

なぜなら、「世界は、『思い』で出来ている」からなのです。
世界中の人が、平和な心になったとき、世界が平和になるのです。(*^_^*)

【636】神人の生き方が世界を変える(^^;ゞ

2006-06-20 22:08:34 | 「白光」の教え
以下は、「神人」について語られた画期的(?)な部分です。(少なくとも、私にとっては、眼からウロコ!)(^^;ゞ

『ゆえに、神人と称せられる高次元意識に目覚めた人々は、決して他の人々を直接に救済はしない。
勿論、二次的救済、寄付、ボランティア、働き、時間、労働を奉仕することは大切なことではなるが、あくまでも、
世界平和の祈り、人類即神也の印、光明思想徹底行、地球世界感謝行を通して、人類を究極の真理に目覚めさせる行為を行なうのである。

現象面の不幸、悲惨、苦悩、不調和などに把われず、内面、即ち人類一人一人の心の平和、心の平安、真理の目覚めに重きを置いている。このような高次元意識に生きる神人こそが、二十一世紀、人類の意識を変えてゆく原動力となるのである。

これら神人の存在こそ、今までの常識を覆し、超えてゆく生き方を示すものである。究極の真理に自らの心、精神を集中させ、人類が決めたあらゆる常識や事柄に関しては、一切の批判も非難も評価も下さないのである。他の人の自由性を一切奪わず、自由性を尊重しつつ、真理を提供しつづけてゆくのである。

本来、人間の意識や精神は、神性そのものであり、人間とは崇高にして高貴なるものである。しかし、時代の経過とともに、
その本来持っていた意識を忘れ去ってしまったのである。だが、その意識を蘇らせ、復活させることは限りなく可能なことである。

世界を平和にするためには、人類一人一人の生命の尊厳こそが必要なのである。一人一人が生命の尊厳を確立せずして、世界平和をつくりあげたとしても、砂上の楼閣に等しいのである。

全人類がそれぞれの個の意識を発掘し、あらゆるものを自由に創造していったならば、宗教などは必要なくなるのである。』p18

■ ちょっと、大変なことになってきました。(^^;ゞ
あまり考えることなく、神人養成プロジェクトを履修して「神人」になったので、
「神人」が、人類にとってそれほど重要な役目を持つとは、思っていなかったのです。(^^;ゞ

ですがそれ以後、五井先生や昌美氏のお話や書かれたものを読んでみますと、
私が以前から、求めていた「生き方」を提唱されているのです。

それでまた、今回の「6月号の法話」を拝見して、「神人の役目」が、よくわかりました。
白光真宏会が、「具体的な救済」をしない理由も分かりました。
ですが、この「分かり方」は並大抵のものではないのです。(^^;ゞ

なにしろ、
【神人は、決して他の人々を直接に救済はしない。】のですから。(^^;ゞ


「神人養成プロジェクト」

【635】空腹や食欲は、「思考」(^。^?

2006-06-19 22:02:38 | 思索
日々、それほど沢山の回数の印を組んでいるのではないのですが、このごろは、朝4時前から眼が覚めます。(^。^?
あまりにスッキリと眼が覚めるので、二度寝することもできません。(^^;ゞ
それで、起きて顔を洗い、「世界平和の祈り」や印を組んだりしています。(*^_^*)

昨日は、藤井寺の集会に行き、「世界平和の祈り」をしました。
この日は食事を撮らないで、少しのパンを食べましたが、特に「空腹感」がないのです。
といいますか、いつも思考停止が起こっているので、「空腹」という考えが浮かばず、
「食べる」ことにならないのです。(^^;ゞ

これが、「印を組んだら、痩せる」の科学的(?)な説明だと思います。
それともう一つ、印を組むと肉体が霊化するので、食物(物質)を食べなくても、
エネルギー(プラーナ・気)が体内に入ってきて、生きられるという説明もあります。

私の体重は、再度54キロになりました。藤井寺のSさんも、最近3,5キロぐらい痩せたそうです。

前にも書きましたが、最近の私は、「自分が祈る」のでなくて、「祈りの中にいる自分」を感じています。

単純に言ってしまうと、「ただ、祈る。それで、おしまい。(*^_^*)」なのです。
そういう心境であれば、「いつでも、祈りの中に居られる」のだと思います。(*^_^*)

「祈りの中に、自分が居る」ならば、「祈りの回数」にこだわる必要はありません。
回数を数えるのは、自分が祈りの外にいると思っているからです。
自分が「祈り」の中に入っていれば、「祈りの深さ」だけが大切になります。


【634】究極の真理により、自らを救済する(*^_^*)

2006-06-18 16:26:35 | 「白光」の教え
『人類一人一人を救済し、解放してゆくのは、権力者でもなければ宗教家でもない。あくまでも個々一人一人が為すべきことである。他の人々によって自らの運命を救済されることは、その場限りのことであって、究極の救済ではない。

他によって救済されても、また同じ状況に苦しめられるのである。
自らを救済するのは、あくまでも本人自身でなければならない。
神や他人によって救済されるべきことではない。

自らの不幸は、不自由は、苦悩は、あくまでも自らの真理に対する無知より生じていることを、よくよく知らなければならない。この無知から、自らを脱却させてゆかなければならないのである。無知より自由になるには、あくまでも究極の真理に目覚めることによって、初めて出来ることなのである。』p17

■ まさに、この通りだと思うのです。(*^_^*)
自分の救済は、自分にしかできないのです。
他人の同情や恵みによって、自分が幸せになれたり、救済されたりすることはないのです。

でもこれは、同情や救済が悪いとか、無意味ということではないのです。(^^;ゞ
同情心や物質的な救済はあっても良いのですが、それだけでは、真の救済は訪れないということなのです。

自分を真に救済できるのは、自分を真に幸せにできるのは、自分だけなのです。(*^_^*)

その方法のいくつかを、白光真宏会が示しているのだと思うのです。

【633】もう常識や法律に縛られることはない

2006-06-17 22:06:14 | 「白光」の教え
6月号の法話は、まだ続きます。あと4話あります。
『人間を駄目にしてゆくのは、同情心である。真の人類愛とは、同情ではなく究極の真理、光を与えづづけることである。
同情は低次元意識レベルの人々を世の中に溢れさせ、彼らから真実の生き方を奪い取ってしまう行為なのである。

弱き人に対して、優しくしなさい、助けてあげなさいというのが常識とされているが、それは低次元レベルの善行為にすぎないのである。

同情心は、生命の尊厳や人間の価値を低下させる行為である。自ら不幸になりたがる人々に対して、火に油をそそぐような行為である。心弱き人間に対して、同情心はもっとも危険な行為である。

弱き人間は、つねに自分の業に負けてしまい、いけないことをついやってしまう。
自分の欲望に負けて食べ過ぎてしまう。身体に悪いと思いつつ、薬物に手をだしてしまう。
欲望に負けて種々な悪に染まってゆく。自らが悪をつくり出してゆく。自らをコントロールできない人たちである。

やっとのことで真理に出会え、自分の否定的思考は間違っていると思いつつも、またつい否定的想念の虜に陥ってしまう…・・。こういった行為はすべて弱き心から発しているのである。

人間は真に強くなくてはならない。弱き心の人は、自然に不幸な法則にはまっていってしまうのである。
そしてその状況から脱し出したいと思いつつも、またもや自分の弱き心が脱し出せない状況に自分を追いつめ、不幸の輪廻転生を繰り返してしまうのである。』p16

■「同情は、相手のためにならない」というのは、ちょっと誤解を招く表現かも知れません。(^^;ゞ
けれども「その人が、自分の道を、自分の力で歩いてゆくこと」が、人生の真実のあり方であるとするなら、
いつまでも、他人の同情に甘えていてはいけないと思うのです。

『神人に与えられているミッションは、二十一世紀まで存続しつづけていた低次元意識レベルの常識を覆してゆくことである。今もその常識にどっぷりはまり込んで、そこから抜け出せないでいる人々に対して、真理を知らしめてゆくのである。
かつまた、常識こそ正義と信じ込んでいる人たちの対して、常識の正体を教えていくことである。』p16

『人類は一人一人がもっと、高次元意識に自らの心を高め上げていかなければならないのである。自分が高め上げられてこそ、初めて真実が分かってくるのである。
道徳も義務も権利も、法律によって護られているものではあるが、決して完璧なるものではない。
これらの規則や制限は、人類一人一人の意識を低次元レベルにとどめさせているのである。

本来は、道徳も正義も義務もない。すべては、あくまでも自らの魂の進化によって溢れ出てくる真理そのものの行為でなければならない。』p17

■ ここに書かれていることは、「究極の真理」(我即神也・人類即神也)だと思うのです。
これを読んで、自分の「神人としてのミッション」を再確認しました。(^^;ゞ

厳しいミッションであると同時に、なんと楽しみなことでしょうか。(*^_^*)
なんと、「把われのない生き方」なのでしょうか。
そこには、「開け放たれた世界」が示されていると思うのです。(*^_^*)

【632】浄められているか、浄められていないかの違いは(^。^?

2006-06-16 22:02:58 | 宗教的思索
私たちは、いろいろな「思い」を持って暮らしています。
その「思い」は、私たちの人生を造ってゆくのですから、とても大切なものです。(*^_^*)

ところが、自分がどのような「思い」で暮らしているのかという自問は、案外されていないのです。
人生でもっとも大切な「自分の思い」なのに、その中味を検証していないのです。(^^;ゞ

私たちはおそらく、「自分の思い」を達成するために、この世の中に現れているのですが、
その「思い」に把われすぎると、それが「苦痛」になります。

「自分の思い」に把われない方法は、「自分の思い」を「他人の思い」を見るように、放せているかどうかです。
「自分の思い」が浄められていると、「自分の思い」の束縛から、解放されて自由でいられます。

「自分の思い」を 客観的に、「消えてゆく姿」として観察できることが、「浄められた生き方」です。
それはまた、「把われなく生きる」ということでもあります。(*^_^*)

「思い」が浄められると、「把われ」が小さくなるのです。