佐賀県唐津市教委は23日、唐津城跡(同市東城内)の石垣修復に伴う発掘調査で、天守閣がある公園東側の石垣(幅12~28m、高さ12m)の裏側全域から、名護屋城跡(同市鎮西町)で出土した瓦片と同一の文様が入った瓦片約40点(①)や、金箔を施した瓦片1点(②)を含む約1000点の瓦片が出土したと発表した。
①は大きさが15~39cmほどで、豊臣家の桐文様や唐草文様などの意匠が入った軒瓦。名護屋城のものとみられる瓦片は1995年に3個が見つかっていたが、大量に確認されたことで、「唐津城は名護屋城の解体資材を使って建てられた」とされる通説を裏付ける史料になる。
②は金箔瓦片1個で、飾り瓦の「しゃちほこ」の鰭の一部らしい。大きさが10・5cm×8・5cmで、大きな溝が横1列に3本あり、その溝に沿って約1cmの細い溝が植物の葉脈のように刻まれている。金箔は溝の部分に残り、金箔と溝の間には接着剤として塗られた赤漆の跡も見つかった。金箔瓦は、豊臣秀吉の権力を示すもので、全国約40カ所の城郭で確認されているが、県内では名護屋城に続き2例目。ただ同型の金箔瓦は名護屋城の出土物にはない。
唐津城築城については幕末に書かれた複数の庄屋文書の記述から「寺沢広高が名護屋城の廃材を使い1602年から1608年にかけて築城した」と伝えられてきた。
市は28日午前9時半と午前11時から現地説明会を開く。
[参考:佐賀新聞、西日本新聞、読売新聞、共同通信]
唐津藩
文禄4年(1595) 豊臣秀吉の家臣・寺沢広高(1563-1633)がこの地に封ぜられた。広高は関ヶ原の戦いでは東軍方につき、戦後、肥後・天草郡4万石を加増された。
慶長7年(1602) 唐津城の本格的な築城を行い、慶長13年(1608)に完成。
寛永15年(1638) 広高の子の堅高(1609-1647)は、島原の乱による失政の責任を取らされ天草領4万石を没収された。
正保4年(1647) 堅高は江戸藩邸で自殺。嗣子がなかったために寺沢家は断絶となった。
歴代城主
寺沢家(1593年~1647年)
大久保家(1649年~1678年)
松平大給(おぎゅう)家(1678年~1691年)
土井家(1691年~1762年)
水野家(1762年~1817年)
小笠原家 (1817年~1871年)
①は大きさが15~39cmほどで、豊臣家の桐文様や唐草文様などの意匠が入った軒瓦。名護屋城のものとみられる瓦片は1995年に3個が見つかっていたが、大量に確認されたことで、「唐津城は名護屋城の解体資材を使って建てられた」とされる通説を裏付ける史料になる。
②は金箔瓦片1個で、飾り瓦の「しゃちほこ」の鰭の一部らしい。大きさが10・5cm×8・5cmで、大きな溝が横1列に3本あり、その溝に沿って約1cmの細い溝が植物の葉脈のように刻まれている。金箔は溝の部分に残り、金箔と溝の間には接着剤として塗られた赤漆の跡も見つかった。金箔瓦は、豊臣秀吉の権力を示すもので、全国約40カ所の城郭で確認されているが、県内では名護屋城に続き2例目。ただ同型の金箔瓦は名護屋城の出土物にはない。
唐津城築城については幕末に書かれた複数の庄屋文書の記述から「寺沢広高が名護屋城の廃材を使い1602年から1608年にかけて築城した」と伝えられてきた。
市は28日午前9時半と午前11時から現地説明会を開く。
[参考:佐賀新聞、西日本新聞、読売新聞、共同通信]
唐津藩
文禄4年(1595) 豊臣秀吉の家臣・寺沢広高(1563-1633)がこの地に封ぜられた。広高は関ヶ原の戦いでは東軍方につき、戦後、肥後・天草郡4万石を加増された。
慶長7年(1602) 唐津城の本格的な築城を行い、慶長13年(1608)に完成。
寛永15年(1638) 広高の子の堅高(1609-1647)は、島原の乱による失政の責任を取らされ天草領4万石を没収された。
正保4年(1647) 堅高は江戸藩邸で自殺。嗣子がなかったために寺沢家は断絶となった。
歴代城主
寺沢家(1593年~1647年)
大久保家(1649年~1678年)
松平大給(おぎゅう)家(1678年~1691年)
土井家(1691年~1762年)
水野家(1762年~1817年)
小笠原家 (1817年~1871年)
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