山形市の国指定史跡・山形城跡で行われている発掘調査で、本丸御殿跡調査区から建物の礎石16個が確認された。建物跡が見つかったのは初めて。詳しい形状などは不明だが、江戸初期の最上氏の時代に建てられた可能性があるという。現地説明会が27日に開かれた。
礎石は偏平で直径約25cm~50cm。約8m四方に、礎石16個が約2m間隔で設置されていた。礎石の下からは、礎石を固定する「根石」と呼ばれる直径5~15cmの石も見つかっており、根石のみの跡も8カ所あった。 16世紀末~17世紀初めの遺物が出土した整地層から見つかったことから、最上氏が城主だったころの建物跡の可能性が高いという。
[参考:山形新聞]
備考
山形城: 1356年清和源氏系足利氏一門の斯波兼頼(1315-1379)が羽州探題として山形に入部、1357年には、初期の山形城が築城される。慶長年間に最上義光(1546-1614)が、城郭を拡大、城下町を整備し、関ヶ原の戦いの功で得た出羽57万石の本城となる。
最上氏: 斯波氏の分家。斯波家兼(1308-1356)の次男・兼頼(1315-1379)が山形城を築城し、最上氏を名乗る。その後、最上義守(1521-1590)の子・義光が出羽57万石の初代山形藩主となる。2代藩主・家親(1582-1617)、3代藩主・義俊(1605-1632)と続くが、元和8年(1622)にお家騒動が原因で改易となる。
注: 家兼と兼頼の親子関係の年代が合わない。
礎石は偏平で直径約25cm~50cm。約8m四方に、礎石16個が約2m間隔で設置されていた。礎石の下からは、礎石を固定する「根石」と呼ばれる直径5~15cmの石も見つかっており、根石のみの跡も8カ所あった。 16世紀末~17世紀初めの遺物が出土した整地層から見つかったことから、最上氏が城主だったころの建物跡の可能性が高いという。
[参考:山形新聞]
備考
山形城: 1356年清和源氏系足利氏一門の斯波兼頼(1315-1379)が羽州探題として山形に入部、1357年には、初期の山形城が築城される。慶長年間に最上義光(1546-1614)が、城郭を拡大、城下町を整備し、関ヶ原の戦いの功で得た出羽57万石の本城となる。
最上氏: 斯波氏の分家。斯波家兼(1308-1356)の次男・兼頼(1315-1379)が山形城を築城し、最上氏を名乗る。その後、最上義守(1521-1590)の子・義光が出羽57万石の初代山形藩主となる。2代藩主・家親(1582-1617)、3代藩主・義俊(1605-1632)と続くが、元和8年(1622)にお家騒動が原因で改易となる。
注: 家兼と兼頼の親子関係の年代が合わない。