歴歩

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明日香村・甘樫丘東麓遺跡 蘇我氏邸宅の石垣延長部(城柵?)見つかる  

2009年06月17日 | Weblog
 奈良文化財研究所は17日、大化の改新/「乙巳の変」(645年)で滅びた蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅があったとされる甘樫丘東麓遺跡で、7世紀前半の大規模な石垣が新たに見つかったと発表した。
 今回見つかった石垣は高さ最大1m、長さ約19mで、平成19年に出土した石垣の南側に延び、途中で1.6mほど東に曲がり、再び南へ延びていた。過去の出土分と合わせると全長約34mになる。東岸谷地(幅約8m、深さ1・2m以上)の急勾配の東斜面に一辺20~40cmの河原石を張り付けるように積み上げていた。南端部では50度の勾配があり、高さは1m。屈折部や谷へ下がる階段状の石列、開口部20cmの水口施設があった。
 甘樫丘の蘇我邸について、同研究所は日本書紀644年の記述(注1)により、石垣は邸宅の防御施設の一部だった可能性があるとしている。
 似たような石垣は、白村江の戦(663年)で日本とともに敗れた百済の亡命技術者の指導で九州や瀬戸内海沿岸などにつくられた朝鮮式山城に例があるという。時期はこれよりも少し古い。
 石垣は蘇我氏が滅亡した後、650~660年代に埋め立てられていた。同遺跡でこれまでに出土した武器庫とみられる建物や塀の跡なども、ほぼ同じ時期に壊されたことが分かっている。
 調査区域の東隅(石垣の東の尾根裾)では幅1.5~3m、長さ8~9mの石敷き遺構も見つかった。谷側に底石のない溝を造り、山側は端を直線的にそろえた縁取り状。尾根に沿って遺構が広がることが予測される。入鹿邸との関連が注目される。 調査地周辺では、焼けた壁土や木材、倉庫など小規模な建物跡が見つかっている。
 そのほか、7世紀中ごろの土師器や須恵器がほぼ完全な形で出土した。
[参考:共同通信、産経新聞、東京新聞、奈良新聞]

(注1) 日本書紀・皇極天皇三年(644年)冬十一月に、蘇我大臣蝦夷・児入鹿臣、家を甘樫岡に双べ起(た)つ。大臣の家を呼びて、上の宮門と曰う。入鹿が家をば谷の宮門と曰う。(略) 家の外に城柵(きかき)を作り、門の傍に兵庫(つわものぐら)を作る。門毎に、水盛(い)るる舟一つ、木鈎(きかぎ)数十を置きて、火の災いに備う。恒に力人(ちからひと)をして兵(つわもの)を持ちて家を守らしむ。(「岩波文庫」より)

蘇我氏邸宅の「城柵」か 奈良・甘樫丘で石垣出土(共同通信) - goo ニュース

現地見学会6月21日(日)

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