奈良文化財研究所が17日、平城京跡の朱雀門前の南東約130mの場所(左京三条一坊一坪)で、奈良時代前半(8世紀前半)の鉄鍛冶工房跡とみられる3つの建物跡が見つかったと発表した。最大のものは東西約19.5m、南北約6mだった。平城京エリアでは最大規模の工房群という。 710年の遷都に先立って短期間に運営されていた可能性があるという。運営後は粘土で埋められ、広場のように造成されていた。
工房群跡は、今年3月に出土した六角形の大型井戸跡に隣接している。 周辺から大量の炭を含む、焼け焦げた炉跡が約50基出土した。 炉跡は地面に掘った直径30~40cmの円形で深さ約10cm、鉄くぎや、鍛冶や金属加工に使う金床石(かなとこいし)や砥石、鞴(ふいご)の羽口、鉄滓も確認された。
井戸からは「天平二年」(730年)と書かれた木簡や「右相撲(みぎのすまい)□」、「□撲司」と記された墨書土器も出土し、井戸は工房が役目を終えた後に掘られたこともわかった。
続日本紀には聖武天皇が天平6年(734)と同10年(738)に相撲を観た記録(注1)があり、7月7日の宮中行事だった「相撲節会(すまいのせちえ)」が調査地の朱雀門近くで行われた可能性もあるという。
現地説明会は19日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:時事通信、共同通信、産経新聞、毎日新聞、奈良新聞]
(注1)
続日本紀 天平六年(734) 秋庚甲朔七月丙寅(7日)、天皇觀相撲戯。
続日本紀 天平十年(738) 秋丁卯朔七月癸酉(7日)、天皇御大藏省覽相撲。
この後、日本後期にも度々7月7日に「観相撲」との記述が出てくる。
遡って、日本書紀にも相撲の記述が7月の条に現れる。
日本書紀・皇極天皇元年(642)七月乙亥(22日)、饗百濟使人大佐平智積等於朝。乃命健兒相撲於翹岐前。智積等宴畢。而退拜翹岐門。
日本書紀・天武天皇十一年(682) 秋七月壬辰朔甲午(3日)、隼人多來、貢方物。是日。大隅隼人與阿多隼人、相撲於朝廷。大隅隼人勝之。
工房群跡は、今年3月に出土した六角形の大型井戸跡に隣接している。 周辺から大量の炭を含む、焼け焦げた炉跡が約50基出土した。 炉跡は地面に掘った直径30~40cmの円形で深さ約10cm、鉄くぎや、鍛冶や金属加工に使う金床石(かなとこいし)や砥石、鞴(ふいご)の羽口、鉄滓も確認された。
井戸からは「天平二年」(730年)と書かれた木簡や「右相撲(みぎのすまい)□」、「□撲司」と記された墨書土器も出土し、井戸は工房が役目を終えた後に掘られたこともわかった。
続日本紀には聖武天皇が天平6年(734)と同10年(738)に相撲を観た記録(注1)があり、7月7日の宮中行事だった「相撲節会(すまいのせちえ)」が調査地の朱雀門近くで行われた可能性もあるという。
現地説明会は19日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:時事通信、共同通信、産経新聞、毎日新聞、奈良新聞]
(注1)
続日本紀 天平六年(734) 秋庚甲朔七月丙寅(7日)、天皇觀相撲戯。
続日本紀 天平十年(738) 秋丁卯朔七月癸酉(7日)、天皇御大藏省覽相撲。
この後、日本後期にも度々7月7日に「観相撲」との記述が出てくる。
遡って、日本書紀にも相撲の記述が7月の条に現れる。
日本書紀・皇極天皇元年(642)七月乙亥(22日)、饗百濟使人大佐平智積等於朝。乃命健兒相撲於翹岐前。智積等宴畢。而退拜翹岐門。
日本書紀・天武天皇十一年(682) 秋七月壬辰朔甲午(3日)、隼人多來、貢方物。是日。大隅隼人與阿多隼人、相撲於朝廷。大隅隼人勝之。
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