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糸島市・潤古屋敷遺跡 地頭の館(屋敷)跡は一辺が96m 潤氏の館か

2011年11月30日 | Weblog
 糸島市教委が28日、同市潤の潤古屋敷(うるうふるやしき)遺跡の大溝(13-15世紀)が、一辺96mに達することが分かったと発表した。2009年度に発見された時は、一辺が70mを超える方形の館(屋敷)と想定されていた。
 大溝はV字形で幅約6-8m、深さ約2m。 昨年3月、南北方向に約60mの溝が見つかったが、さらに北方向に掘り進めると、隅部分が出土し、一辺の長さが判明した。
 糸島半島一帯(注1)は当時、豊後国(現大分県)を本拠地とした大友氏が元寇(1274,1281)の後、軍功があったとして、在地の地頭を支配する権利を幕府から得ていた。 このため、大友氏の古文書を調査したところ、在地地頭たちが大友氏に年貢を納めないことから、大友氏が幕府に訴え出て、年貢を納めさせるようにしたという文書(1305年)(注2)の中に、「潤」氏の名前を見つけたという。
 中国製の陶磁器の出土が多量なことから、この館(屋敷)を拠点に、在地地頭が中国との私貿易を行っていた可能性もあるとする。
 一般向け現地説明会が12月4日(日)午前10時~12時に開かれる。
[参考:西日本新聞、 前出]

(注1)怡土庄は、元は原田種直の領地であったが、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでは平家方として戦い、平家没管領として関東御領になっていた。
(注2)嘉元3年(1305)8月2日の鎮西下知状か。

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■ 潤番田遺跡・潤古屋敷遺跡は南北に隣り合う遺跡である。ともに、12~15世紀にかけて存続した「怡土庄」にあり、「潤」とは「怡土庄」の遺称地名である。
 この怡土庄には「地頭」が設置されている。潤古屋敷遺跡の東に隣接する東風小学校所在の字名は「潤地頭給(うるうじとうきゅう)」である。
■ 潤古屋敷遺跡は、弥生時代、平安時代(9-11世紀)、鎌倉~戦国時代(13~15世紀)の3時期を主とする遺跡である。
 昨年度に発見された大溝(幅5~6m、深さ約2m)内部には一辺約70mを超える方形の館(屋敷)があったと想定できる。(鎌倉時代(13世紀代)に形成され、戦国時代(15世紀代)に埋められた。)

 2010.7.13 糸島市・潤番田遺跡 14世紀の高麗青磁陶枕が出土


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