歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

佐賀市・三重津海軍所跡 昨年確認した護岸から南側30mの地点で、新たに木製護岸を確認

2010年03月20日 | Weblog
 佐賀市教委は19日、三重津海軍所跡から、船渠(ドック)の遺構となる木製護岸施設の跡が見つかったと発表した。
 調査は佐野常民記念館周辺の早津江川河川敷の南側で、面積8×12mを発掘し、2・5mの深さから幅3・5mの範囲で護岸の跡が確認された。9本の丸太を横に並べて護岸壁になっており、90cm間隔に、長さ3・3m、直径14cmの杭を縦に組んで固定している。粘土層に埋まっていて保存状態は良く、護岸はさらに横に続いている。
 市教委は昨年9月、北側に約30m離れた地点を調査し、今回と同じように木製護岸を確認している。船が出入りするドックは早津江川の入り江のような構造になっているとみられ、今回の調査も踏まえてドックの幅を約30mとみている。
[参考:佐賀新聞]

過去のニュース・情報
 2009.9.11 三重津海軍所跡 船渠は修理が主目的か、遺構を報道人に公開
 三重津海軍所跡
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福井県敦賀市・敦賀城 遺構を初確認

2010年03月20日 | Weblog
 敦賀市教委は19日、市立敦賀西小学校校庭(同市結城町)で、敦賀城の一部とみられる16世紀末の建物跡を発掘したと発表した。
 敦賀城は、関ヶ原の戦い(1600年)の戦国武将大谷吉継の居城だったが、江戸幕府の一国一城令により、築城から約30年で姿を消した。古地図などから同校周辺にあったことはわかっていたが、発掘調査で遺構が確認されるのは初めてという。
 敦賀城のものとみられる建物跡は地下約2mの地層から出土。柱を置いた礎石が20個以上あったほか、同時代の陶磁器や瓦などが見つかった。
 22日午後1時30分から、現地説明会が開かれる。
[参考:読売新聞]

「幻の城」敦賀城遺構、発掘調査で初めて確認(読売新聞) - goo ニュース


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京都市・興正寺 掛け軸「雲龍図」が江戸前期の狩野探幽作と判明

2010年03月20日 | Weblog
 浄土真宗興正派本山の円頓山興正寺(京都市下京区)は19日、同寺で保管する水墨画の雲龍図の掛け軸が、江戸前期の狩野派の絵師・狩野探幽の作品であることが確認されたと発表した。
 雲龍図は絹地に嵐の海の上で雲をまとう竜が画面いっぱいに描かれた水墨画で、縦約115cm、横約202cmm。表面右下の落款に「行年七十歳 法印探幽」の署名と探幽が後水尾法皇から拝領した「筆峯大居士」の落款があったが、今回、三井記念美術館(東京)学芸員の樋口一貴さんが同館所蔵の探幽の印鑑(後水尾法皇から探幽に贈られた印)と同図の落款の印影「筆峯大居士」を比較したところ完全に一致した。「行年七十歳」から、1671(寛文11)年に描かれたとみられる。
 一方、探幽から同寺関係者にあてた書状が1986年に見つかったが、報酬のお礼や、中風で手を痛めていることを説明した記述は、探幽が70歳前後に中風だった事実と一致。当時の作品であることの証明になるという。樋口さんは「画家と注文主の関係などがうかがえる資料」としている。
 樋口学芸員は「若いころの雲龍に比べ、顔の輪郭が力強く臨場感がある。晩年の成熟した大胆さがうかがえる。大きな掛け軸に描こうという強い意志を感じる。探幽の画業を考える上で貴重。」と話している。
[参考:時事通信、共同通信、読売新聞、産経新聞、毎日新聞]

狩野探幽の雲龍図と確認=京都・興正寺の掛け軸(時事通信) - goo ニュース
興正寺・雲龍図、江戸前期の狩野探幽作と発表(読売新聞) - goo ニュース
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