『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【1015】15分間、「○○さん、ありがとうございます」を唱える

2007-05-31 21:31:03 | 経験
『鏡の法則』野口嘉則著の「解説」を読みました。(ネット上では読めないそうです)
題して、「あなたの人生に幸せをもたらすための解説とあとがき」です。(^^;ゞ  簡単にまとめてみます。

①人生は、自分の心を映し出す鏡
②自分の心の波長にピッタリな出来事が起きる
④ 人生に起きていることを見れば、自分の心の中を知ることができる
⑤ 人生の問題を根本的に解決するには、自分の心の中の原因を解消する必要がある
⑥「ゆるせない!」と誰かを責めているとき、私たちはやすらぎを感じることができない
⑦ゆるすことで、私たちの体も心もゆるんで、リラックスできる
⑧まずは自分をゆるす。これを心理学でじ自己受容と言います

このあとに、【ゆるすための8つのスッテプ】が書かれています。
私は【スッテプ5】の「言葉の力を使う」が気に入りました。(^^;ゞ

私が参考になったのは、気になっている人の名前をいれて、
「○○さん、ありがとうございます」という言葉を10分から30分ぐらい繰り返すという方法です。

「○○さま即神也」と印を組むよりは、「○○さん、ありがとうございます」を30分繰り返す方法のほうが、
自分の心が、その人への「感謝の波動」でイッパイになるので、効果があるような気がします。

実際に10分間でも、「○○さん、ありがとうございます」を唱えてから、その人に接すれば、
その方への態度がずいぶんと違ったものになると思うのです。

実践してみる価値がありそうです。(*^_^*)

【1014】「主客合一」「神我一体」「さとり」を選択するのは自分

2007-05-30 21:49:06 | 宗教的思索
簡単にいいますと、【1013】の「関係性」とは「主客合一」のことであり、これを体現できれば、
それが「神我一体の境地」(笑)であり、「さとり」であると思うのです。(^^;ゞ

もちろん、この「さとり」が、「悟りという考え」であっては意味がありません。(^^;ゞ
自分の心身で、紡ぎ出す(?)必要があると思うのです。
それが、「自分の霊性を磨く」ということだと思うのです。

自分の霊性を磨くには、「呼吸法」が良いようです。
「SOPP2007」のときに購入した『呼吸法によるプラス思考のトレーニングブック』西園寺昌美著は、
とても具体的に書かれていて使えそうなので、後日紹介します。

目の先に飾ってある『霊性を磨いてやるぞ』という絵のお陰で、
「自分の意識」を、はっきりとさせることが出来ました。(^^;ゞ

この頃は、自分の霊性を磨くためにはどうしたら良いかということを、
考えるようになりました。(^^;ゞ

【1013】すべては、関係性(状況)のなかにある。

2007-05-29 21:27:55 | 思索
時間が『今』にしかないとしても、『魂(言葉・意識)が永遠である』にしても、
もうひとつの真実があると思うのです。

それは、『自分の中に展開されている世界が、唯一絶対の宇宙』ではあるのですが、
『すべては、関係性(環境)のなかにある』ということです。

そして、「今の自分」とは、『脳のネットワーク』の一部であり、
自と他との関係性の中で、築き上げられた想念の一部なのです。

これは、『今の自分』は、単独で存在しているのではないという、
極めて当たり前の事実について、言及しているに過ぎないのですが、
このことに、真に気付ければ、『感謝』しかありません。(*^_^*)

【1012】「肉体の私」と「精神の私」

2007-05-28 21:25:31 | 思索
ですが、この【私たちは、「死後」のない『今』を生きている】という主観的な話と、
【人間は霊的な存在である】という客観的な話が、矛盾するのかというとそうでもなくて、
別次元のことだと思うのです。

たとえばそれは、「目の前のコップが、物理的に存在するのか否か?」という存在論的な話と、
「一人一人のなかに、それぞれのコップのイメージがある」という認識論的な話は、
別次元の話だということと似ています。

そしてそれは、「肉体の私」(=物質的な私)と「魂の私」(=精神的な私)を分けて考える必要があるということです。

「物質的な私」は、「今の連続」という客観的な構造のなかに存在していますが、
「精神的な私(魂の私)の想念」は、時空を越えて存在していると考えることもできます。

「時空を越えている」で思い出しましたが、『言葉』も時空を超越しているのでしたね。(^^;ゞ

それでなるほどと思ったのは、「言葉とは、時空を越えた精神のことである」ということです。
つまり、私たちの肉体は、物質的には「今」の連続という形で存在していていますが、
「精神(魂)」は、時空を越えて存在しているのです。

そのように考えますと、「言葉は原初からあった」・「言葉は、永遠にある」・「言葉は、『永遠の今』のなかに、時空を越えてある」ということが、次々とうなずけてしまいます。(^^;ゞ

私たちは、「死後」のない、かけがえのない『今』を生きている。
このことだけは、真実のようです。(*^_^)

そして、「肉体の崩壊」以後に、「私の意識」が消えるというイメージ(思い)もまた、
言葉に把われた世界観なのだということです。

【1011】私たちは、「死後」のない『今』を生きている

2007-05-27 05:52:04 | 思索
だれにとっても、『今の私が、すべてである』という形式で、『宇宙(世界)』があるのです。

『今の私』のなかに『宇宙のすべて』があるのですから、
『今の私』が消えれば、「宇宙」も消えるのです。

「時間的な流れ」は幻想なのですから、時間的な流れのなかでの『私の死』はないのです。
「私の死」がないのですから、『私の死後』はないのです。「私の死後」がないのですから、『永遠の魂』はないのです。
『今』しかないのです。

ただ、ただ、『今』があるだけなのです。この「不思議さ」を受け入れたいと思うのです。(^^;ゞ
私たちは、「死後」のない『今』を生きているのです。

昨日、偶然にも『君自身に還れ』を読んでいましたら、
この【「死後」のない『今』】のことを『永遠の今』と表現していました。

【1010】ただ、ただ、「今」だけがある、「今」しかない。

2007-05-26 04:02:07 | 哲学的思考
最近、このブログで書いている、池田さんの文章に触発されて書き始めた哲学的考察(?)を、メモ的に書いてみました。
重複する箇所もありますが、お許しください。(^^;ゞ

①「時間」は流れていないのですから、時間的な意味で、
 「永遠の生命」は無いし、「魂は、永遠である」ことはないのです。

「時間的な未来」は、「今の思い」なのですから、
 自分が死んだ後も、「魂」があると考えること自体が『幻想』です。

②「魂が存続する」という客観的な事実はなくて、
 そのように思える「今」に重点が置かれているのです。

③「生命は永遠」や「魂が不滅」は、
 時間的な意味での「未来」についての言及ではないのです。

④「未来という時」など無いのです。「今」があるだけなのです。
 死後も、自分の魂(生命)が不滅であるのかどうかという話は、ナンセンスです。

⑤「生命は、永遠である」ことは不明ですし、「魂は、永遠である」ことも不明なのです。

⑥「永遠の生命」があると思っているのも、「魂は永遠」だと思っているのも、今の「思い」であり、
 客観的な事実ではないのです。

⑦『永遠の生命』というのは、時間的な未来が『永遠』という意味ではなくて、
 「今、自分という生命がある」という生命の普遍性を『永遠』という言葉で表現をしているのです。

⑧すべての思いは、『今』という思いも、瞬間的に「過去の思い」になって行くというあり方で、
 私もあなたも人類も宇宙も、存在しているのです。

⑨時間的な意味で、魂は永遠ではなく、自分の死後に魂が存続しないことは、真理です。s
それが、「宇宙の真実の姿」なのです。(*^_^*)

⑩他の動物と違って、「人間は、言葉の意味を生きている存在」です。
それでいて、「言葉の意味(イメージ)」に把われて、窮屈になっている存在です。

⑪「言葉の意味(イメージ)」に把われていない『自分』は、とてもイキイキとした自由な存在です。
そのような私は、「宇宙と共にいる私」なのです。(^^;ゞ

⑫それで、瞑想をした後に、ぼ~としている私は、「想念」が停止していて
 「宇宙の心」になっているので、気持ちが良いのです。(*^_^*)

【1009】「言葉の意味」を選択して、生きる

2007-05-25 22:15:23 | 哲学的思考
「生命は、永遠である」や「魂は不滅である」とは、どういう意味なのか考えました。(^^;ゞ
それは、「時間的な意味での永遠」ではなさそうです。
「宇宙」は諸行無常なのですから、本来、「永遠」や「不滅」はないのです。(^^;ゞ

それは、「宇宙は、『今』にすべてがある」という意味で、『永遠』なのだと思うのです。

というか、「永遠」や「不滅」というのは、『絶対』『普遍』という意味であり、
それは、「『今の存在』が、絶対であり、普遍である」という意味だと思うのです。

今、「永遠」と思い、「不滅」と思っていることの中に、
「永遠性」と「不滅性」があるのであり、
そう思うことによって、私たちは、「永遠」「不滅」の意味を「生きる」のだと思うのです。

つまり、「生命は永遠である」「魂は不滅である」という思いで生きることが、
そういう想念を選択して、生きるということだと思うのです。

これを横(?)から見ますと、
今「生命が永遠」と思い、「魂が不滅」だと思うことの中にすべてがあるということだと思うのです。

【1008】生命も魂も、永遠ではない!?

2007-05-24 21:22:59 | 哲学的思考
すべては『今』起きていることなのです。
過去も未来も、『いまの思い』なのです。
「時間」は、流れていないのです。
これが、真理だと思うのです。

ですから、「生命」が永遠であるとか、「魂」は不滅であるというのは、
時間が流れた先の「未来」に、「生命」や「魂」が存在し続けるという意味ではないのです。

というか、「時間の流れ」は幻想ですから、「自分の死後」という想念も幻想なのです。

そして、「未来」は幻想なのですから、
「生命」や「魂」が客観的な未来にも、永遠に存続するという想念は、
二重の意味で幻想なのです。(^^;ゞ

二重のひとつは、
「生命」や「魂」というのも、言葉であり想念であるので、「幻想」である。
もうひとつは、
「時間が流れたあとには、『未来』がある」という想念も、「幻想」なのです。

はっきりと言えば、「生命」も「魂」も永遠ではなくて、「幻想」なのです。(^^;ゞ

それでは、「生命は、永遠である」や「魂は不滅である」とは、どういう意味なのでしょうか?

【1007】「今のいのち」を活かす!!

2007-05-23 21:13:41 | 思索
世界は『今』であり、『私の今』が、すべてであると思うのです。
このことを念頭において【1005】の続きを考えたいと思います。
哲学的には正しいのに、その「正しさ」に把われると、なぜ窮屈に感じるのかを考えてみたいと思うのです。

そこには、矛盾があるのです。
つまり「正しい」という言葉に把われるので、「いのち」の自由さが失われて、「いのちの輝き」が失せるのです。

「今」と「言葉」は、常に矛盾するのです。
それは、「言葉」は過去の経験や教訓や成果を語るものであり、
「今」は、その言葉の制約の届かない「いのちの世界」だからです。

「言葉」は過去を語り、「時間」は今にしかないのです。
「言葉」で、「今」を表現することはできないのです。

「言葉」を語ることは、過去に把われることです。
言葉と今と人生は、そういう構造になっているのです。

「いのちの世界」は、『今』だけのものです。
そして何事にも、「言葉のイメージ」にも把われないで、「今のいのち」を悠々と生きることが、老子的な生き方のようです。

【1006】「言葉の響きが伝わる」ことを大切にしたい

2007-05-22 21:54:32 | 思索
それで気付いたのは、「統一」は、言葉による瞑想だということです。
内なる「思い(言葉)」を【世界平和の祈り】に置き換えることによって、霊性を開発するのです。

ですから、単純にいって、善い言葉(想念)と悪しき言葉(想念)があるようです。

それで「宇宙神の心」は調和(善)ですから、調和に満ちた想念を抱くことが、
「宇宙の心」を表すことであり、つねに【世界平和の祈り】の心でいることが、
天命を完とうすることだというわけです。

SOPPの日に、富士聖地の本館地階の部屋で、縦7m横21mの用紙に、各国の言語による「世界平和の祈り」を七千百回謹書するという「世界各国平和の祈り記入721」に遭遇しました。(^^;ゞ

「初めての人は書いてもよい」ということでしたので、私は、一番難しそうな「タイ語で書かれたプレート」を選んで謹書しました。

「世界各国語による平和の祈り」でもそうですが、その国の言語を使って、「平和の祈り」をすることは、
その国の方々にとって、良いことだと思うのです。

その国の方々に寄り添って、「内なる平和に目覚めてください」というメッセージを送るためには、
より「言葉の響き」が伝わると思うのです。

この「言葉の響きが伝わる」ということを大切にしたいですね。(*^_^*)

【1005】「言葉」の呪文から、自由になりたい(^^;ゞ

2007-05-21 21:31:04 | 思索
池田さんの言われるように、『だから、もしも君が自分の人生を大事に生きたいと思うなら、
言葉を大事に使うことだ』は正しいとは思うのです。

「哲学的には、正しい」とは思うのですが、その「正しさ」に把われと窮屈になる気がするのです。(^^;ゞ

人間は「言葉の動物」ですが、言葉に把われると窮屈になる。
「いのち(人生)の輝き」が損なわれる気がするのです。(^^;ゞ

私は、「言葉」に把われないで、「自分のいのち」をワクワクさせ、溌剌と輝かせて生きたいのです。(^^;ゞ

そうすることが「自分の本心」を輝かせることであり、「善」を生きることでもありたいと思うのです。(^^;ゞ

そしてそれが、「なんの把われもない老子的な生き方」になっているとよいのですが。(^^;ゞ

【1004】言葉なくして、人生なし

2007-05-20 22:53:22 | 哲学的思考
【999】の池田さんの文章は、素晴らしいのですが、
そのなかの以下の文章は、正しいのか間違っているのかと考えました。(^。^?
『そして、本を読んで、行ったこともない国、見たこともない人や物、
いや、そもそもこの世に存在さえしていなかったりするそれらのものの姿や形を、
どうして君は「見る」、思い浮かべることができるのだろうか。
これは本当に不思議なことじゃないか。これこそ、言葉の力だ。』

すっと読むと、「言葉って凄いなあ」と思えます。(^^;ゞ
ですが、個々の読者の脳に描かれた「他国や人や物や形」の情景は、
人それぞれによって、まちまちであることに気付きます。

つまり、たとえばローマと書かれていても、それぞれの読み手が想像する「ローマ」は、まったく異なっていて、
まちまちなのです。(^^;ゞ

それで、「まちまち」であっても、普遍的な意味としての「ローマ」が通じることが、
また「不思議」なのですが、・・・。(^。^?

それでいて、「言葉」なくして人間の人生はありえないという不思議さが重なって、
「言葉と人生と霊性」の関係は、複雑怪奇(笑)です。(^^;ゞ

そのジレンマ(?)を乗り越えようとして、「言葉があると不自由である」と考える私のような人間が現れるのかも知れません。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★SOPP2007に参加してきました。(*^_^*)
 とても天気がよくて、今までで一番、富士山がきれいに見えました。
 夢のような一日でした。(^^;ゞ

【1003】「内省的な自我」の発生と「言葉」

2007-05-19 04:53:36 | 思索
「言葉」とは、『感情や思想を伝える手段として用いられ、社会に認められた意味をもつ音声や文字』なのだそうです。

『人の発する音声のまとまりで、その社会に認められた意味を持っているもの。感情や思想が、音声または文字によって表現されたもの。言語。』とも書かれていました。(*^_^*)

「言葉」について、明解に論じたいとは思うのですが、
対象物があって、言葉があって、概念があって、考えがあって、思いがあってと、
人生と言葉があまりにも複雑に絡みついているので、どこから手を付けたらよいのか判りません。(^^;ゞ

昨年の『心の時代』で、阿部慎也さんという人が、
キリスト教の信者が牧師に、懺悔をするようになってから、「反省的自我の意識」が促進されたと言われていましたが、
「内省的な自我」は、言葉なくしては、成り立たないと思うのです。

「言葉」によって自分を客体化することにより、反省をして成長できるのが人間の特徴です。
もし、「言葉」がなかったら、人間は成長することが出来ません。

それでいて、「言葉」に把われて苦しむのも人間の性(さが)のようです。
でもこの性は、常なる瞑想によって解決ができるようです。

「気が付いたら、言葉を発している私」とは、何なのでしょうか(^。^?
私はここで、この地球で、なにをしているのでしょうか(^。^?

「私の意識」が、言葉を把かむと、意味が心のなかに広がる。
天から降りてくるように感じる言葉は、なんらかの内省的な啓示や示唆であったありもする。(^^;ゞ

人間は、言葉によって社会性を帯びる。
言葉を使うことは、その社会と共に生きること。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★そんな言葉の入った色紙画のコピー(100円)が2枚うれました。(^^;ゞ
 時折、おかずを買いにくるお客さんなのですが、最近描いた「天使の絵」が売れたのです。(^^;ゞ

それは『必要なものは、すべて与えられている』と『すべては必ず良くなる』の2枚です。
「これを見ていると、癒されて元気が出てくる」と言ってくれたのです。

私は、「我が意を得たり」(笑)と、とても嬉しくなりました。
上の二つの言葉は、「反発を感じる人もいるのでは、・・・」という気持ちがありながらも、
店に飾っていたのですが、スピリテュアルなことに関心がない人にも、
私のメッセージが伝わったことがとても嬉しかったです。

そして今日は、SOPPに持参するマンダラの『すべては必ずよくなる』を完成させた日でもあったので、
奇跡が起った感じがしました。まさに成就ですね。

今後は、この路線で色紙画を描いていこうと思い、店頭の絵を入れ替えることにしました。(^^;ゞ

【1002】言葉は、言葉以前を問えない(^。^?

2007-05-18 05:08:12 | 思索
【1001】で、なぜ訳がわからなくなったのかを考えてみました。(^^;ゞ
それは、時間を継続的な「流れ」と考えたからなのです。

「時間が流れる」というのは想念であり、事実としては「今」があるだけですから、
宇宙について、「世の初め」などと、過去を問うことは出来ないのです。

「過去」そのものが幻想であり、虚偽なのです。

人類は、「言葉によって、人生の意味を生きている」ということの中に、
すべてが入っているということ以外は言えないのです。「過去」はないのです。

基本的に、人類以前に「言葉」があったのかどうかは、だれにも判断できない!(^^;ゞ
人類以前には、誰もいないのですから、確認のしようがない!(^^;ゞ

「過去」はないし、「問えない」のです。
「言葉」による問いは、「世の初め以前」や「言葉以前」に言及できないのです。(^^;ゞ

それでも、「言葉」は確かにあります。「言葉」とはいったい何なのでしょうか(^。^?

【1001】人類の霊的進化と「言葉の素」

2007-05-17 04:24:25 | 思索
人類の霊的成長と「言葉」には、密接な関係があると思うのです。

【1000】では、「世の初めとは、何時のことなのか?」と考えました。
人類が霊的な進化をして、「言葉」を獲得した時から、「言葉」があったと考えられます。

人類以前には、「言葉」はなかったのでしょうか?
これは、難しい質問です。 私には、わかりません。(^^;ゞ

ただ、「言葉」は人間の単なる発明品ではないと思うのです。
人間に、「言葉」という能力を与えた「神」(?)の意図があるのなら、
「言葉の素」は、人類の発生以前にあったことになります。

そして、「言葉」とは「意味」のことですから、
人類の存在以前に「言葉の素」があったということは、
「宇宙には、意味がある」というにもなります。

このように考えていきますと、わけがわからなくなってきます。(^^;ゞ
言葉と人生と宇宙の関係は、言葉では言い表せないのかも知れません。(^^;ゞ