濊貊文化財研究院は15日、華川郡下南面原川里一帯川辺沖積台地1万7千500㎡を発掘調査した結果、早ければ2世紀末、遅くとも3世紀頃(漢城首都期.BC 18~AD 475)に、この地域に現れた大規模の村遺跡を確認したと発表した。
青銅器時代の住居跡20ヶ所と石棺墓1ヶ所、そして初期百済時代の住居跡136ヶ所と関連竪穴遺構多数を確認した。
現在まで、百済時代の家の跡地42ヶ所と竪穴遺構34基などを調査したところ、空中から見下ろす住居跡が漢字の「凸」または「凹」の字に似ている。これら住居跡の人の主な生活空間の平面形状は、大部分が六角形であり、その後方中央にはほとんど例外なくかまどを設置した典型的な百済住居跡形状であった。
住居跡から硬質無文土器、打捺文土器に属する壷と甕、深鉢形土器、長卵形土器、蒸し器など多様な土器が出土し、特に黒色磨研土器(흑색마연토기)がいろいろ確認された。
そのうち、肩全周に○とU字のような模様をきめ細かく入れた秀作品がある。これと似た色磨硏土器出土品が、ソウルの可楽洞古墳群出土品と最も似ているとして、漆で土台を塗った後に煤煙と漆を混ぜて塗って黒い色を出したようだという。模様が繊細で製作技法が非常に優れるという点から、漢城百済中央から地方に送った物品とみられる。
原川里遺跡(원천리 유적)は北漢江上流流域で確認した大規模集落遺跡であり、住居跡と遺物出土から見ると、漢城百済の北漢江上流への進出様相を見せる画期的な遺跡としている。このことから、百済がすでに始祖温祖王時代の紀元前6年に今の春川一帯と考えられる朱壌(走壌)まで進出したという記録と符合する可能性が一層大きくなったと評価している。
[参考:聨合ニュース]
青銅器時代の住居跡20ヶ所と石棺墓1ヶ所、そして初期百済時代の住居跡136ヶ所と関連竪穴遺構多数を確認した。
現在まで、百済時代の家の跡地42ヶ所と竪穴遺構34基などを調査したところ、空中から見下ろす住居跡が漢字の「凸」または「凹」の字に似ている。これら住居跡の人の主な生活空間の平面形状は、大部分が六角形であり、その後方中央にはほとんど例外なくかまどを設置した典型的な百済住居跡形状であった。
住居跡から硬質無文土器、打捺文土器に属する壷と甕、深鉢形土器、長卵形土器、蒸し器など多様な土器が出土し、特に黒色磨研土器(흑색마연토기)がいろいろ確認された。
そのうち、肩全周に○とU字のような模様をきめ細かく入れた秀作品がある。これと似た色磨硏土器出土品が、ソウルの可楽洞古墳群出土品と最も似ているとして、漆で土台を塗った後に煤煙と漆を混ぜて塗って黒い色を出したようだという。模様が繊細で製作技法が非常に優れるという点から、漢城百済中央から地方に送った物品とみられる。
原川里遺跡(원천리 유적)は北漢江上流流域で確認した大規模集落遺跡であり、住居跡と遺物出土から見ると、漢城百済の北漢江上流への進出様相を見せる画期的な遺跡としている。このことから、百済がすでに始祖温祖王時代の紀元前6年に今の春川一帯と考えられる朱壌(走壌)まで進出したという記録と符合する可能性が一層大きくなったと評価している。
[参考:聨合ニュース]