歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

韓国江原道江陵市・崛山寺址 「五台山金剛社」銘文瓦が出土

2011年11月17日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立中原文化財研究所は16日、新羅末~高麗初に韓国仏教界を主導した九山禅門(구산선문)の一つで闍崛山門の宗刹格である江原道江陵市の崛山寺址(굴산사서、史跡448号)に対する発掘調査結果、記録にだけ見える五台山仏教信仰結社体中、南方結社体が構成されたところが・崛山寺であったことを確認したと発表した。
 今回、特に「屈山寺」、「五臺山」という銘文瓦以外に「五臺山金剛社」の文字がある12世紀頃高麗時代の瓦が見つかった。 五台山金剛社は三国遺事塔像篇に「臺山五萬眞身」という題名で記された文に登場する。金剛社は国家の安寧のために五台山東西南北、中央に各々位置する5つの寺院で各々結成されたという信仰結社の中で、南台にあった結社体である。
 また、寺域の確認もされたが面積は約3万1千500㎡に達するとしている。
[参考:聨合ニュースほか]

備考
 韓国語の翻訳は基礎知識がないと、おかしな訳になりかねない時がある。 今回も最初に訳した内容が理解できなかった。そのために、いろいろ調べてようやく理解できた。 そのひとつは、「금강사」である。文全体が寺院のことについての内容だから当然「金剛寺」となるわけであるが、今回は「金剛社」であった。 また、「崛山寺」は「屈山寺」と書いても通じるようだし、銘文瓦にも「屈山寺」と記されている。 ただ、正式には「崛山寺」のようなので、これに統一した。

過去の関連ニュース・情報
 2010-10-06 崛山寺址 川石を敷いた歩道、門跡2基や銘文瓦などが出土
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大田市・市井深田遺跡 奈良時代の集落跡から作り付けの竈が出土

2011年11月17日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターは16日、大田市久手町刺鹿(さつか)の市井深田遺跡(いちいふけだいせき)で奈良時代(8~9世紀)の28棟の建物(竪穴建物10棟、掘立柱建物15棟など)からなる集落の跡と作り付けの竈(かまど)跡4つを発掘したと発表した。
 竈はすすの跡が残っており、周辺から甕、甑(こしき)、土製支脚(どせいしきゃく)、移動式竈など煮炊きの道具が多数出土していることから、煮炊きに使われていたとみられる。
 このような作り付けの竈は、これまで山間部で発見されているが、海岸部ではあまり発見されていない。また、土製支脚と移動式竈は、海岸部で発見されているが、山間部ではあまり発見されていない。海岸部と山間部の遺跡の特徴が混在する遺跡の発見は、海岸部と山間部の交流を考える上で貴重な発見となるとしている。
 11月23日(水・祝)13:30~15:00に、現地説明会が開かれる。
[参考:山陰中央新報、NHK島根、島根県HP]

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越前市・山腰遺跡 「国府」と書かれた9世紀頃の墨書土器が県内初出土

2011年11月16日 | Weblog
 越前市の山腰遺跡(大塩町、今宿町)で、「国府」と書かれた8世紀後半から9世紀前半の墨書土器が見つかり、同市教委は武生公会堂記念館(同市蓬莱町)で12日から展示を始めた。国府の文字が書かれた土器が見つかったのは県内で初めてで、越前国府から持ち込まれた土器と考えられ、国府の存在を示す資料としている。
 墨書土器は、2002~04年の県埋蔵文化財調査センターによる発掘調査で、遺跡の川跡から見つかった。直径約15cmの円形の須恵器で、底の裏側の中央に「國府」と書かれていた。 ほかに、1棟の建物跡が見つかり、儀式を行う際の一時的な住まいだったのではないかとみている。
 また、山腰遺跡の近くにある大塩向山遺跡(大塩町)では火を炊いた跡が確認され、越前国の公的な祭祀を執り行った場所と考えられるという。
 両遺跡とも、越前国府があったとみられる市中心市街地から約5km離れている。 ただ、越前国府のはっきりした位置は分かっていない。 市役所近くの旧市立図書館周辺では、国府と関わりが深いとされる「国寺」「国大寺」などと書かれた8世紀末から9世紀の墨書土器が出土している。
[参考:福井新聞、朝日新聞]
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宇佐市・古稲荷古墳(3世紀初頭) 1920年以降行方不明の「斜縁六獣鏡」を確認

2011年11月16日 | Weblog
 大分県宇佐市法鏡寺の県指定史跡・古稲荷古墳(3世紀初頭)で出土し、大正時代9年以降行方がわからなくなっていた銅鏡「斜縁六獣鏡」を、伊藤昌司・九州大名誉教授(民事法学)が所持していたことがわかった。
 銅鏡は裏面に6匹の獣が描かれている。 邪馬台国・卑弥呼の鏡との説がある「三角縁神獣鏡」と文様や銘文の一部が一致していることから、3世紀に中国・魏で作られたとみられる。
 大正9年(1920)に現地調査を行った当時九州大の中山平次郎博士の論文中の鏡の拓本と形が同じことから、斜縁六獣鏡と特定した。
 伊藤名誉教授は、県立歴史博物館(宇佐市)に寄贈し、近く同博物館で公開される。
[参考:読売新聞]

古稲荷古墳 (大分県宇佐市法鏡寺上原)
 駅館(やっかん)川右岸段丘上にある一辺 20mの方墳、 高さ 2m、 墳丘の北側には幅4mほどの 周濠がある。

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国東市・岩戸寺宝塔(1283年建立) 建立当時に使われた? 鉄製ノミ3本が宝塔解体中に見つかる

2011年11月15日 | Weblog
 国東市国東町の岩戸寺にある岩戸寺宝塔(高さ 328cm、国指定重要文化)は、「弘安六年(1283)大歳癸未九月日」の銘があり、法華経を奉納する納経塔として造立され、県内で最も古い宝塔(国東塔)である。
 宝塔の石材表面全体は経年による風化が進み、一部が欠けたり傷みが著しいことから、文化財建造物保存技術協会(東京都)が今年1月から解体修理をしていた。
 解体作業中、塔身内部に3本の鉄製のノミ(注1)と人の髪の毛が納入されていることがわかった。
(注1)今年5月の時点では2本のノミが見つかっていたが、それ以降にあらたに1本が見つかったと思われる。
 ノミの長さは12・3cm(幅1・1cm)~16・4cm(幅1・5cm)で、柄の部分は腐食してなくなったとみられる。 3本とも宝塔の建立当時に使われた可能性が高いとみられる。
 国東市教委によると、中世の鉄製工具の発見は珍しく、県内では、宇佐市・一木ノ上遺跡の鉋(かんな)や鋸(のこ)しか例がなかったとしている。 国東塔から鉄製品が見つかったのも初めて。
 ノミは来年1月頃、同市国東町安国寺の市歴史体験学習館で展示する予定。
[参考:2011.11.15読売新聞、2011.5.17大分合同新聞、国東市市報・くにさきNo.62(平成23年5月号)]
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小田原市・千代南原遺跡 平安時代の墨書土器が多数含まれていることが判明

2011年11月13日 | Weblog
 平成22 年度に小田原市市教育委員会が発掘調査を実施した同市千代字南原の千代南原遺跡第ⅩⅩⅥ(26)地点の出土品の中に、多数の墨書土器が含まれていることが、今年度実施している整理作業によって明らかになった。
 千代南原遺跡は千代遺跡群の中にある。 奈良・平安時代には千代寺院跡(千代廃寺)呼ばれる寺院があったと考えられ、郡家(ぐうけ)の推定地である永塚遺跡などとともに、古代足柄の政治的な中心地と考えられている。
 今回の調査では、おびただしい数の土器や木製品が捨てられたような状態で発見された。それらの土器の中には、「墨書土器」が数多く含まれ、その数は現在までに小田原市で出土していた総数をはるかに上回る。
 墨書土器は9 世紀後半から10 世紀前半頃の平安時代のものと推定され、千代の台地の上にあった寺院に関連して、祭祀に用いられた遺物であると考えられるという。
 書かれている文字には「福」「吉」「イ万」や、則天文字「人」や人の顔のような戯画と思われるものもある。
これらの墨書土器は、11月11日から、かもめ図書館(同市南鴨宮)で開催されている最新出土品展2011「発掘された文字の世界」で展示されるほか、11月2 日にかもめ図書館で開催する平成23 年小田原市遺跡調査発表会において、調査成果の報告が行われる。
[参考:毎日新聞、小田原市HP]

過去の関連ニュース・情報
 2008.10.10 小田原市No.271遺跡(下堀地区)発掘調査見学会資料
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京都府精華町・椋ノ木遺跡 古墳時代中期(5世紀末)の古墳2基を新たに確認

2011年11月12日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターが10日、精華町下狛の椋ノ木(むくのき)遺跡で古墳時代中期・5世紀末の古墳が新たに2基見つかったと発表した。 同遺跡内の古墳は計7基(注1)となり、水運に関わった集落の首長らを埋葬した古墳群が形成されたようだとしている。
 古墳の一つは、直径は約11m。正八角形の一部のような形で、墳丘部分は後世の開墾で削られていた。もう一つは、墳丘の周辺部の一部が見つかった。
 現地説明会は12日午前10時半から開かれる。
[参考:朝日新聞、京都新聞、京都府埋蔵文化財調査研究センターHP]

(注1)京都府埋蔵文化財調査研究センターのHP(ホームページ)では、総数9基としている。

過去の関連ニュース・情報
 2011.2.3 京都府精華町・椋ノ木遺跡 古墳時代中期の円墳4基を確認
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大和郡山市・郡山新木山古墳 陵墓参考地を公開 築造時期は5世紀前半

2011年11月12日 | Weblog
 宮内庁は11日、管理する奈良県大和郡山市の郡山新木山古墳(郡山陵墓参考地)の発掘現場を報道関係者や考古学の研究者らに公開し「築造時期は5世紀前半とみられる」との見解を示した。同古墳は、古墳時代後期(6世紀ごろ)に築造されたとの見方があったが、出土した円筒埴輪の模様の特徴などから築造時期を判断したという。
 同古墳は全長約120mの前方後円墳で、発掘は今回が初めて。同庁によると墳丘の裾に葺き石があったほか、家形などの形象埴輪や円筒埴輪の破片が数百点出土。祭祀用とみられる笊(ざる)形土器も見つかった。
[参考:共同通信、産経新聞、日経新聞]
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福岡市・女原笠掛遺跡/女原瓦窯跡 鴻臚館の瓦を製造した窯跡を発見

2011年11月11日 | Weblog
 福岡市教育委員会は10日、「鴻臚館(こうろかん)」(7~11世紀、福岡市中央区)の瓦を製造していた9世紀後半~10世紀前半の窯跡を同市西区女原の女原笠掛遺跡(みょうばるかさがけいせき)で発見したと発表した。 鴻臚館の瓦を製造した窯跡が特定されたのは初めて。
 鴻臚館は、7世紀後半の飛鳥時代から11世紀前半の平安時代にかけて中国や朝鮮の外交使節や商人をもてなす国の迎賓館にあたる施設として使われ、福岡市中央区の跡地では昭和63年から発掘調査が行われてきている。 この跡地から西に11km離れた女原笠掛遺跡で、いずれも9世紀後半から10世紀前半の平安時代に使われていたとみられる3基の窯の跡と多数の瓦が見つかり、「女原瓦窯跡」と名付けられた。
 窯跡3基は緩斜面の地中にトンネルを掘った登窯(窖窯)で全長4.3~6m、幅1.5~1.6m、高さ1mで、1基は一度に瓦約500枚を製造できたとみられる。 約10年間、操業した模様。周辺には整地した跡や廃棄した大量の灰もあり、粘土の採取から成型、焼成までを手掛ける工房があったとみられる。 窯は当時、海岸線にあったとされ、約11km東の鴻臚館に船で瓦を運んだとみられる。
 窯跡からは軒平瓦、軒丸瓦、丸瓦、平瓦、鬼瓦や熨斗瓦など計約1万点出土。 このうち軒丸瓦や軒平瓦の計9点は木製の型「范型(はんがた)」で粘土に文様を付けて作られており、このうち軒平瓦2点、軒丸瓦3点の計5点は文様だけでなく、范型の劣化やひび割れなどによってできる傷の位置や大きさも鴻臚館跡の出土品と一致し、同じ型で作られたことが裏付けられたという。
 屋根瓦は、ハスの花などの文様が彫られた型枠に原料の粘土を押し込んで作られるが、ひびのある木製の型枠などが使われたため、同じ位置に傷ができたと推定されるという。 大宰府政庁関連の遺跡から出土した瓦との共通性はない。
 現地説明会は12日(土)午前10時~午後1時に開かれる。 雨天中止。
[参考:西日本新聞、読売新聞、産経新聞、毎日新聞、日経新聞、NHK福岡、TVQ九州放送、福岡市HP]
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大垣市・桂谷古墳群 1号墳はこの地域の有力な一族の墓

2011年11月11日 | Weblog
 大垣市教育委員会は10日、同市上石津町牧田の桂谷(かつらだに)古墳群1号墳から石室が見つかったと発表した。
 桂谷古墳群は、東西50m、南北90mに10基の古墳がある。
 古墳群で最も大きい一号墳は、直径17m、高さ6mの円墳、6世紀後半~7世紀初頭の築造で、今回の調査で玄室(長さ約4m、幅約1m)と通路を含めた石室の長さが約9mであった。現況の高さは約1mだが、本来の床から天井まで2~2・5mあったとみられる。石室の入り口には閉塞石も確認された。 横穴式石室の大きさなどから、この地域の有力な一族の墓であることが分かった。 また、墳丘の斜面全体に葺石が丁寧に施工されており、石室の上に2m以上の盛り土が残っているなど、古墳築造当初の様子がわかるとしている。
 13日(日)午後1時から3時まで現地説明会が開かれる。
[参考:中日新聞、毎日新聞、大垣市HP]

過去の関連ニュース・情報
 2009.10.8桂谷古墳群 1号墳から石垣状の列石が見つかる
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松江市・西川津遺跡 弥生時代前期(約2300年前)の河川跡から木製農具が出土

2011年11月11日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターが10日、松江市西川津町の西川津遺跡で、弥生時代前期(約2300年前)の河川跡(幅6m以上、深さ1・5m以上)から、鍬や斧の柄などの木製農具計15点が出土したと発表した
 また、人工の溝跡(幅2m、深さ0・8m、長さ12m)も出土した。09年度の調査で見つかった溝とつながっており、総延長は30mになるという。 環濠集落だった可能性があるとしている。
 現地説明会は13日(日)午前10時30分から開かれる。
[参考:読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.7.14 西川津遺跡 弥生時代の溝が見つかる、環濠の可能性も
 2010.2.24 西川津遺跡 J字形をした1800年前のガラス製勾玉が初出土
 2009.1.14 西川津遺跡 弥生時代後期から古墳時代前期の卜骨が出土
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上越市・釜蓋遺跡 約1800年前の竪穴建物(米の倉?)の柱の最下部に柱の沈下を防ぐ基礎工法

2011年11月10日 | Weblog
 上越市教委は9日、上越市大和5丁目の釜蓋(かまぶた)遺跡で約1800年前(弥生時代後期末~古墳時代初頭)の竪穴建物の4本柱の最下部に、柱の沈下を防ぐ基礎工法が施されていたことが分かったと発表した。
 釜蓋遺跡では、この時代の竪穴建物では県内最大規模の建物跡(東西9・92m、南北10・08m)が焼けた状態で出土した。 その後の調査で、建物の4本の柱(最長約90cm)の根元(直径約25cm)を鉄製斧でえぐり、柱穴(直径約80cm)の底に材木をキ字状や井桁状に置いて柱と噛ませ、柱のずれや沈み込みがないようにしてあることを確認した。 炭化した多量のコメも見つかったため、米の備蓄倉かもしれないとしている。
[参考:朝日新聞、2011.10.1 広報じょうえつ]


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刀良(寅)さんと佐久良(さくら)さんの戸籍と埴輪

2011年11月10日 | Weblog

柴又八幡神社古墳出土「寅さん埴輪」と「さくらさん埴輪」

 奈良国立博物館(奈良市)で開催中の第63回正倉院展(~14日まで)に出展された奈良時代の戸籍が関心を集めているとして、読売新聞が11月2日と9日に「下総国葛飾郡大島郷」の戸籍(注1)に記される「孔王部(あなほべ)」、名は「刀良(とら)」という男性と、別の世帯に同姓の「佐久良賣(さくらめ)」が、映画「男はつらいよ」の主人公・車寅次郎と、妹・さくらに似ているとあらためて紹介し、さらにその戸籍のレプリカ(注3)と寅さん似の埴輪(注4)が葛飾区の「郷土と天文の博物館」で展示されていると紹介している。
[参考:読売新聞]

(注1) 「正倉院古文書正集 第二十一巻」に収録された養老5年(721)作成の「下総国葛飾郡大島郷」の戸籍。
 「大島郷」(注2)は、現在の葛飾区柴又や同区奥戸、江戸川区の一部を含む地域にあたり。
 その中に姓は「孔王部(あなほべ)」、名は「刀良(とら)」(33歳)という男性と、別の世帯に同姓の「佐久良賣(さくらめ)」(32歳)という女性の名がある。 2人は兄妹ではないが、近くで暮らしていたとみられる。
(注2) 上記戸籍では、大嶋郷は甲和(こうわ)・仲村(なかむら)・嶋俣(しままた)の三里から構成されている。 甲和は江戸川区小岩、嶋俣は柴又と考えられています。
(注3) 展示されているレプリカは、計130戸1191人の名前と性別、年齢が記されている。
(注4) 2001年、柴又帝釈天近くの「柴又八幡神社」の社殿裏の「柴又八幡神社古墳」から出土した。
[参考: 2009.3.13 東京葛飾区・柴又八幡神社古墳 99年に出土した土師器が6世紀後半ごろの渡来系文化の影響]
コメント (1)
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市原市・牛久石奈坂古墳 「同向式神獣鏡」が県内初出土

2011年11月10日 | Weblog
 千葉県市原市埋蔵文化財調査センターは8日、市原市牛久の「牛久石奈坂古墳(うしくいしなざかこふん)」から、古墳時代中期(5世紀後半)の国産とみられる銅鏡「同向式神獣鏡」(直径16.8cm)が県内で初めて出土したと発表した。
 23日(水・祝)に現地説明会が開かれる。
[参考:千葉日報]

2011.11.25追記
 23日に、現地説明会が開催された。 前述の「牛久石奈坂古墳」は「牛久石奈坂古墳群」が正しいようである。
 同向式神獣鏡が出土したのは、牛久石奈坂1号墳(円墳、直径33m)。 ほかに鉄剣や金属製三輪玉などが出土している。
[参考:市原市HP]
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忠州市・塔坪里遺跡 新羅時代の水路施設とみられる幅5.3mの溝を確認

2011年11月09日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立中原文化財研究所は忠州可金面塔坪里遺跡(충주 탑평리유적)を発掘調査した結果、遺跡中央の南北を貫く幅5.3m、深さ1mの溝施設を確認し、その周辺には、長壁にオンドルを備えた新羅時代竪穴住居跡を大量に確認したと9日明らかにした。
 新羅時代に重要地方拠点都市5ヶ所に設置した「小さい都」のうち、今の忠北忠州に置いた「国原小京(국원소경)」が姿を表わし始めた。
 溝施設は、昨年に一部が確認された時は回廊式建物跡と発表されたが、精調査結果、古大都市中心部を貫いた巨大な水路施設とわかった。 これまで確認された長さだけでも600mを越えるこの溝(水路)は、当時の都市計画により、都市を画する役割も果たしたとみられる。
 特に、今回の発掘では製鉄と関連した焼土、鉄滓や、鉄器製作のための鉄塊、鋏、槌のような道具などが出土して製鉄生産と密接な関連があった場所とみられるという。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2010.10.20 忠州市・塔坪里遺跡 新羅時代地層から大型建物跡、百済時代地層から「呂」字形竪穴住居跡を確認
 2010.6.17 忠州楼岩里古墳群 6世紀新羅土器が出土
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