歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

盛岡市・松尾大明神

2011年11月05日 | 盛岡
松尾大明神(松尾神社、松尾社とも) 盛岡市茶畑1-1-1 


 盛岡八幡宮を南に降りてゆくと、十六羅漢の道路手前にある。入り口はやや狭く、階段を上ったところに境内があり、さらにその奥の一段高いところに社殿がある。 目立たないので、通り過ぎてしまいそうである。 地図には、松尾大明神と記されていた。


 だが、この場所は社殿の北側が、天正年間に城主・中野康実(九戸政実の弟)が築城した中野館(なかのだて)跡なのだそうな。 そんなこととは知らずに、その後、ひょんなきっかけでわかった。 [参考:もりおか歴史散歩(東北堂)]


 社殿の扁額には「松尾社」と書かれている。 その扁額を書いたのは新渡戸■岳。 ■は姫と読めそうである。そうすると、新渡戸姫岳(きがく、1760ー1823)。 盛岡馬町(現・清水町)にある、現在は本山修験宗であるがもとは天台宗・峯寿院(ほうじゅいん)の住職で与謝蕪村に俳諧を学び、諸国を漫遊したそうな。 曾孫に、教育者、書家かつ俳人であった新渡戸仙岳(1858-1949) がいる。仙岳は盛岡高等小学校校長時代の教え子に金田一京助、石川啄木らがいる。
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盛岡市・松峰山 東顕寺

2011年11月05日 | 盛岡
   しょうほうざん とうけんじ
曹洞宗 松峰山 東顕寺 (盛岡市名須川町2-1)
 

 本寺は旧水沢市の正法寺(しょうぼうじ)(注1)。 正法寺の70いくつかある末寺のひとつであるが、盛岡市ではこの東顕寺のみである。
 開山・古山良空和尚(1362-1415)(注2)。 開基・不来方(こずかた)館主・福士五郎政長(?-1391、法号・源翁心公大禅定門) (注3)として、至徳元年(1384)頃建立。 2世は天蓑瞬賀(てんさしゅんか)(注4)。
(注1) 正法寺: 大梅拈華山(だいばいねんげざん)圓通正法寺(えんづうしょうぼうじ)(奥州市水沢区黒石町)、1348年創建。
 現在は、大本山總持寺筆頭末寺であるが、往時は東北地方における曹洞宗の本寺・第三の本山であった。
(注2) 正法寺2世月泉良印の嗣法。後に正法寺4世住職。初めに「天台止観」を学んだ後、衣を変えて月泉の教えを受ける。
(注3) 福士氏は源義光(新羅三郎)の四男?・實光が甲斐国巨摩郡福士郷(現、山梨県巨摩郡南部町福士)を賜り、福士實光と改名した。 4代後に近隣の南部氏の家臣として奥州に下向する。 南部氏は義光の次男・義清の2代後、加賀美遠光の長男・光行が甲斐国南巨摩郡南部郷(現、山梨県巨摩郡南部町)を領し南部光行(南部家初代)と改名。
(注4) 天蓑瞬賀は、室町時代中頃(1444年)に旧御城内の毘沙門淵に曹洞宗・養廣山正傳寺を開山した。開基は不明。 元は、天台宗であったが、曹洞宗に改宗したと伝わる。改宗した時期を開山としている。 正傳寺は盛岡城築城のため現在地(盛岡市愛宕町)に移転した。

 初め、盛岡城跡からみて盛岡市動物公園の手前あたりに草庵を結んだという。 現在も地名に盛岡市東中野里東顕寺と残るあたり。 その後、至徳元年(1384)頃、不来方の慶喜館石間(いしあい)(注5)に一宇を開いたとする。(開山) その後、盛岡城築城のために移転するが、現在地の名須川に移るまでに、直接ないしい2,3回の移転があったとみられる。
(注5) 現岩手医大学の北で、盛岡城が築城されてからは、家老・楢山河内守の屋敷となった。

 山門、本堂の屋根に曹洞宗と永平寺の紋が飾られているが、ほかに九曜紋が飾られている。 福士氏の家紋の一つに割菱九曜紋があり、それかと思ったが、飾られている九曜紋の日曜には割菱がない。 それではと、寺に問い合わせたところ、本寺の正法寺の紋(注6)であるという回答であった。
(注6) 正法寺の本堂は、日本一の大きさの茅葺屋根をもつ建物(国指定重要文化財)であるが、文化8年(1811)に仙台藩により再建された。 そのため、本堂には、仙台藩(伊達家)の家紋「竪三つ引両」と「九曜」と「竹に雀」が飾られている。
 
東顕寺の山門と本堂の屋根に飾られている九曜紋が、正法寺の紋だからといって、仙台藩(伊達家)の紋であるとは断言し難い。
 本堂の山額「松峰山」は永平寺64世性海慈船禅師筆によるもの。
[参考:「盛岡の寺院」1995盛岡市仏教会発行など]
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