歴歩

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明日香村・飛鳥寺西方遺跡 大化改新ゆかりの「槻の木広場」か、石敷き跡が出土

2010年03月18日 | Weblog
 明日香村教委が17日、飛鳥寺西方遺跡で7世紀の石敷き跡が見つかったと発表した。大化改新前に中大兄皇子と中臣鎌足が出会ったとされる「槻(つき)の木広場」の一部だった可能性があるという。
 飛鳥寺の南西約120mの地点を調査。東西5・2m、南北2・4mにわたり、10~20cmのこぶし大の石を丁寧に敷き詰めていた。周囲には一回り小さい砂利も敷かれていた。
 今回の調査地の北側で奈良文化財研究所などが過去に実施した調査と合わせ、石敷きは東西30m以上、南北70m以上に広がる可能性があるという。
 他にも石組の溝が造られ、近くには石敷きの約1m下から直径20cmの瓦製の土管暗渠(あんきょ)が埋められていた。土管には継ぎ目があり、過去の発掘でみつかっている北側の暗渠とつながり、北に170mほど続いていた。人工的な整備が、飛鳥寺西門付近から南側に広がっていたとしている。
 日本書紀によると、皇極3年(644)、中臣鎌子連(藤原鎌足)は法興寺(飛鳥寺)の槻の樹の下で蹴鞠が行われた際、中大兄皇子と親しく話す機会を持ち、その後、大化改新の策を練ったとされる。そして、皇極6年(647)6月19日、孝謙天皇、中大兄皇子は、大槻の樹の下に群臣を召し集めて誓約をさせ、その年の年号を大化と改めた。さらに後、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)軍が陣を構えたり、外交使節をもてなす宴会が開かれたとされる。
 現地見学会が20日午前10時~午後3時に行われる。(明日香村HPでは、見学会だけで説明はないとしている。)
[参考:産経新聞、共同通信、MBS毎日放送、明日香村HP]



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