歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

桜井市・纒向遺跡 大型建物跡の南側から桃の種2000個以上と祭祀関連遺物が出土

2010年09月17日 | Weblog
 桜井市教委は17日、桜井市の纒向遺跡(2世紀末~4世紀初め)で、大型建物跡の南側約5mの楕円形の穴(東西約2.2m、南北約4.3m、深さ約80cm)から、桃の種(直径約2.5cm)2000個以上と竹ざるの遺物6点(直径30~60cm)や、多数の人為的に割られた土器片、木製の剣、漆塗りの弓、獣の骨など見つかったと発表した。別の場所からは銅鐸の破片1片も出土した。
 いずれも3世紀半ばのものとみられ大型建物の解体に伴う何らかの祭祀で用いられたのではないかと説明している。桃は古代、魔除けなどに使われたとされ、祭祀に使った後に捨てた可能性があるとみている。
 古代中国の道教の神仙思想では、桃は不老不死や魔よけの呪力があるとされた。3世紀末の中国の史書「魏志倭人伝」は卑弥呼が倭国を鬼道(呪術)で支配したと記し、鬼道を道教とみる説もある。
 桃の種が見つかった楕円形の穴の東側には、やはり3世紀前半の柵の跡とみられる11の穴も確認。以前に見つかった西隣の建物遺構2棟を囲む柵跡とつながっており、3棟が柵で囲まれていたことが裏付けられた。柵の外側には大型建物と同時代の遺構はなく、大型建物を際だたせるため広い空間を作ったとみている。柵の撤去後に楕円形の穴が掘られたと推定される。
 現地説明会は19日午前10時~午後3時に開かれる。
[参考:時事通信、朝日新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース
 2009.11.10 纒向遺跡 3世紀前半の国内最大の建物跡が見つかる
 2009.8.23 纒向遺跡 新たな柱穴発見、棟持ち柱の可能性
 2009.3.20 纒向遺跡 卑弥呼時代の建物群と柵が出土
 2009.1.31 「邪馬台国」解明へ 桜井市・纒向遺跡を本格調査へ

纒向遺跡に桃の種2千個…3世紀、祭祀に使用?(読売新聞) - goo ニュース
穴から桃の種2000個=3世紀半ば、祭祀で使用か―奈良・纒向遺跡(時事通信) - goo ニュース
卑弥呼も供えた?モモ発見 奈良・纒向遺跡(共同通信) - goo ニュース

メモ:
 2010.7.10の韓国・聨合ニュースで「臨津江クンナムダム水没予定地である京畿漣川郡中面三串里川辺沖積地一帯で最近確認した初期三国時代製鉄の村遺跡の調査で、鍛冶屋の一つの住居跡で、鍛冶炉の平面円形の底側壁体中央内部に打ち込まれた桃の種を10個余り確認したと7月9日発表した。」との記事があった。9ヶ所の鍛冶屋の住居跡が見つかっている。
 桃の種は、邪悪な精気をはね除ける精気であり、あるいは生産と性交という象徴性を持つと触れている。
 纒向遺跡の勝山地区では、鍛冶関連の遺物として羽口や送風管が出土している。

過去の関連ニュース・情報
 2010.5.6 漣川郡中面三串里の臨津江川辺沖積地帯から2000年前の「製鉄の村」を確認
 2010.3.26 漣川郡旺澄面の臨津江川辺沖積地帯から2000年前の大規模集略跡と高句麗石室墳9基が出土
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津市・多気北畠氏遺跡 室町後期の建物の柱跡や墓石が出土、23日現地説明会

2010年09月17日 | Weblog
 津市教委は16日、多気北畠氏遺跡(津市美杉町)の第33次発掘調査で、慶正寺があったと伝えられる場所から、室町時代後期(15世紀中頃~16世紀後半)とみられる建物の柱跡や墓石の一部などを確認したと発表した。
 墓石は五輪塔の一部。ほかに、陶器の花瓶(けびょう)の破片や大皿など中国製の青磁も見つかった。
 現地説明会が23日(木) 午後1時半から開かれる。
[参考:2010.917読売新聞、2010.9.22毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.12.10 多気北畠氏遺跡 室町後期の建物跡など確認 12日現地説明会
 2009.1.8 多気北畠氏遺跡 刀の鞘の栗形が県内初出土 10日現地説明会
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三次市・南山遺跡 古代製鉄関連遺構を発見

2010年09月17日 | Weblog
  三次市有原町の「南山遺跡」で木炭を作る窯など古代の製鉄関連遺構が見つかった。窯は木炭を横口から取り出す「ヤツメウナギ」と呼ばれる方式。広島県内での確認は7例目。
 燃料用の木炭窯(長さ約8m、幅約1m)2基、炉の土壁などの廃棄物、精錬中に流したとみられる不純物などが見つかった。
 ヤツメウナギは古墳時代後期以降の方式で、6~8世紀ごろの遺構と推測される。
 現地説明会が19日(日)午後1時半から開かれる。
[参考:中国新聞]
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宮城県亘理町・桜小路横穴墓群 蕨手刀が出土、県内最大級の横穴墓群を確認

2010年09月17日 | Weblog
 亘理町教育委員会は16日、町中心部にある古墳時代後期(約1400年前)の横穴墓を中心とする遺跡「桜小路横穴墓群」の発掘調査
で、あらたに7~8世紀の横穴墓25基と、そのうちの1基から金属製品の「蕨手刀(わらびてとう)」(長さ40cm)が出土したと発表した。蕨手刀が宮城県南沿岸部で出土するのは初めて。
 ほかに、「直刀」(長さ80cm)、30本以上の鏃(やじり)、水晶製の勾玉、琥珀製の棗(なつめ)玉、耳環などの副葬品が見つかった。蕨手刀の形態などから7~8世紀(飛鳥~奈良時代)にかけ、当時の亘理地方を治めていた有力者と家族が葬られたと推定されるとしている。続日本紀の養老二年(718) 5月2日の条に、「(略)割陸奥国之石城。標葉。行方。宇太。曰理。(略)」、和名抄に「和多里」とあり、曰理と和多里が現在の「亘理」である。
 横穴墓は棺を納めた敷石のある玄室、玄門、閉塞石を積み重ねた羨道の三つの部分で構成。玄室は正方形か長方形で、一辺が2・4~3mの大型のものと、1.5mの小型のものとがあった。
 死者を弔う墓前祭で使用されたと考えられる土師器、須恵器などが多量に出土した。
 昭和55年(1980)の発掘調査で横穴墓26基を確認しているので、今回出土した新たな横穴墓を含めると51基に、さらに周辺一帯を含めると100基を超える横穴墓群が分布する県内最大級の遺跡であることが分かった。
 一般の現地説明会は18日(土(午後1時半から開かれる。
[参考:河北新報、毎日新聞、朝日新聞]

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松江市・出雲国府跡 漆が付いた土師器の甕と玉製作関連遺物が出土、域内で漆の精製と玉作りか

2010年09月17日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センター(松江市)は16日、史跡、出雲国府跡(同市大草町)の国庁北側に位置する国司館(こくしのたち)の東側隅付近の調査で、奈良時代(8世紀頃)に漆の精製に使われたとみられる土師器の甕(高さ約15.5cm、直径14.5cm)が出土したと発表した。内側には黒色の漆が付着していた。漆は当時の役人が身につけた金属製品や革の装飾加工に用いられたとみられ、漆の精製が国府内で行われていた可能性が高いという。
 また、水晶や瑪瑙の原石、未製品、完成品、砥石など玉製作関連の遺物が出土し、国府内で玉作が行われていた可能性が高いという。
 ほかに、排水などに用いたとみられる幅約30cmの複数の溝が格子状に交差した井桁状遺構(過去の調査と合せて25m×20m以上の範囲)が見つかり、国司館の成立頃に、大規模な地盤整備作業が行われていた可能性があるとしている。
 現地説明会が23日(木)午前10時~12時に開かれる。
[参考:産経新聞、読売新聞、島根県HP]

メモ: 続日本紀より
和銅元年(708)3月13日 正五位下忌部宿祢子首爲出雲守。
霊亀二年(716)4月27日 正五位下船連秦勝爲出雲守。
天平十一年(739)6月23日 賜出雲守從五位下石川朝臣年足。絁卅疋。布六十端。正税三萬束。賞善政也。
天平勝宝二年(750)3月12日 從四位下百濟王孝忠爲出雲守。
天平勝宝六年(754)7月13日 從五位下阿倍朝臣綱麻呂爲出雲守。
天平宝字元年(757)6月16日 從三位百濟王敬福爲出雲守。(遙任?)
天平宝字二年(758)6月16日 參議從三位文室眞人智努爲出雲守。
天平宝字五年(761)10月1日 正四位上文室眞人大市爲出雲守。
天平神護二年(766)10月8日 正五位上大伴宿祢御依爲出雲守。
神護景雲三年(769)6月9日 從五位上布勢朝臣人主爲出雲守。
宝亀元年(770)5月9日 從五位上大伴宿祢駿河麻呂爲出雲守。
宝亀三年(772)11月1日 正五位上豊野眞人奄智爲出雲守。

このほかに、万葉集で5首を載せる出雲守門部王がいる。
出雲守の時の歌2首は、
出雲守門部王の京を思(しの)へる歌一首 後に大原真人の氏を賜へり
(万葉集371) 飫宇の海の 河原の千鳥 汝が鳴けば わが佐保河の 思ほゆらくに 
(原文 飫海乃  河原之乳鳥  汝鳴者  吾佐保河乃  所念國)   

門部王の、出雲守に任(まけ)らえし時に、部内の娘子(をとめ)を娶(ま)く。いまだ幾時(いくばく)ならずして、既に往来(かよひ)絶えたり。月を累(かさ)ねし後に、また愛(いつくしみ)の心を起こす。よりてこの歌を作りて娘子に贈致(おく)れり。
(万葉集536) 飫宇の海の 潮干の潟の片思に 思ひや行かむ 道の長道(ながて)を
(原文 飫宇能海之 塩干乃鹵之 片念尓 思哉将去 道之永手呼)
[参考:原文、訳など「万葉集」(全訳注原文付 中西進)1980講談社文庫」

続日本紀では門部王は、ほぼ同時期に二人いて、区別がつきにくいところがあるが、出雲守を歴任した門部王(天武王天皇の皇子長親王の孫)を■、別人の門部王(未詳、親王の子)を□、として整理すると下記のようになる。
ただし、どちらも出雲守とは見当たらない。
■和銅三年(710)1月7日 授无位門部王。
□和銅六年(713)1月23日 无位門部王從四位下。
■養老元年(717)1月7日 門部王(略)從五位上。
■三年(719)7月13日 令伊勢國守從五位上門部王管伊賀志摩二國。
■養老五年(721)1月5日 從五位(略)門部王(略)正五位下。
□養老五年(721)6月26日 從四位下門部王(略)爲大判事。
■神亀元年(724)2月22日 門部王正五位上。
■神亀三年(726)9月27日 從四位下門部王(略) 爲造頓宮司。
□神亀五年(728)5月21日 授正五位上門部王從四位下。
□天平三年(731)1月27日 從四位下門部王(略)從四位上。 
□天平三年(731)12月21日 (略)治部卿從四位上門部王(略)
■天平六年(734)2月1日 從四位下(略)門部王(略)爲頭。
■天平九年(737)12月23日 從四位下門部王爲右京大夫。
■天平十四年(742) 4月24日 授從四位下大原眞人門部從四位上。
■天平十七年((745)4月23日 大藏卿從四位上大原眞人門部卒。
となる。
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