歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

佐賀市・三重津海軍所跡 昨年確認した護岸から南側30mの地点で、新たに木製護岸を確認

2010年03月20日 | Weblog
 佐賀市教委は19日、三重津海軍所跡から、船渠(ドック)の遺構となる木製護岸施設の跡が見つかったと発表した。
 調査は佐野常民記念館周辺の早津江川河川敷の南側で、面積8×12mを発掘し、2・5mの深さから幅3・5mの範囲で護岸の跡が確認された。9本の丸太を横に並べて護岸壁になっており、90cm間隔に、長さ3・3m、直径14cmの杭を縦に組んで固定している。粘土層に埋まっていて保存状態は良く、護岸はさらに横に続いている。
 市教委は昨年9月、北側に約30m離れた地点を調査し、今回と同じように木製護岸を確認している。船が出入りするドックは早津江川の入り江のような構造になっているとみられ、今回の調査も踏まえてドックの幅を約30mとみている。
[参考:佐賀新聞]

過去のニュース・情報
 2009.9.11 三重津海軍所跡 船渠は修理が主目的か、遺構を報道人に公開
 三重津海軍所跡
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福井県敦賀市・敦賀城 遺構を初確認

2010年03月20日 | Weblog
 敦賀市教委は19日、市立敦賀西小学校校庭(同市結城町)で、敦賀城の一部とみられる16世紀末の建物跡を発掘したと発表した。
 敦賀城は、関ヶ原の戦い(1600年)の戦国武将大谷吉継の居城だったが、江戸幕府の一国一城令により、築城から約30年で姿を消した。古地図などから同校周辺にあったことはわかっていたが、発掘調査で遺構が確認されるのは初めてという。
 敦賀城のものとみられる建物跡は地下約2mの地層から出土。柱を置いた礎石が20個以上あったほか、同時代の陶磁器や瓦などが見つかった。
 22日午後1時30分から、現地説明会が開かれる。
[参考:読売新聞]

「幻の城」敦賀城遺構、発掘調査で初めて確認(読売新聞) - goo ニュース


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京都市・興正寺 掛け軸「雲龍図」が江戸前期の狩野探幽作と判明

2010年03月20日 | Weblog
 浄土真宗興正派本山の円頓山興正寺(京都市下京区)は19日、同寺で保管する水墨画の雲龍図の掛け軸が、江戸前期の狩野派の絵師・狩野探幽の作品であることが確認されたと発表した。
 雲龍図は絹地に嵐の海の上で雲をまとう竜が画面いっぱいに描かれた水墨画で、縦約115cm、横約202cmm。表面右下の落款に「行年七十歳 法印探幽」の署名と探幽が後水尾法皇から拝領した「筆峯大居士」の落款があったが、今回、三井記念美術館(東京)学芸員の樋口一貴さんが同館所蔵の探幽の印鑑(後水尾法皇から探幽に贈られた印)と同図の落款の印影「筆峯大居士」を比較したところ完全に一致した。「行年七十歳」から、1671(寛文11)年に描かれたとみられる。
 一方、探幽から同寺関係者にあてた書状が1986年に見つかったが、報酬のお礼や、中風で手を痛めていることを説明した記述は、探幽が70歳前後に中風だった事実と一致。当時の作品であることの証明になるという。樋口さんは「画家と注文主の関係などがうかがえる資料」としている。
 樋口学芸員は「若いころの雲龍に比べ、顔の輪郭が力強く臨場感がある。晩年の成熟した大胆さがうかがえる。大きな掛け軸に描こうという強い意志を感じる。探幽の画業を考える上で貴重。」と話している。
[参考:時事通信、共同通信、読売新聞、産経新聞、毎日新聞]

狩野探幽の雲龍図と確認=京都・興正寺の掛け軸(時事通信) - goo ニュース
興正寺・雲龍図、江戸前期の狩野探幽作と発表(読売新聞) - goo ニュース
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豊岡市・市場神無遺跡群 7世紀初め~8世紀初めにかけての窯跡と陶工の墓が出土

2010年03月19日 | Weblog
 豊岡市立出土文化財管理センターは18日、同市市場の市営霊園建設予定地で進めてきた発掘調査で、7世紀前半から8世紀初めにかけての須恵器窯の跡5基や墓8基が確認されたと発表した。窯跡のすぐそばに窯元らが埋葬されたとみられる石造りの墓もあり、当時の陶工らの営みがうかがえる全国的にも珍しい発見という。一帯を「市場神無遺跡群(いちばかんなしいせきぐん)」と名付けられた。
 遺跡群は、東西に長い谷の奥側にあり、2008年からこれまでに約2500㎡が発掘された。谷の入り口付近にある窯跡の存在は以前から知られていたが、谷の奥で遺構を確認したのは初めてという。
須恵器や瓦の出土品に加え、5つの窯と8つの墓、粘土の採掘場や作業道などが確認された。須恵器の生産が下火になった奈良時代以降の土地利用がなく、当時の陶工の作業場がほぼ完全な形で残っているという。
 窯は山の斜面を利用して築いた全長2~8mの登り窯。須恵器の破片や近くの白鳳寺院跡とされる三宅廃寺跡から出土したものと同じ瓦、硯の破片などがあった。
 古い墓はいずれも、窯のある斜面の上で確認された。7世紀中頃の横穴式石室が最も古かった。その後に造られたとみられる小型石室墳(4基)や集石古墓(3基)は2m四方で、遺体をそのまま安置するには狭いことから、同時に見つかった横穴式木室墳で骨にしてから、埋葬したのではないかとみられるという。また、集石古墓の周辺からは、追善供養としてまかれたとみられる奈良時代の銅銭・神功開宝(765年)8枚も見つかった。被葬者の社会的地位の高さを示している。
 権威のある窯元が自らの仕事場近くに葬られていたと考えられ、これまで判然としていなかった陶工の埋葬形式解明にもつながるとしている。また、石造りの墓に高度な技術が使われていることなどから、当時の陶工らが比較的、高い身分に置かれていたとみている。
 調査は今月中に終了する予定。約200箱見つかった須恵器の出土品は来年度中に詳細に調査、分類を進めるとしている。
 一般向け現地説明会は27日午後2時から行われる。悪天候時は翌日に順延。
[参考:神戸新聞、毎日新聞、朝日新聞]

陶工の営みうかがえる7世紀の遺跡群 豊岡で発見(神戸新聞) - goo ニュース
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東京都府中市府中本町駅前 武蔵国司館跡か 大型の建物跡4棟出土

2010年03月19日 | Weblog
 南武線および武蔵野線府中本町駅前(府中市本町1丁目)で、8世紀頃のものとみられる大型の掘っ立て柱建物跡が4棟見つかった。発掘は民間調査会社「共和開発」が行った。
 発見された建物跡のうち、主屋とみられる1棟は東西11・4m、南北7・4m。南北に庇があり、柱穴の直径は約1mあった。4棟は南北軸を意識して建てられていたようであり、構造や配置などから、公的な機能を持った国司の館ではないかとみられている。建物跡の配置は陸奥国の国司の館跡とされる館前遺跡(たてまえいせき、宮城県多賀城市)と似ているという。
 現場は、江戸時代には徳川家康が鷹狩りに用いた府中御殿があったとの伝承が残っている。また、駅の反対・西側(本町2丁目)では過去に国衙建造時の運河状大溝が出土している。
[参考:読売新聞、国府はいつできたか&調査報告(発行・2010.1.23府中市郷土の森美術館)]

武蔵国司館跡か、府中で大型の建物4棟発見(読売新聞) - goo ニュース

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米子市・境北井遺跡 弥生時代後期の建物跡13棟が見つかる

2010年03月19日 | Weblog
 米子市教育文化事業団埋蔵文化財調査室が18日、南部町境(さかえ)の丘陵部の尾根(標高54~36m)で弥生時代後期から古墳時代にかけての集落跡「境北井遺跡(さかいきたいざこいせき)」が見つかったと発表した。
 弥生時代の建物跡13棟が確認され、3度建て替えられた住居もあった。隣接する尾根にかけて大規模集落が広がっていた可能性がある。
 20日午後1時から現地説明会が開かれる。「わかとり作業所」(南部町福成3292−1)北側の現地事務所に集合。
[参考:読売新聞]
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彦根市・佐和山城遺跡 幅22mの内堀の東端の遺構が見つかる

2010年03月19日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会が18日、石田三成(1560~1600)の居城があった彦根市の佐和山城遺跡(同市佐和山町)から、内堀の東端の遺構や城下町の町屋区画跡が見つかったと発表した。内堀は幅約22mと推定され、戦国時代の城としては大型といい、『三成に過ぎたるもの』と評された城の一端が明らかになったとしている。
 内堀西端に築かれたと伝わる土塁の東側約550㎡を発掘し確認した。発掘された内堀跡は幅が東西10m、南北4m、深さ約0・5m。西側に内堀の一部と伝わる小野川や土塁跡があり、土塁跡から測ると内堀の幅は約22mだった。土塁は廃城後に削られたが、現存部でも1・5mの高さがあり、当時はさらに高い土塁と幅広い内堀があったとみている。織田信長の居城・安土城(安土町)の内堀の幅は10~30mで、ほぼ同規模の城構えだったとみている。
 内堀東側の城下町の区域では、16世紀後半の金属精錬時に送風する「鞴(ふいご)」や、溶けた金属を取り出す容器「取瓶(とりべ)」、鉄滓を発見した。一帯で職人が武器などの鉄製品を生産していたとみられる。
 城下町を区画した溝(幅約2、3m、長さ30m)もあり、墓石を転用して暗渠を造っていたことも判明した。区画と排水を両立させる溝は昨年7月、内堀西側の家臣の屋敷跡でも確認。三成の家臣は1596年頃、城を拡充するため農民を徴集するよう求める書状を領地周辺に出しており、三成が墓石までも活用し、突貫工事で湿地帯だった城下一帯を整備した可能性がある。
 同城は、鎌倉時代に近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱(1142-1205)の六男・佐保時綱が築いた砦が起源という。三成以前にも、織田信長や豊臣秀吉の家臣らが入城し、三成が関ヶ原の戦い(1600年)で敗れた後は、初代彦根藩主・井伊直政も拠点としたが、彦根城の築城後は破壊されたため、詳細は不明。
 佐和山城の正面が佐和山の東西どちらにあったのかも議論が分かれている。今回の調査では、大阪城築城開始(1583年)以後の瓦、瀬戸美濃焼の天目茶碗や中国製の磁器など16世紀後半の遺物が多く出土し、三成の居城だった時期にも使われた遺構とみられ、東説を補強する成果とする見方もある。
 現地説明会は20日午後1時半行われる。
[参考:京都新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース
 2009.7.23 佐和山城 武家屋敷の堀と紐金具を発見
 2009.9.23 横山城 2期にわたり築造確認 土塁は秀吉が改修補強か
 2008.11.21 横山城遺跡 戦国時代の痕跡出土

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明日香村・甘樫丘東麓遺跡 城柵跡と見られる柱穴が出土 「上の宮門」があった証か

2010年03月18日 | Weblog
 奈良文化財研究所が18日、「乙巳(いつし)の変」(645年)で滅んだ蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅があったとされる甘樫丘中腹で、7世紀の塀跡とみられる柱穴列が見つかったと発表した。塀跡は、日本書紀で記されている蘇我氏邸を囲った「城柵(きかき)」(注1)の可能性があり、丘陵上部にも何らかの施設があったことを示唆する重要な発見としている。
 前回の飛鳥藤原第157次調査地点の東側から東南側にかけて発掘調査を実施していた。甘樫丘東麓遺跡の背後の斜面で、丘陵の裾から約10m地点を平らにし、丘の上部を区画する柱穴列を発見した。
 柱穴列は約10mで、直径25~30cmと推測される大きな柱穴3基の間に細長い溝が掘られ、直径10~15cmの小さな柱穴が密に並ぶ。柱列を土やわらで固めて壁にする朝鮮半島がルーツの大壁建物とも似た珍しい構造の塀という。
 塀跡の内側には、飛鳥の宮殿跡が目の前に望める平らな尾根があり、「上の宮門」の立地にふさわしいロケーションという。
 現地見学会は、3月20日 午前11時~午後3時、説明は午後0時、午後2時の2回行われる。
[参考:産経新聞、見学会]
(注1) 皇極3年(644)冬11月に、蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は、家を甘檮丘に並んで建てた。大臣の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門と言った。(略) 家の外には城柵を造り、門の傍に兵庫を造り、門毎に用水桶一つと木鉤数十本とを置いて火災に備えた。

過去のニュース
 2009.6.17甘樫丘東麓遺跡 蘇我氏邸宅の石垣延長部(城柵?)見つかる  
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川崎市・野川神明社南遺跡 第2次調査現場見学会 H22.3.13開催

2010年03月18日 | Weblog
 川崎市宮前区野川の野川神明社の南側では、老人ホーム建設に伴い昨年末から「野川神明社南遺跡第2次調査」として発掘調査が行われている。これまでに、弥生時代後期(3世紀末)と奈良時代(8世紀頃)を中心に多くの建物跡が発見されている。特に、南北に軸を揃えた掘立建物跡は、調査地点の北側に位置する7世紀末創建の影向寺(注1)やその東側に位置する古代橘樹郡衛との関係が推測される。
 17日東京新聞による市教委への取材で、奈良時代ごろの掘立柱建物の跡とみられる遺構11棟が見つかったことがわかった。
 今回の調査は、橘樹郡衙推定地の南西約500mで、これまで畑だった土地。昨年12月から今月までの予定で行われている調査でも遺構のほか、平安時代の土師器などが出土し、土師器などは橘樹郡衙推定地で見つかったものとよく似ているという。
 現地見学会が3月13日(土)10時と11時の2回開かれる。(実施済み)
[参考:2010.3.10宮前区観光協会HP、川崎市HP、2010.3.18東京新聞]

(注1)影向寺
 天台宗威徳山月光院影向寺(ようごうじ)。縁起によると、天平12年(740)聖武天皇の勅願により、僧行基により開創した。「影向」とは神仏の憑りますところという。
[参考:影向寺境内説明板]
 たびたび行われた寺域の発掘調査等によって、創建は①では7世紀後半頃、②では7世紀末頃と推定している。
[参考:①「古刹影向寺」/三輪修三2006年、②古代川崎発見/川崎市教育委員会2006]



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明日香村・飛鳥寺西方遺跡 大化改新ゆかりの「槻の木広場」か、石敷き跡が出土

2010年03月18日 | Weblog
 明日香村教委が17日、飛鳥寺西方遺跡で7世紀の石敷き跡が見つかったと発表した。大化改新前に中大兄皇子と中臣鎌足が出会ったとされる「槻(つき)の木広場」の一部だった可能性があるという。
 飛鳥寺の南西約120mの地点を調査。東西5・2m、南北2・4mにわたり、10~20cmのこぶし大の石を丁寧に敷き詰めていた。周囲には一回り小さい砂利も敷かれていた。
 今回の調査地の北側で奈良文化財研究所などが過去に実施した調査と合わせ、石敷きは東西30m以上、南北70m以上に広がる可能性があるという。
 他にも石組の溝が造られ、近くには石敷きの約1m下から直径20cmの瓦製の土管暗渠(あんきょ)が埋められていた。土管には継ぎ目があり、過去の発掘でみつかっている北側の暗渠とつながり、北に170mほど続いていた。人工的な整備が、飛鳥寺西門付近から南側に広がっていたとしている。
 日本書紀によると、皇極3年(644)、中臣鎌子連(藤原鎌足)は法興寺(飛鳥寺)の槻の樹の下で蹴鞠が行われた際、中大兄皇子と親しく話す機会を持ち、その後、大化改新の策を練ったとされる。そして、皇極6年(647)6月19日、孝謙天皇、中大兄皇子は、大槻の樹の下に群臣を召し集めて誓約をさせ、その年の年号を大化と改めた。さらに後、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)軍が陣を構えたり、外交使節をもてなす宴会が開かれたとされる。
 現地見学会が20日午前10時~午後3時に行われる。(明日香村HPでは、見学会だけで説明はないとしている。)
[参考:産経新聞、共同通信、MBS毎日放送、明日香村HP]


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岡山市・造山古墳 周濠を確認 ミサンザイ古墳(堺市)と似た築造方法だった

2010年03月17日 | Weblog
 岡山大は17日、全国第4位の規模を持つ造山古墳(岡山市北区、5世紀前半、全長約350m)を発掘調査中の岡山大学新納教授の研究チームにより周濠の存在がほぼ確実となり、天皇陵と比べても遜色のない古墳であることがわかったと発表した。前方部の南側と、後円部の東側を発掘し、いずれも粘土状の黒土が堆積した周濠を確認した。
 古墳の後円部東側の20mほどはなれた水田を発掘し、土の層の重なり具合を調査した結果、周濠の存在がほぼ確実となった。また、水田の畦道となっているところが、濠を形作る堤の名残とみられ、堤(高さ約0・35m、幅約8m)の存在も確認された。築造時はもっと高かったと考えられるという。墳丘と堤との距離から周濠の幅は約20mあったと推測。また、後円部と前方部では標高差が3・7mと大きいため、周濠の途中で段差があったとみられる。前方部の周濠の幅は26.5mとみられる。
 岡山県を中心とした吉備地方は弥生時代から古墳時代にかけて、独自性を持った地域勢力があったといわれ、日本書紀にも吉備勢力の反乱伝承がある。
 同古墳と同じ時期に造られたとされる堺市の上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵、墳長360m)など、畿内の天皇陵とよく似た築造方法だったことになり、造山古墳の被葬者が畿内と同盟関係にあった大首長だった可能性が高まったとする。
 現地説明会は20日午後1時から開かれる。
[参考:共同通信、読売新聞、産経新聞、RSK山陽放送、毎日放送]

岡山の造山古墳、畿内と同盟関係の大首長?(読売新聞) - goo ニュース

過去のニュース・情報
 2009.3.22 造山古墳 ミサンザイ古墳より築造時期が古い可能性も



キーワード: 岡山市・造山古墳

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京都市下京区・近鉄百貨店跡地 平安時代の池跡が出土、貴族の邸宅の庭園跡か

2010年03月17日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所が、同市下京区烏丸通七条下ルの近鉄百貨店跡地を発掘調査した結果、平安時代の池の跡が見つかった。
 護岸のためにこぶし大の石を細かく敷いた「州浜」が、約15mの弧を描くような形状で確認された。大正―昭和初期に建てられたビルの基礎があったため、池全体の大きさは不明だが、池の中心は30cmほど低くなっており、底の土は粘土質だった。池には水を引き入れた跡がなく、近くで平安―室町期の井戸がみつかったことから、自然に水が湧いていた場所を庭園にしたとみている。貴族の邸宅にあった庭園の一部とみているが、所有者は不明。池があった場所からは鎌倉時代の建物跡が見つかり、庭園として使われたのは短期間と考えられるという。
[参考:京都新聞]



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福井県勝山市・平泉寺白山神社 僧侶屋敷跡から15~16世紀頃の数珠(水晶片)が出土、寺内で加工か

2010年03月17日 | Weblog
 市教委は16日、平泉寺白山神社(同市平泉寺町平泉寺)から南へ約200mの「南谷」と呼ばれる場所の僧侶屋敷跡から、室町時代後期(15~16世紀ごろ)に数珠の製作に使われたとみられる六角形の砥石(縦8.5cm、横5.5cm、厚さ1cmの粘板岩製)と、加工途中の水晶の破片(0・5~2cm大)数個が見つかったと発表した。砥石には、水晶を研磨したとみられる溝が残っていた。中世の数珠の製造跡は一乗朝倉氏遺跡(福井市)など国内で数カ所確認されているが、寺内で専属職人が作っていたとみられる全国でも珍しい出土例という。
 平泉寺白山神社の前身の平泉寺は、養老元年(717年)泰澄によって開山と伝えられる天台宗の寺。最盛期の室町時代後期には、6千の僧侶屋敷を持つ北陸地方の一大勢力だった。天正2年(1574年)一向一揆勢に焼き討ちされ衰亡した。
[参考:共同通信、毎日新聞、中日新聞]

過去のニュース・情報
 2007.5.10 福井県勝山市・白山平泉寺 景徳鎮の白磁観音像が出土
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天理市・ノムギ古墳 後方部裾で花崗岩の礫が多数出土

2010年03月16日 | Weblog
 天理市教委は15日、築造時期が3世紀後半までさかのぼる可能性もある天理市佐保庄町の前方後方墳・ノムギ古墳(全長63m)の後方部裾で、花崗岩の礫が多数見つかったと発表した。墳丘の表面に敷かれた葺石が周濠(幅約12m、最深部の深さ約50cm)に転げ落ちた痕跡である可能性が高いという。これまで、土砂流出を防ぎ、威容を示すために墳丘の表面を覆っていた葺石はないとされていた。
 後方部の南側墳丘裾で2カ所、計68㎡を発掘調査した。礫は人のこぶしから顔ぐらいの大きさで、墳丘の上部から流れ落ちてきたような状態で確認された。教委は、葺石が転落してきた可能性以外に、これほど大量の礫が墳丘裾に溜まることは考えられないと判断している。このほか、古墳時代初頭から後期にかけての土師器や須恵器の破片も多数、出土した。
[参考:毎日新聞、奈良新聞]

過去のニュース・情報
 2010.2.23 天理市佐保庄町・ノムギ古墳 発掘調査を開始
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島田市・智満寺 鎌倉時代後期作・木造慈恵大師座像が県有形文化財に指定される

2010年03月16日 | Weblog
 静岡県教育委員会は9日、島田市千葉の千葉山智満寺が所蔵している「木造慈恵大師座像」を県の有形文化財に指定したと発表した。
 慈恵大師・良源(912-985)は平安時代、比叡山延暦寺の僧として活躍し、姿を模した座像などが全国の天台宗の寺院に置かれた。
 智満寺の座像は高さ83・3cm。作者は不詳。寄せ木造りの技法や写実性などの特徴から鎌倉時代後期の作とされている。袈裟が右肩をずらして着けられている姿や両眉をつなげ表情の険しさを印象づけ、目の周りを深く彫り込んだ造りも、慈恵大師の特徴を伝えている。
 県教委によると、県内に残る鎌倉時代の肖像彫刻は希少という。
 智満寺は5月31日までの土日祝日、慈恵大師座像を納めた本堂を一般公開している。
[参考:2010.3.10静岡新聞、2010.3.16毎日新聞]

■天台宗 千葉山 智満寺
開創宝亀2年(771)、開山 廣智菩薩
治承年中、源頼朝は千葉常胤を普請奉行として遣わし諸堂を再建し、その功績から当山が千葉山と呼ばれるようになった。
[参考:千葉山 智満寺HP]


■元三大師信仰
 良源の超人的な活躍は観音菩薩の権化と捉えられています。その一方で人々を救い、仏法を助ける強烈な霊力を持った存在と映ったようです。こうした良源への信仰は、外敵を調伏する力を持つと考えられ、鎌倉時代以降たくさんの良源像(彫刻や絵画)が作らました。
 大津市歴史博物館では慈恵大師1025年御遠忌記念企画展」(平成22年2月27日(土)~4月18日(日))が開催されている。
[参考:大津市歴史博物館]

■鎌倉時代中期~後期作・慈恵大師(良源)像例
 滋賀・求法寺像、延暦寺(本覚院)像、延暦寺(黒谷青龍寺)像、滋賀・金剛輪寺像、滋賀・金剛輪寺像、京都・曼殊院像、東京・深大寺像(注1)など

(注1) 東京・深大寺・元三大師像
 昨年(2009)、9月19日早稲田大学奈良美術研究所主催国際シンポジウム『文化財の解析と保存への新しいアプローチⅥ』に出席した。その中で「深大寺秘仏元三大師像の頭部の分析―CTスキャン装置を用いてー」と題して同大学櫻庭裕介講師が発表を行った。
 等身サイズの元三大師像は、13世紀前半から後半に制作されたものが比較的多く、同様な像は十数体確認されているという。これらの像の共通点は悪魔調状という目的をかなえるため独特の風貌を持ち、像高はほぼ三尺の等身坐形であり、左手に独鈷、右手に数珠を握るのが一般的であるとする。
 本像は、桧の寄木造り。眼は木眼を嵌め込んでいるが、本来は玉眼であったものが破損して置き換えられたと見解を示している。制作年代は特定できないが、14世紀(鎌倉後期)を下ることのないものとしている。

過去の関連ニュース・情報
 2009.12.1 三鷹市・深大寺 厄除元三大師ご開帳



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