歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

雲南市・郡垣遺跡堀立柱建物跡3棟確認、官衙跡の可能性が高い

2010年03月27日 | Weblog
 雲南市教委が25日、同市大東町仁和寺の郡垣遺跡(こおりがきいせき)で、L字形に配置された3棟の掘立柱の建物跡が確認されたと発表した。特徴から官衙跡の可能性があるといい、旧大原郡家(おおはらぐうけ)跡との関連が注目されている。
 「出雲国風土記」は、奈良時代に同地域を治めていた大原郡の役所である大原郡家の存在を記している。遺跡がある地域は、その所在地の可能性の一つとされている。
 市教委は2006~07年、市道拡張工事に伴う発掘調査で15の柱穴跡を発見。09年12月から範囲を広げて調査を続け、新たに20の柱穴跡を発見した。柱穴の列から、平行に並んだ2棟に1棟が直角に隣接するL字形建物跡と推定される。中心となる建物は、長さが東西27m以上、南北幅約4・2mの大規模な建物跡と推定され、柱穴は大半が方形で、中には一辺が1mを超えるものもあるなどの特徴から官衙跡の可能性が高いという。
 現地説明会が27日午後2時から開かれる。
[参考:2010.3.25山陰中央新報、2010.3.27中国新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐賀市・白石原遺跡 弥生時代後期の甕棺から鏡片が出土

2010年03月27日 | Weblog
 佐賀市教委は26日、「白石原遺跡」(同市久保泉下和泉町)から甕棺の一部が出土し、中から鏡の破片が見つかったと発表した。甕棺は壺型の土器で、形状などから弥生時代後期後半(2世紀後半)のものとみられ、同時期の甕棺の副葬品として鏡片が出土するのは県内初という。
 遺跡は久保泉第2工業団地の建設予定地にあり、市教委の2008年度からの調査で、弥生時代以降に竪穴住居などの集落が形成されていたと考えられている。約80軒の竪穴式住居跡と約150棟の掘っ立て柱建物跡が確認されている。
 地表から40~50cmの深さで、推定長さ約80cmの土器の甕棺墓1基の一部が確認された。甕棺墓は形状から弥生時代後期後半頃のものとみられる。その中から出土した鏡片(長さ10cm、幅3cmの三日月形)は青銅製で、中国の新~後漢時代(1~2世紀)に作られたとみられる。両端にある穴にひもを通し、首からさげて使用していたと考えられるという。
 市教委によると、鏡片の出土は北部九州で約100例あるが、弥生時代後期は竪穴住居跡や石棺墓などで発見されるケースが多く、弥生甕棺の副葬品としては北部九州でも類例は少ないと言う。
 当時、鏡は貴重品だったため、見つかった甕棺は集落内で地位が高かった人の墓と考えられる。
[参考:2010.3.27佐賀新聞、毎日新聞、2010.4.4読売新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊豆の国市・北条氏邸跡(円成寺跡) 「本堂」と庭園の池跡を確認

2010年03月27日 | Weblog
 伊豆の国市教育委員会は26日、発掘調査を行っている同市寺家(旧韮山町)の国指定史跡・北条氏邸跡(円成(えんじょう)寺跡)の敷地内に後年建てられた寺の堂舎(本堂)と庭園の池の跡を確認したと発表した。
 北条氏邸跡は狩野川東岸にあり、平安時代末から鎌倉時代初期の北条氏の館跡と、鎌倉幕府滅亡(1333年)後の菩提を弔う室町時代の寺院跡が重層的に存在する場所として国史跡に指定されている。
 同市教委の発掘調査は北条氏邸跡の整備を行うため、平成8年から行われており、36次目の調査。13年度の調査では庭園の池の一部が確認された。
 今回の調査対象は、円成寺の中心地域にあたる面積約400㎡。発掘調査を2月から行い、安山岩の礎石が6m四方に2m間隔で11個配置された堂舎跡と楕円形をした庭園の池跡(東西14m、南北15m、深さ推定1m)を確認した。礎石は最大で90cm×60cmあり、建物は6m四方の正方形と推定されるという。周辺からは燭台(しょくだい)や香炉など寺の道具も見つかっていた。池跡から出土した皿などから、堂舎は14世紀末から15世紀初頭にかけての築造と推定される。
 円成寺は最後の執権となった14代北条高時(1303-1333)の母、覚海円成(?-1345)が開いた尼寺。鎌倉幕府が滅亡すると、北条氏の武士らは戦死や自害し、円成尼は残された子女を保護するとともに、同寺を建立して北条氏の死者を弔ったという。同寺は江戸時代中期に焼失している。
 同市教委によると、市内の寺などに残る室町時代の古文書の写しには、当時の将軍・足利尊氏の弟・直義(ただよし、1306-1352)が、円成寺に周辺一帯の支配を認める旨が記されているといい、古文書などの文献と遺跡が合致する極めて重要な発見としている。
 北条氏が館を構えた伊豆の国市の守山周辺には、願成就院や伝堀越御所跡など中世の遺跡が集中するが、室町初期の象徴的な遺跡はこれまで見つかっていなかった。この地域が鎌倉から南北朝、室町時代へと連続して、政治的に重要な位置を占めていた可能性がある。
 北条氏邸跡が位置する守山は北条氏の本拠地で鎌倉時代に伊豆北條と呼ばれていた。守山の東側には氏寺である願成就院が建てられ、北西側の谷の内部には北条氏の館が建てられた。(伊豆の国市HPより)
[参考:読売新聞、産経新聞、静岡新聞、中日新聞、伊豆の国市HP]

写真:守山八幡宮
 今年の正月は、三島大社から伊豆の国市へ行った。願成就院には行くが、残念ながら北条氏邸跡(円成寺跡)には行かなかった。願成就院を少し北へ行くと守山八幡宮の参道があり、そこから西に長く急な階段を登り終えると守山八幡宮がある。源頼朝の旗挙げの地でもあるし、当地区の鎮守である。この守山を越えて北西に北条氏邸跡(円成寺跡)がある。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする